江 戸 基 礎 知 識 録

武家の種別
将軍を頂点にし、江戸の住民はそれぞれのグループに分かれて生活していた。 それを大きく区切ったのが士農工商の身分制度であり、士(武士)は他の身分より 格上の扱いが事実であるが、工商の上に「農」を置いたのは、武士の収入源である米を生産 するという事からで、金銭が重視された江戸では勿論商人の力が強くこの建前は崩れている。 江戸に住んでいた武士には2種類あって、一方は将軍家直属の家臣団。知行高1万石以上の 者が譜代大名、1万石以下の者が直参で、直参の中でも将軍に御目見(得)する、つまり 謁見を受ける資格がある者を旗本、ないのは御家人と呼ばれる。もう一方は地方に 領土を持ち、江戸に藩邸を構える諸大名の家臣団。この場合、大名のみが将軍の臣下 であるが、大名の家臣は間接的な臣下であるから陪臣、またものと言われる。将軍を 基準に考える為、一般の大名の家老よりも石高の低い旗本の方が格上、という図式になる。
大名は江戸の屋敷に妻子を居住させ、自分は一年おきに江戸と領国を往復して 住まうのが決まりで、これが参勤交代制度である。徳川御三家の中でも水戸藩主はほぼ 江戸常住であったり、幕末には一時期この参勤の制度を解除した事もあるが、藩主の 家族を江戸に住まわせるのは幕府に対する人質の意味もあり、また往復にかかる莫大な 費用を消費させ、領地に篭って反乱の力を蓄えさせない為でもあった。大名の参勤には 旅に必要なもの全てを持ち運ぶのが原則で、食べ物から屏風や風呂桶まで自家用のものを 担いで道中をするのである。通常、江戸詰の藩士は大名が戻る毎に入れ替えを行うが、 江戸の藩邸における最高責任者は江戸家老で、その下で対外折衝にあたるのが留守居役。 この両者は江戸常駐の役職である。江戸定住の藩士は少なく、国元に妻子を置いた単身 赴任者が殆どであり、本来は戦場の働きが武士の勤め、でもあるから武家の女手は少なく、 大名屋敷において女は奥方や姫のお付きだけのため日常生活の多くを男手で処理する。
武士の外出の際は供の者を連れるのが決まりで、どんな貧乏な御家人でも下僕一人は 最低必要であった。吉原遊郭に行く時でも「主僕一人」といって従者を連れてゆく。 この何でも屋の下僕を中間(ちゅうげん。折助、奴)といい、人材不足だと口入屋などの 紹介で雇い入れ、あちこちの屋敷に勤めて回るものを「渡り中間」等と呼ぶ。中間は 武士の象徴である刀の二本差しは許されず、年俸が三両一分であり、一はピンとも 呼ぶ事から、武家にいながら武士ではないという軽蔑の意味をこめる時「このサンピンめ」と いう悪口が出来たのである。大身の武家になると何人かの中間を抱え、その上の奉公人が 若党、さらに上が用人、となる。新選組の副長助勤原田左之助は脱藩前には若党で あり、公用の時だけ二本差しが許される身だったという談話が残っている。

武家屋敷
江戸は切絵図等にも見られるように大半が武家地であり、将軍の居所である江戸城の 周辺に諸大名の上屋敷があり、その外側に中屋敷、下屋敷もある。大名屋敷は数千から 数万坪もある為、江戸の土地の3分の2を占めていた。大名の上屋敷は日常用で、 奥方が住まうのはここになる。中、下屋敷は避難用で、下屋敷は大庭園のついたいわば 別荘として使われ、くつろいだ数奇屋風のつくりが多い。大名屋敷の間を 埋めるように旗本と御家人の小屋敷があり、まずは番町、次に駿河台と居住区が決められ 次第に外へ広がっていき、武家屋敷は江戸城の守りが当初の目的であるから、 下級武士ほど中心地の城から遠い。それぞれ禄高に応じて大小の差があるが、 いずれの屋敷も道路に面して門があり玄関を設けた書院造りの独立した建物である。 門と玄関は、町人では名主以外の者には許されていない。玄関に続いて広間、書院その他の 接客用区域、その奥が居間などの居住区域、さらに奥が妻たちの為の居住区域となっている。 現代にも人の妻を「奥方」「奥様」という呼び方が残っているが、これは文字通り「奥」のある 家の格式で許された呼称であり、一般の妻を「奥さん」とは呼ばない。武家屋敷の内部には 用部屋といって勤番の武士が主命を待つ控え室がどの大名家にもあり、大名の上屋敷は 江戸の役所にもなる為、江戸詰の家老や藩士の詰所が必要であり、その多くの者を住まわせる 長屋が敷地周辺に建てられる等、建物がかなり詰まった状態にあった。

町家
江戸の町人、つまり商人や職人の住居が町家(町屋)である。士農工商の身分制度上、商人は最下位に 置かれたが、実際には多くの武士が消費する一方の大都会江戸は、商人あってこそ立ちゆく町であり、 商人が江戸の社会や文化を動かし創り上げていき、後の時代になるほど経済面で武士を圧倒していく。 目抜き通りには大店が高級品を売り、町内では小店が日用品を、路地裏では行商人がすきまを 縫うように小商いをする。商家では勿論表が店で裏が住居。朝五ツ(午前8時)から暮れ六ツ半 (午後7時)までがおよその営業時間で、生活はすべて主人の意に従う。奉公人には武家と違い 女中や下女も使うが、大店になると接客は男に限られ、丁稚・手代・番頭と永年真面目に 勤める事で昇進、まれに主人に認められれば暖簾分けで独立開業出来るが数は少ない。 商家の奉公人は殆どが住み込みであり、主人から別に家庭を持たせてもらえるまでには 相当の年数がかかり、現代よりずっと適齢期が遅く、三十代半ばになってやっと十代の嫁を 貰うという事も少なくなかった。職人も多くは仕事場と寝起きする場がひと続きで職場兼用 住居、である。人口が多いのに江戸の5分の1ほどの狭い地域に押し込められていた町人居住区 では建物が密集し、長方形の町の通りに面して商店が建ち並び、四辺を囲まれた内側に商家の 住居や裏長屋がぎっしり詰まっており、今見る浮世絵などより実際の道幅はずっと狭かった。 過密都市であるから大商店では火災に備え頑丈な土蔵を建てて家財を守り、家そのものは 三階家、中二階(低い二階家)、平屋など形やつくりは色々だが、都会である為に庭付き一戸建て など望む者はない。裕福な者は密集地から離れた場所に寮と称して別宅を持ったりする。

裏長屋
落語の「熊さん八っつぁん」が出てくるような裏長屋は、通称「裏店(うらだな)」といい、 表通りから入口に木戸のある路地を入った裏側にあり、小さな家が何軒も連なる「棟割 長屋」で、江戸町人の七割はこうした長屋に住んでいた。九尺二間(くしゃくにけん)の九尺店と 呼ばれる家が標準で、間口9尺、奥行2間、入口と台所を含めてわずかに3坪、6畳程の 狭さである。もっと狭いものは6尺×1間半で、3尺の土間の他に2畳の座敷。部屋数が2つ 以上あるのは上の部に入る。木戸は明け六ツ(午前6時)から夜四ツ(午後10時)まで開かれ、 その左右に「尺八指南」「灸すえ所」「本道、外科」等、住人の商売の広告が貼ってある。 中央に幅3〜6尺の路地があり、その下には下水溝が走り、奥側の一角に共同の井戸と、 人数に応じていくつかの大用と小用一つに分かれた便所があり、路地両側に3坪、5坪という 住まいが6、7軒ずつ向かい合っている。これほど生活空間が狭ければお互いのプライバシーは ないも同然で隣との物音は筒抜け、「裏店の壁には耳も口もあり」という川柳がある。 独立世帯どうしとは言っても共同生活の色合いが濃く、借りるについては大家(家守、 家主)の身元調べがうるさかった。大家は家の持ち主から任された管理代理人で、「大家といえば 親も同然、店子といえば子も同然」というように、住人にとっては怖い存在。嫁を貰うにも 大家の同意が必要、親子夫婦の喧嘩も仲裁するし、旅に出る時には旅行証明書の関所手形を 身元保証する大家が書く。何かあれば大家が店子の責任を負わされるのであるから 親なみに権限が大きいのは当然であった。大家の収入源の一つとして裏長屋共同便所の排泄物 (大)を肥料として近在の農家等に売った代金が入る。店賃は300文が相場で、 首吊り自殺等が出ると100文安くなる。

江戸の商い
江戸は消費者が常に過剰な為、商店や商人は目抜き通りに大店舗を構える大商人から道端の 屋台店の食べ物屋の小商人まで差が大きく、扱う商品の種類も様々である。現代と違う点は 取引の多くが盆暮勘定で、つまり年二回支払いの信用商売。市内で最も大きく立派な店は 呉服屋で、土蔵を前後左右に配し屋根は瓦葺き、間口20間も30間もあって出入りする顧客も 綺麗に着飾っている。現代と同じく季節の売り出しもあり、京橋通尾張町の大呉服店「恵比寿屋」 の店頭に「夏物類、格別安売りつかまつり候」「諸色あい改め大安売りつかまつり候」という看板の 描かれた浮世絵が残っている。日本橋の繁華街では季節に合わせ雛市、武者人形市、羽子板市 等が立ち人を集めた。庶民相手の屋台見世(店)は天明年間頃に現れ、荷車の上に屋根つきの台を 設け移動しながら街頭で商売し、鮨、天ぷら、蕎麦などの食べ物屋が多く、今でいうファースト フード店で、立ち食いが一般化した。
酒を別にすれば江戸時代のブランド品は製造元でしか買えないし、量産しても販売網は支店が せいぜい、顧客も殆ど歩いてくる範囲に限られるのだが、それでも江戸後期になると宣伝物が 増え、錦絵や黄表紙といった出版物にも入り込んだ。芸能人を商売に利用するのは今と同じで、 歌麿や英泉らの絵師が実在の名を入れた商品と人気役者や遊女、水茶屋の看板娘等を描いている。 宣伝広告のビラ、を引き札といい、平賀源内、式亭三馬、柳亭種彦、山東京伝といった錚々たる 文士がコピーライターとなって宣伝文句を書いているが、謝礼は安いもの。暑い盛りの立秋前 18日間の土用の丑の日に「う」のつくもの、うり、うどん、梅干などを食べれば夏負けしないと いう俗信を下敷きに、平賀源内が知人の鰻屋に「土用丑の日は鰻の日、鰻は腎水を増し、精気を 強くし食すれば夏負けする事なし」という名文を書いて、鰻の蒲焼を食べる事を広めさせたという 話は有名。
江戸で名高い商店は呉服商で、日本一を謳われる駿河町の越後屋、通一丁目の白木屋、通旅籠町の 大丸屋、上野広小路の松坂屋等で、現代の百貨店に続いている。他には袋物屋で流行の先端を いった「丸角」、京都に本店を持つ扇屋「御影堂」、伽羅油(髪につける)の「下村山城」、紅屋の「玉屋」、 将軍御用達という菓子屋「金沢丹後」はいずれも日本橋。上野の煙管専門店「住吉屋」、舶来の膏薬 ずぼうとうを扱った両国の薬屋「大坂屋」、永代橋の団子「佐原屋」、雛祭りの白酒で盛況の酒問屋 「豊島屋」、元禄以来の絵草紙、本屋で大伝馬町の「鱗形屋」、吉原遊郭の菓子「竹村伊勢」、両国の 川開きで知られる花火専門店、横山町の「鍵屋」等。店名にも多く地名が見られ、 「番頭はんと丁稚どん」という言葉の通り、江戸に出店していた伊勢、近江、京都等上方商人の 店も多く、支配人以下従業員は全て本拠地出身の男ばかり、江戸へは派遣であった。 その為これらの店では言葉も上方のまま、番頭になって妻帯が許されても相手は郷里在住の女に 限られ、年に一度、一ヶ月ほどしか妻子の元に戻れない単身赴任であった。江戸は商売の為の 土地と考え、あくまで郷里の商人としての伝統や決まりを守り続ける為であろう。 それでも三十代後半まで勤め上げれば多額の退職金が出て郷里に帰れるので勤勉に励んだという。


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