天野八郎 
 あまの はちろう 

幕 臣
 
  天保2年、上野国甘楽郡磐戸村の庄屋大井田吉五郎の次男(三男とも)に生まれる。諱を  

  忠告、称を林太郎、号を斃止。幼い頃から剛毅な性格で、文武を志して江戸に出、慶応元  

  年に定火消与力広浜家の養子となる。将軍家茂の第三次上洛の時、京都に於いて200俵を  

  給され初めて正式な武士として登用を受けた。旗本天野家を称して八郎と改名。出生地の  

  名から「天の岩戸」にちなんだとも言う。5尺2寸と背が低く小太りで、ヒゲの剃り跡が  

  青々と濃く、笑窪が出来、象牙製の総入れ歯をして強い上州訛りがあったというが、下谷  

  中御徒町に妻ツネと一男一女を設け幸福な暮らしであった。  

  慶応4年正月の鳥羽伏見に敗れた前将軍慶喜が江戸へ敗退、朝敵の罪名を帯びて上野寛永  

  寺の大慈院に謹慎すると、2月12日一橋家家臣の有志が雑司ヶ谷の茗荷屋に集まり「多年  

  の鴻恩に報いる為の共力同心」を誓う。集まったのは僅かに17名であったが、この呼びか  

  けを導火線に、四谷鮫ケ橋の円応寺に本拠を移し集会が繰り返され、幕臣としては履歴の  

  浅い天野八郎がこれに加わった。頭取は一橋家で奥祐筆を勤め、慶喜の大政奉還に最も反  

  対した家臣の渋沢成一郎(渋沢栄一の従兄弟)であり、天野は既に広浜家とは縁が切れて  

  いたが副頭取に推挙され、2月23日には浅草東本願寺を屯営地とする「彰義隊」を結成。  

  本山を京都に持つ本願寺から離れ、あくまで慶喜守護を大義名分とし上野寛永寺に本拠を  

  移し、門主である輪王寺宮を擁した。対する薩長土中心の東征軍5万は有栖川宮を総督に  

  立てて江戸に迫り、3月14日には勝海舟と西郷隆盛の会談により江戸城無血開城が決定、  

  その後慶喜が水戸に退隠する。江戸は秩序も治安も乱れ、旗本や諸大名が知行地や近郊に  

  退去し、市中では強盗による略奪や婦女暴行等が横行した。この間、彰義隊には開城に反  

  対する旗本や脱藩者が続々と参集し膨張したが、頭取の渋沢派が慶喜が江戸を離れた後は  

  日光へ隊を退かせての再建を主張、強引な軍資金調達を図ったのに対し、江戸府内での抗  

  戦を主張する天野が激怒し、渋沢が脱退。旧幕臣小田井蔵太、池田大隅守を頭に、天野が  

  頭並となって実権を握った。30万坪に及ぶ上野寛永寺の敷地に柵を巡らせる時には侠客新  

  門辰五郎が陣頭に立ち、一般庶民も手伝った。幕府の処理全権を受け持つ勝海舟の対西軍  

  戦略構想にも、無論彰義隊の兵数は入っていたものと思われる。市中警護の彰義隊人気は  

  市民からは絶大で、江戸に入った東征軍も神田川を境に郭内は品川方面占領に留まり、彰  

  義隊の勢力地である上野、外神田、下谷浅草地区には踏み込めなかった。若者の多かった  

  彰義隊士は地元江戸での気勢が高く、官軍兵の象徴である錦の袖章を「錦切れ(キンキレ)」  

  と蔑称し、これを奪い取る等して挑発、衝突を繰り返し、吉原では遊女が「彰義隊の情夫  

  (イロ)を持たねば恥」ともてはやす程であった。  

  しかし新政府にも、長州の大村益次郎が軍防事務局判事として江戸に着任、彰義隊の市中  

  警護の任は解かれる。軍事の天才大村による完全な作戦を立てて新政府軍は上野を包囲、  

  5月15日に一斉攻撃を開始した。天野は黒門を始めとする八つの門を馬上疾駆して指図し  

  たが、最新式装備を誇る新政府軍の砲兵隊に旧式装備の彰義隊は圧倒され、指揮官が号令  

  して突撃すると、掛け声で呼応したはずの兵士が、振り返ったら逃げ散っており誰一人つ  

  いて来ていなかったという程の散々な敗戦であり、開戦前の期待も空しく僅か1日の戦闘  

  で壊滅した。江戸の町民には弁当持参で高見の戦見物をしていた者もあり、あっけない終  

  戦の後は連れ立って戦場を見物に出かけ、官軍兵が戦利品の彰義隊の兵糧米を放出すると  

  瞬く間に50俵、100俵と持ち去られ、群集が焼け残った境内に入って寺の器物も奪い去った。  

  三枚橋付近の激戦地では、裏金叩き葵御紋付の立派な陣笠を被った武士がゴロゴロと倒れ  

  ており、官軍が彰義隊士の死体をなますのように切り刻み、裸で死んでいる者、経文を手  

  に木に寄り掛かって死んでいる者もあるという悲惨な状態であったという。  

  天野は戦場を脱出して再起を図り、本所の炭屋文次郎宅に潜伏していたが7月に捕らわれ  

  獄に入る。獄中の手記「斃休録」に、槍印他に使った天野自身の目印である将棋の「香車」  

  について、「これ一歩も横へ行き、後へ引くの道なきことを表するの証なり。東台(東征軍)  

  に一敗すといえども、職掌を尽して他に譲らず。決して香車に恥じず。」と書き記した。  

  将として様々な側面を考え各種の軍略を講じぬ不器用さが彰義隊壊滅の結果に繋がったと  

  もいえるが、真っ直ぐに突き進み「たおれて初めて止む」と自らに号した心境に通じるも  

  のであろう。明治改元後の11月8日獄中死。享年38歳。  

  八郎の遺体は回向院に埋葬されたが、1890年11月に回向院から円通寺に改葬される。  



The music produced byふみふみさん
MIDI ON / OFF


佐幕人名鑑に戻る


このページは幕末維新新選組の著作物です。全てのページにおいて転載転用を禁じます。
Copyright©All Rights Reserved by Bakumatuisin Sinsengumi