幕臣 |
天保6年2月17日、江戸に於いて旗本・山岡市郎右衛門正業の次男に生まれる。幼名を謙三 |
郎。後に精一郎。通称精一。諱は政晃。号を忍歳といい、有名な泥舟は後年の号である。 |
生家の山岡家は槍の自得院流(忍心流)の名家で100石、精妙を謳われた長兄山岡紀一郎静山 |
に就いて、泥舟も槍を修業し、海内無双と呼ばれまさに神業に達したとの評を得るほどで |
あった。泥舟は母方を継いで高橋包承の養子となったが、生家の男子が皆他家に出た後で |
静山が27歳にして早世した為、山岡家に残る妹の英子の婿養子に門人小野鉄太郎を迎えた |
のが義弟・山岡鉄舟である。 |
小石川鷹匠町に140坪の拝領屋敷を構え、安政3年3月2日講武所槍術教授方出役となり、 |
御所院番を経て、万延元年閏3月8日槍術師範役並、奥詰等を経て二ノ丸御留守居格布衣 |
を仰せつけられる。 |
文久3年2月25日一橋慶喜に随行して上京。京都において御徒頭となる。将軍家茂から親 |
諭され、次いで清河八郎ら帰京浪士組の取扱を命ぜられ、特に勅許を奉じて同3月11日、 |
従五位下伊勢守を叙任。中山道を江戸へ戻った後に、清河遭難の首級と対面した。浪士組 |
が倒幕派志士との繋がりがあった事で疑いを受け、小普請人差控となるが、やがて講武所 |
槍術師範に復帰し、慶応2年11月講武所の廃止とともに新設の「遊撃隊」頭取と槍術教授 |
頭取を兼帯する。慶応4年、幕府が鳥羽伏見の戦いに敗れた後は帰京した将軍徳川慶喜に |
恭順の道を説き、2月12日江戸城から上野東叡山に退去恭順の慶喜を護衛した。勝海舟が |
徳川処分問題交渉に於いて、官軍の西郷隆盛への使者にまず白羽の矢を立てたのは、高橋 |
泥舟であり、誠実かつ剛毅な人格を見込んだものである。しかし泥舟は慶喜から「伊勢、 |
伊勢」と親身に頼られる存在であり、薩長の東征に反発する江戸の不穏な情勢の元、慶喜 |
護衛の支柱として、自身は主君の側を離れる事は出来なかった。代わりに永年不遇にあっ |
た義弟山岡を駿府へ派遣する事を推薦し、山岡は見事に大役を果たす。この連携が難局を |
突破する事になったのである。4月11日江戸開城の日も泥舟は水戸へ下る慶喜を護衛。後 |
に徳川家が静岡に移住するのに従い地方奉行などに任じ、廃藩置県後は職を辞して東京に |
隠棲、書画の鑑定等で後半生を送り、新政府任官の誘いには、「総理大臣にならなっても |
いいが」と相手が二の句を告げぬような言葉で断った。主君の前将軍が二度と世に出られ |
ぬ身で過ごしている以上、自らは官職に上り新しい栄達や叙爵等を求める事は出来ぬとい |
う姿勢を貫いたのである。号の「泥舟」の由来を聞かれて自分は狸ならで泥で作った舟な |
らばうかうかと海にこぎ出さぬのが良いと「かちかち山」の例をひいた。また、鉄舟が先 |
に没した時に山岡家に借金が残り、その返済を義兄の泥舟が工面する事になったが、勿論 |
自分にも大金があるはずはなく金貸しに借用を頼む時「この顔が担保でござる」と堂々と |
言い、相手も「高橋先生ならば決して人を欺くはずがないでしょう」と、顔一つの担保を |
信用して引き受けたという逸話がある。 |
勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の三人の幕臣を称して「幕末三舟」と呼ぶのは有名な所であ |
るが、勝は明治の後年、泥舟を評して「あれは大馬鹿者だよ、何しろ物凄い修業を積み、 |
槍一つで伊勢守にまでなった男さ。あんな馬鹿は近頃は見かけないね。」という内容を語 |
り残している。槍一筋、節義一筋に生きた泥舟の生き方を、小才子が跋扈する今の世では |
もう出て来るまいと勝流に賛辞した表現であろう。 |
明治36年2月13日牛込矢来町の自邸で没す。享年69歳。墓は東京都台東区谷中六の大雄寺。 |
野に山によしや飢ゆとも 蘆鶴(あしたづ)の 群れ居る鶏(とり)の 中にやは入らむ |
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