姉小路公知 
 あねのこうじ きんとも 

尊攘激派公家
 
  天保10年12月5日、近衛権少将・姉小路公前の長男として京都に生まれる。幼名を靖麿。公知  

  が育ったのは、ペリー来航を挟んで急激に尊皇攘夷論が高まり、時の孝明天皇が外国を忌み  

  嫌い、幕府大老井伊直弼が米国との通商条約を断行し、反対派を弾圧した頃でもある。若い  

  公卿である公知が尊攘の風潮に感化されたのは不思議ではない。公知は尊攘派として幕府  

  の開国条例の勅許には反対公卿の急先鋒的人物であり、大納言中山忠能主唱の反対連盟に  

  も率先して参加、署名している。尊攘論の最も過激な長州藩と接近、同年代の三条実美と  

  共に、朝廷における長州の代弁者と目される程でもあった。文久2年10月12日、幕府への  

  攘夷実行、親兵選貢の勅命伝達の別勅使として、正使三条実美の副使を命ぜられて江戸東  

  下し、11月27日江戸城において朝旨を伝達した。この時公知は土佐勤皇党盟主である武市  

  半平太を雑掌(公卿の用人)としている。その後は国事参政となり、翌文久3年4月、海  

  の防備巡検を命ぜられ、25日の午後、幕府の順動丸に乗船、勝安房守海舟の接待によって  

  摂海沿岸の警備を視察した。公知も単に観念的な攘夷論者ではなく、勝から「これからは  

  海軍でなければ日本の警衛は立ち行かない」と、砲台の築造計画、海岸防御の方法、要す  

  る費用の説明等を受け、勝の腹心である土佐浪人の坂本龍馬から、蒸気機関の模型、セバ  

  ストポールの戦図、高野長英訳コノフ著「撒兵答知機」の兵書を贈られ、彼らの説に触れ  

  る事で、猪突猛進的に攘夷を唱えるだけでは無謀であると悟る。前出の土佐の武市や轟武  

  兵衛らに「姉小路卿は幕府に篭絡された」と言わしめる豹変は、やがて過激尊攘派からは  

  幕府の言うなりに開国論に傾いた寝返り者との反感を受ける事になる。尊攘派が将軍家茂  

  から言質を取って約束させた「攘夷決行期限」である5月10日になり、長州の久坂玄瑞ら  

  が馬関海峡の米仏蘭の軍艦を砲撃、攘夷を決行したが、関東からは期限を実行する旨の報  

  が届かず、公卿らは20日遅くまで論議中であった。この席上、前年7月に薩摩が起こした  

  英人殺傷の「生麦事件」に対する賠償金30万両を、なんと幕府が5月9日、つまり攘夷実  

  行の前日に支払っているという一報が飛び込んできた。天皇との約束を守るどころか、外  

  国に対して膝を屈し金を払ったのであるから、尊攘激派にとっては不快極まる話であった。  

  国事係の公卿たちは亥の刻(夜10時)に御所を退出、公知は宜秋門から北回りで帰途につ  

  いた。同行者は吉村右京(雑掌)、金輪勇、太刀持ち、草履持ちらの五人であり、一行は  

  朔平門を過ぎ、東北の角隅「猿ケ辻」に差し掛かるが、突然、溝に隠れていた三人の刺客  

  に襲われる。気丈な公知は「太刀」と叫んだが、太刀持ちと金輪勇が驚いて逃げてしまい、  

  手にしていた笏で立ち向かう。吉村は抜刀して応戦、賊を追い払って戻ったが公知は既に  

  頭や胸に斬撃を受け重傷を負う。吉村の肩にすがって五町ほど離れた自邸に帰り、玄関で  

  「枕」と叫んだが、その後に昏倒、出血多量で死亡した。25歳。調書には、鼻の下に5分  

  程の傷、頭蓋骨はいささか欠損していて斜め4寸の深さ、胸部左鎖骨は長さ6寸深さ3寸  

  の傷、縫い合わせた針数が28と残っている。乱闘中、刺客の一人の懐に飛び込んで公知が  

  奪ったとも、逃走寸前に投げ付けていったともいう「奥和泉守忠重」刻銘の刀と、履いて  

  いた下駄が残されており、これが薩摩の「人斬り新兵衛」こと田中新兵衛の佩刀と薩摩下  

  駄であったとされ、田中が捕らわれる。田中は一時、土佐の武市と義兄弟の仲であった程  

  で、同じく親しかった土佐の那須信吾が、田中の物だと証言した。刀は数日前に盗まれた  

  もので、田中程の剣客が慌てて証拠を置き去りに逃げ出すはずがないともいうが、田中は  

  幕府大目付永井尚志の訊問に対して沈黙を通し、公知殺害の6日後、取調べ中にその忠重  

  を奪って腹、喉を刺して自殺。この事件を契機に薩摩藩が御所出入り差し止めとなった事  

  から、暗殺事件そのものが、朝廷内での公武合体派の先頭に立つ薩摩藩の勢力を抑える為、  

  長州他、他藩の策略ではないかと言われている。公知は25日になって生前の功績を追賞さ  

  れ、参議左近衛少将を贈られた。この三ヶ月後には8月18日の政変という長州、尊攘激派  

  一掃の会津・薩摩連動してのクーデターが起こり、三条実美らは「七卿落ち」として追わ  

  れる事になるのだが、文久年間に暗殺が多かったとはいえ、公卿が殺されるというのは他  

  に例が無かった。ちなみに「猿ケ辻」は御所の鬼門である東北角に当たり、御幣を担いだ  

  猿が魔除けとして据えられ、角をわざと欠かせる切り込み型の塀となっており、公家屋敷  

  の軒に周囲を囲まれた狭い辻で、暗殺者が潜むに頃合の不吉な場所であった。  

  文久3年5月20日没  

■ 御 家 紋 ■




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