江 戸 基 礎 知 識 録

江戸の年中行事
江戸時代は旧暦(陰暦、別項の暦の欄を参照)であるから、一年の始まり元旦=が春の初めで あり、文字通りの「初春」「新春」となる。1月〜3月が春、4月〜6月は夏、7月〜9月が秋、 10月〜12月は冬、と、暦の上での月と四季の季節感が合致しているという点では、現代より わかりやすい。陰暦には、不定期で閏月が入るなどもあり必ずしも一定はしないものの、 現在は3月〜5月が春、とされている事から、今とは1〜2ヶ月の季節感のずれがあると 考えてよい。西洋式の新暦に移行してから昔の日付をそのまま今の年中行事に組み込んだ場合、 桃の節句に桃がなく、秋空を眺めた七夕が梅雨時、という誤差がすべてに生じるから、 旧来の行事にあわせて自然の産物を供えようとすれば温室栽培や人工物などで「先取り」 している。昔は年中行事と季節感が一体であった、という事を念頭に入れれば 江戸の各月の習慣もわかりやすい。

一 月
[別称]
睦月(むつき)・孟春・初春月・早緑月(さみどりづき)

[主な行事]
元旦……恵方(えほう)参り。初日の出。若水汲み。年賀の回礼。
2日……初夢。初商い。
3日……芸事始め
7日……七草(七種とも書く)粥
11日……蔵開き
14日……年越しの祝い
16日……薮入り。閻魔の祭日
20日……恵比寿講
24〜25日……亀戸天満宮鷽替(うそかえ)の神事

一年の計は元旦にあり、との諺通り、初日の出を迎えた後の一日の朝(元旦。元日の旦=朝)は 文字通り年の初めに相応しく特別に心身を改める意味がある。元日の未明にはその年の歳徳神 (としとくじん)が来る方角=恵方にある神社仏閣に参詣するのが恵方参りで、今の初詣の原型である。 初日の出は見通しの良い海岸や高台で拝み、江戸の東端にある洲崎が特に有名。初日と共に、神聖な 山である富士山も「初富士」と呼んで拝んだ。元日に汲む水を「若水」と特に呼ぶのも年の始めの意味。 元旦には屠蘇を飲み、雑煮を食べる。時計で零時を知る現代とは違い、夜更けが1日の区切りとは 定かではないから、年が明け2日に見る夢が「初夢」となる。2日には商店が新春大売出しを始め 初商いと呼ぶ。近年は季節感が薄れ三が日も休まない店舗がまた増えてきているが、地方には以前から 「2日が初売り」という習慣が残っている。新年の江戸の町では門付け芸人たちが街頭に出回り、 太神楽や三河万歳、猿回し、角兵衛獅子、春駒踊りなど賑やかにやって来る。お年玉用の扇売り、 双六売りなどの行商も来て、子供に与えるのは現金に限らないのが今と違うところ。 新春興行としては江戸三座の初芝居、大相撲の初場所がある。江戸の芝居は12月に「顔見世」をするため 正月興行を「二の替わり」とよび、吉例として新春に相応しい舞踊や蘇我物の歌舞伎が演じられる。 江戸では7日までが松の内で、この間は家の掃除をしない。大掃除で清めた後に迎え入れた新年の幸福を 箒で掃き出さないため、というのが理由で、同様に7日までは手足の爪を切らない。 7日には「春の七草」つまり、せり・なずな(ペンペン草)・ごぎょう(ハハコグサ)、 はこべら、ほとけのざ、すずな(カブ)、すずしろ(ダイコン)を入れた粥を食べる。 新年の御馳走や酒で疲れた胃腸を休めるという意味もあると思われ、まないたの上で 「七草なずな、唐土の鳥が……」と故事にまつわる正月の疫病よけを唱えながら叩いた草を入れる。 七種の若菜を見ても旧暦の正月は早春の季節であることがわかる。14日の年越し祝いから16日の薮入りを 小正月、といい、「薮入り」は奉公人にとっては1月、7月と年に2回の貴重な休日。商家の小僧に 出した我が子が「薮入り」で久し振りに実家に里帰りするのを迎える両親の嬉しさは今でも同題の落語に なっている。小正月を過ぎると街も静かになるが、下旬からは鶯が鳴き始め、一層春の訪れを感じる。

二 月
[別称]
如月(きさらぎ)・仲春・梅見月・雪消月(ゆきげづき)

[主な行事]
月最初の午の日……初午
春分前後の7日間……彼岸。六阿弥陀詣で
8日……淡島神社の針供養
15日……涅槃会
25日……雛市の始まり

1月から2月にかけてはまだ少し寒いが風流人にとっては欠かせない梅見の季節の到来。 梅の名所は亀戸梅屋敷、蒲田の梅園、向島百花園など、いずれも郊外が多いので、田圃道を たどっての小旅行気分で出かける。梅の花は気品があって香気が高いので、古くから文人墨客に 愛好された。「梅一輪、一輪ほどのあたたかさ」は嵐雪の名句だが、色ごとに開花期の違う紅白梅 が開くごとに、春が確実にやってくる楽しみもある。幕末には後年の新選組副長となった 土方豊玉(歳三の俳号)がこの句を意識したのか定かではないが「梅の花、一輪咲いても梅は梅」と詠んだ。 「梅は咲いたか、桜はまだかいな」というのは春が熟す楽しみを入れた有名な唄。2月に入ってから 最初の午の日が初午で、市内各地にある稲荷社の祭事であるから、絵馬売りや太鼓売りが町々を 行商し、子供たちが追い掛け回す。鈴木春信画の「二月」には太鼓をかつぎ、稲荷大明神と書いた 幟をかざして歩く子供らが描かれている。初午の日だけは、子供たちは一日中太鼓を鳴らしても 叱られない。初午は稲荷社に幟や地口行灯をつるし、太鼓を打ち鳴らし、幟や絵馬を奉納する人々で 賑わう。神社としては東国稲荷の総社と呼ばれた王子稲荷が最も有名で、参詣の帰りに音無川沿いの 料理屋で休む人々の絵図なども残っている。春、秋の彼岸には後生を願い六阿弥陀詣でがなされ、 江戸近郊6ケ所にある行基作と伝えられる阿弥陀仏の木像への参詣だが、陽気がよくなってきた 頃のハイキングを兼ねた行事であった。

三 月
[別称]
弥生(やよい)・季春・花見月・桜月

[主な行事]
3日……雛祭り
4〜5日……奉公人の年季交替
上旬の大潮の日……汐干狩り
15日……木母寺の梅若忌
17〜18日……浅草三社祭

3月3日は五節句のひとつ雛祭りで、咲き誇る桃の花を飾り女の子の祭りで、武家町家とも 贈答品で大わらわとなる。武家では雛を座敷一杯に広げるが、町家は狭いので雛壇に 飾った。2月末から3月にかけては、長崎出島の商館長が将軍に謁見しに江戸へ来るが、 その時の定宿は本石町の長崎屋で、オランダ人をひとめ見ようと「長崎屋、今に出るかと 取り囲み」と川柳が残るように、人々が周囲に集まった。雛祭りが終われば花見の本番で、 江戸の桜の名所としては、上野寛永寺、飛鳥山、御殿山、隅田川堤、吉原の夜桜、小金井堤 等がある。御殿山の桜は幕末には英仏公使館を建てるため伐採されてしまった。 上野山内には有名な秋色桜を始め、早咲きから遅咲きまで各種の桜がある。 「江戸花暦」には上野の桜として「彼岸・水上・三吉野・籏桜、山桜、楊貴妃、都、浅黄、 虎ノ尾、犬桜」等、一重から八重の各種の図が載っている。現代では桜といえば「染井吉野」だが、 江戸の染井の職人たちが改良した新品種であり、江戸以前にはなかった桜である。 桜の他にも、桃、梨、山吹、つつじなど春の花が咲き揃い、行楽を兼ねて若菜を摘みに行く 「摘み草」も三囲、新宿十二社、小梅、亀戸、日暮里、道灌山等の各地へ出かけた。 水もぬるむので釣りに行く者も増え、品川、高輪、洲崎の海では汐干狩りも大きな楽しみであった。 また、江戸では「天下祭(山王祭と神田明神祭)」「深川八幡祭」と並んで有名な「三社祭」が 17、18日に行われ、神輿が浅草御門から船で隅田川をさかのぼり、花川戸近くで陸にあがるという 派手な祭りであった。

四 月
[別称]
卯月(うづき)・孟夏・夏初月(なつはじめづき)・花残月(はなのこしづき)

[主な行事]
1日……更衣(ころもがえ)
8日……潅仏会(かんぶつえ)

4月から夏になるので、1日の更衣で着物は綿入れから袷(あわせ=表地と裏地を縫い合わせたもの、一枚ものは単=ひとえ) に変わるが袷ではまだ寒い。9月8日の重陽の節句前日までは足袋を履かない。3月末頃から蚊が出始めるので、 蚊帳売りが独特の美声で「もーえーぎーのかーやー(萌黄の蚊帳)」と節をつけて売り歩く。牡丹、藤、カキツバタ、 ホトトギスも4月の風物で、8日は釈迦の誕生日である「潅仏会」(花祭り)が行われ、寺々では花御堂といって季節の花で 屋根を飾り、その中に誕生仏を安置して水や甘茶を潅(そそ)ぐ。当日には釈迦の潅仏を持ち回って銭をせびる 「とうきたり」という乞食もいた。初夏の風に揺れる藤は立夏から15日頃が見頃で、亀戸天神が特に有名で 太鼓橋と共に名物であり本所堅川から亀戸までの船旅の楽しみもあった。藤見の名所としては根岸の円光寺、 小石川の伝明寺。牡丹は「百花の王」と賞賛されもっぱら観賞用の花で、獣の王・獅子と組み合わせられる。 木下川薬師、深川永代寺、谷中天王寺などが名所だが、吉原仲の町では開花時のみ移し植えを行い客寄せにした。 「目に青葉、山ほととぎす、初鰹」(素堂の句)が初夏の代表作であるように、初物の鰹が姿を見せ、江戸っ子に とっては「女房を質に入れても」という位で、着物を質に入れた金であっても、人より早く鰹を食べるのが心意気と された。陽気が暖かい時期であるから、鰹売りも早い時刻には売り切ってしまわなければ腐ってしまい、 商品にならない。初物の頃にわざわざ高騰する値で鰹を買うのは見栄っぱりの江戸っ子であって、関西には そういう風習はない。

五 月
[別称]
皐月(さつき)・仲夏・さくも月・田草月(たぐさづき)

[主な行事]
5日……端午の節句
28日……隅田川の川開き

5月といえば端午の節句。男の子の立身出世を願って滝を昇るという「鯉のぼり」を上げ、邪気を払う力が あるという菖蒲を軒先に差したり、菖蒲太刀を飾り、菖蒲湯を立てる。端午の節句から8月末までは、 袷ではなく帷子(かたびら)を着る。中旬に大相撲夏場所。晴天十日と決まった露天興行なので、梅雨時と ぶつかり雨天順延を重ねて、千秋楽は6月に入ってしまうことが多い。立夏から1ヶ月ぐらいは蛍狩りの 季節で、谷中の蛍沢、高田落合、目白下、目黒などが名所。団扇や笹竹などで飛び回る蛍を捕まえ、竹細工の 虫篭に入れて光を楽しむ。街中では蛍売りも流している。 5月末から6月にかけては神田明神の守り札を配り歩く男「わいわい天王」が、羽織袴、猿田彦の面をつけ、 にぎてを持って「わいわい天王、はやすがお好き」と唱えながら札を撒く。5月28日から8月28日までは、 幕府が隅田川での納涼を許可する。初日の川開きでは、両国で盛大に花火が上がり、橋の上下に人が鈴なりと なって「玉屋」「鍵屋」と歓声をあげて盛り上がり、盛り場の営業時間も延びる。

六 月
[別称]
水無月(みなづき)・季春・風待月・常夏月(とこなつづき)

[主な行事]
1日……氷献上。富士山の山開き
9日……鳥越神社祭礼
15日……山王権現祭
晦日……夏越の祓い

6月は夏の盛りで、雨が少ないから水無月という。1日には城中で氷室の御祝儀が行われ、将軍が臣下に 氷を与え、町家ではそれを真似た氷餅(凍餅)を食べる。この日が富士山の山開きにあたり、市内各地に ある浅間(せんげん)神社は「お富士さん」と呼ばれ参詣人で賑わい、駒込の富士神社では麦わら細工の蛇が 厄除けのお土産として名物で、台所に釣ると火事、厄病除けになるといわれていた。蒸し暑い時期は 涼を求め川端の夕涼みに出る。堀割が町を縦横に走っているので水辺の涼をとる場所は多い。街では水売り、 金魚売りが涼しげな売り声で流す。金魚、メダカを飼育するようになったのは江戸中期で、透明なガラス ではない金魚鉢は平たく、上から水面を見下ろすもの。15日が日枝神社山王権現祭で、夏祭りシーズンの 真打ちであり、将軍も城内で山車の行列を御覧になる事から「天下祭」と呼ばれ、神田明神の祭と並んで 江戸の二大祭礼。45台の山車が勢ぞろいして町中を練り歩く雄大な規模の祭だった。月末には1月から6月の 半年の汚れと厄をはらう「夏越の祓い」という行事があり、佃島住吉神社ではその前二日間の祭が有名だった。

七 月
[別称]
文月(ふみづき)・孟秋・秋初月(あきはじめづき)・七夕月

[主な行事]
1〜末日……施餓鬼、吉原の玉菊灯篭。
7日……七夕
9・10日……浅草観音の四万六千日
12・13日……草市
15日……孟蘭盆会(うらぼんえ)、薮入り
26日……二十六夜待

七月からようやく秋に入る。虫干し(土用干し)には二日続きの晴天の後が良いとされ、 晴れた日に衣服や書物などを広げ、カビや虫の害を防ぐ。寺や神社はそれも兼ねて、宝物類を 拝観させる。初旬には井戸替えを行う。井戸の底の落ち葉やゴミなどをさらい、内側を清める 作業だが、一度井戸の水を全部汲み出してから掃除をするのでかなりの重労働であり、一家、 或いは家主以下、長屋共同で総がかりで行う。井戸替えは七夕飾りを清水に映すと縁起がよいと いう理由だが、寒い時期にするのは大変であるから、夏の終わりを期に井戸水を綺麗にすると いうのは、庶民の生活から生まれた知恵であろう。七夕は7日に行う。色紙や短冊、紙製の盃、 瓢箪、吹流しなどの飾り物を笹につけた七夕飾りを、軒先に高く吊るす。盆が来ると、芝大門前と 西久保広小路の市内二ヶ所で盆踊りが行われるが、これは越後(新潟県)出身者の集まりで、全部の 江戸人の行事ではない。お盆にはキュウリ、ナスなどに棒をさして馬や牛を作り、精霊棚に供え、 里帰りする祖先の霊を慰める。1月同様、奉公人の休日である「薮入り」も盆の慣例。26日は月の 出を待って拝む二十六夜待(やまち)の行事で、阿弥陀三尊が見えるといい、芝高輪の海辺、湯島や 神田の高台が賑わい、夜更けまで料理屋で大騒ぎする客も多かった。

八 月
[別称]
葉月(はづき)・仲秋・月見月・紅染月(べにぞめづき)

[主な行事]
1日……八朔
1〜末日……吉原俄
秋分前後の7日間……彼岸会
15日……月見。深川八幡祭礼

八月の朔日(朔=さく、ついたちのこと)を略して八朔、といい、徳川家康がこの日に江戸城に入城した 記念日を祝って、各大名が白い帷子を着て登城する。それに倣い、吉原では遊女が揃って白無垢を 着る。外見は白一色と清々しいが、残暑厳しい中での盛装は楽ではない。吉原ではこの日から「吉原俄(にわか)」 が始まる。俄、というのは即席演芸で、芸者や幇間(たいこもち)が廓内の街頭で繰り広げ、いわば吉原の お祭りであり出入りも自由で無料だから、8月一杯は見物客で大賑わいとなる。この月の十五夜が文字通り 「仲秋の名月」を鑑賞する月見。ススキが15本または5本、米粉の団子または饅頭を15個が決まりで、他に 柿、栗などの秋の果物も供えて月を愛でながら飲んで食べる、というのが江戸の月見。月見の名所としては 浅草川(隅田川)、深川、品川で、いずれも遊里が近く、秋の夜を楽しむ客が繰り出した。15日は江戸の神社で 最も多い八幡宮の元締めである深川富岡八幡宮の祭礼。8月は萩や雁の月でもある。萩寺と呼ばれるほどの 随一の名所が亀戸の龍眼寺で、現在でも江戸以来の紅白の萩が多数植えられ観覧客が多い。萩の名所は他に 亀戸天神、三囲神社、向島百花園。

九 月
[別称]
長月(ながつき)・季秋・色取月(いろどりづき)・寝覚月(ねざめづき)

[主な行事]
1日……衣更え(更衣)
9日……重陽(菊の節句)
13日……十三夜(後の月見)
15日……神田明神祭
16日……芝神明祭

長月、は秋の夜長を示す言葉。秋も深まった9月の1日は更衣で、帷子から袷に、9日には綿入れとなり、 この時から3月までは足袋を履くようになる。春の桜と並んで、秋を代表する花は何といっても菊。平安時代の 菊花の宴以来の伝統を持つ高貴な花であり、平安以来、上流女性は菊の花の優劣を競い合う「菊合わせ」という 遊びを楽しみ、江戸にまで受け継がれた。9日の重陽は菊の節句で、諸大名は将軍へ菊花を添えた品々を献上し、 一般でも長寿を願い菊酒を飲む。花壇菊が一般化したのは江戸中期で、文化年間に巣鴨・染井の植木屋が菊人形を 作り、これが安政年間に千駄木団子坂に移って大人気となる。市内各所で秋祭りの時期でもあり15日は天下祭(将軍が 上覧する祭)として山王祭と並ぶ神田明神祭が開かれる。山車の数は36台で、桜馬場から御茶ノ水、湯島を経て各町を 練り歩く。江戸名所図会には「大江山凱陣」という巨大な鬼の頭部をかたどった練り物を曳いて歩く祭のさまが 描かれている。翌16日は芝神明祭で、正しくは飯倉神明宮祭といい、芝大門にある通称芝大神宮の祭。9月11日から 21日まで続くので「だらだら祭り」とも呼ばれ、境内に江戸名物谷中のショウガを売る店が多く出たため生姜市とも。 「芝神明は御江戸第一の長祭り、ちげ、生姜を売るなり、神灯、提灯多し」と祭の様子を描いた図の詞書にある。 「千木箱(ちぎばこ)」は曲物の一つで、中に飴や豆を入れる。秋祭りが終わると江戸も冬支度に入る。

十 月
[別称]
神無月(かんなづき)・孟冬・神去月(かみさりづき)・初霜月

[主な行事]
最初の亥の日……玄猪
6〜15日……十夜法要
8〜13日……御会式(おえしき=御影供法会・おめいこうほうえ)
20日……恵比寿講

10月からが冬。最初の亥の日が玄猪といい、万病をはらい子孫繁栄を祝う。武家では玄猪の餅、町家では猪=牡丹で ぼた餅を食べる。自家製なので家中で米をひき、小豆を煮る。この日は炉開きの日でもあり、茶の湯では風炉をしまって 炉を開き、一般家庭では室内中央に炉燵(コタツ)を用意し来客に火鉢を出す。数少ない暖房器具の使用開始である。 6日から浄土宗では十夜法要、8日から日蓮宗の御会式が始まる。13日の日蓮上人の命日にちなむ法要が御会式で、 式に使う造花売りが歩く。堀の内妙法寺、雑司ヶ谷法明寺、池上本門寺の御会式がことに賑わう。20日は商家の 恵比寿講で、1月と10月の2回あるが10月のほうが盛んで、恵比寿天に供え物をして商売繁盛を祈った。下旬からは 紅葉の季節で、名所は下谷正燈寺(台東区龍泉)、品川海晏寺、上野山内、王子瀧野川、目黒不動、根津権現(文京区根津) など。品川海晏寺と下谷正燈寺が南北の名所の双璧といわれ、それぞれ品川、吉原の遊里が近い。月見同様、 紅葉狩りを口実に遊びに出かけやすいという事もあるだろう。10月下旬から11月初旬には大相撲秋場所が始まり、 晴天十日が一場所で、深川八幡境内で始まったというが、興行場所を転々とした後、両国回向院境内となった。江戸の 相撲興行は春と秋の年2回。

十一月
[別称]
霜月(しもつき)・仲冬・神帰月(かみかえりづき)・雪待月

[主な行事]
酉の日……酉の市
1日……大歌舞伎顔見世
8日……ふいご祭り
15日……七五三(産土詣で)

11月には各地の鷲(おおとり)神社で酉の市がある。三の酉まである年は火事が多いというが、神社境内には 翌年の幸運をかき集める熊手を売る店が並び、参詣人でごった返す。また、唐芋(里芋の一種)が名物になっていたので 「屁の種と欲の種買う酉の町」などと皮肉な句も。8日がふいご祭りで、刀鍛冶、鍛冶屋、鋳物師、飾り職などふいごを 扱う職業の者が稲荷を祭る日で、職人の多い下町は賑わう。15日が七五三。産土神(うぶすながみ)、つまり氏神様へ 参詣する。見得のため、盛装した子供を肩車して神社に乗り込む。神官は連れられて来た子に土器(かわらけ)の 盃で御酒を飲ませ幣で身を清める。元来は武家の行事で、女子7歳の帯解き、男子5歳の袴着、男女3歳の髪置きの 祝いである。歌舞伎では1年単位で座を組むので、11月にはそのお披露目の意味で顔見世興行が始まる。また、11月は 雪が降るようになり、雪見の名所としては待乳山、上野山内、日暮里浄光寺(雪見寺)、不忍池、道灌山、愛宕山、三囲等。

十二月
[別称]
師走(しわす)・季冬・年積月(としつみづき)・春待月

[主な行事]
8日……事始め
13日……煤払い
中旬、下旬……歳の市
節分の日(立春前日)……節分会
大晦日……除夜の鐘

いよいよ師走となり、年の締めくくりの月となる。8日が事始めといって、新年を迎える準備にかかり、 正月用の道具を出す。天から降る福を拾うためといいザルや目籠を竿の上につけて屋上に立てる。13日が 煤払いで、1年間に溜まった汚れを落とす大掃除であり、各家とも大げさな格好で取り掛かり、大掃除の後は 年長者を胴上げして祝う風習もあった。現代の電気と違い、光熱には火を使うから煤がたまる。 師走になれば煤払い用の篠竹を売る行商人も歩き、芝居の「忠臣蔵」では赤穂浪士の一人、大高源吾が この扮装であるのも、江戸の庶民にとっては12月の討ち入り時期と季節感が直結するからであろう。 14日の深川八幡を皮切りに、寺社を転々と変えて歳の市が立ち、最も賑やかなのが浅草観音の市で、 文字通り江戸第一の大市で、羽子板を売る店が多かったので「羽子板市」の別名が出来た。 当時の立春前日は年末になる事が多く、豆まきの後で節分祈祷の守り札を撒く。浅草では柱の上の台から 大団扇であおぎながら、人だかりの上に札をばらまく様が描かれている。江戸での商取引は盆暮勘定、つまり 年に1回か2回が決算時期で、年の瀬ともなれば貸した方も借りた方も一大事。大晦日の深夜まで取り立て合戦の 攻防は続き、何とかツケを払わずに年を持ち越そうと長屋に立てこもる滑稽談が、落語などに残っている。


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