新 選 組 隊 士 の 日 常


局中法度

一、士道ニ背キ間敷事。 一、局ヲ脱スルヲ不許。

一、勝手ニ金策致不可。 一、勝手ニ訴訟取扱不可。

一、私ノ闘争ヲ不許。

新選組の隊規として知られる局中法度だが、最初は五箇条ではなく

第一、士道を背く事。 第二、局を脱する事。

第三、勝手に金策を致す事。 第四、勝手に訴訟取扱う事。

の四箇条で、これに背いた時は切腹を申し付ける事とある。

これは永倉新八の「新撰組顛末記」に書かれていたもので、

永倉自身は「禁令」と称しているが、「局中法度」としての名称も

書式も当時の記録には残されてはいない。

この名称と書式が初めて登場したのは昭和三年に子母沢寛が書いた

「新選組始末記」で、先の四箇条を元に「私闘を禁ず」の条項を加えて

文体を当時の書式にした。さらに新選組に実在する「軍中御沙汰書」が

「軍中法度」と言われたことからヒントを得たものがこの「局中法度」

ではないかとされている。

元治元年六月に起こった池田屋事変の風聞書には「壬生浪士掟は出奔

せし者は見付次第、同志にて討ち果たし申すべくとの定めの趣」と

書かれており、この時既に「脱隊禁止」の規則があったことがわかる。

池田屋事変後、隊士が四十名程だった新選組は、補強の為、江戸、京、大坂の

各地で二度の隊士募集を行った。慶応元年五月には総勢百三十名を

超える大集団となり、しっかりと統率をとる為の規則が必要になった。

そこで、新選組独自の規律として「武士よりも厳しい」と言われる

「禁令」すなわち「局中法度」が誕生したのである。実際に隊規違反で多くの

隊士が粛清された。だが、何でもかんでも切腹とは限らず、正当な理由があれば

除隊扱いとされた。


軍中法度

一、役所を堅く相守り、式法を乱すべからず、進退組頭の下知に従うべき事

一、敵味方強弱の批判、一切停止の事

一、昼夜に限らず急変これ有候とも、決して騒動致すべからず心静かに身を堅め下知を待つべき事

一、組頭討死に及び候時、その組衆その場に於いて戦死を遂ぐべし。もし臆病を構え

その虎口逃来る輩これ有るにおいては斬罪微罪その品に随ってこれを申渡すべく候、

予て覚悟未練の働きこれ無き様、相たしなむべき事

一、烈しき虎口に於いて、組頭の外、死骸引退く事をなさず、終始その場を逃げず忠義を抽んずべき事

この軍中法度は池田屋事変の約一ヶ月後、元治元年七月の禁門の変の前に、屯所の門前に

高々と貼り出された。池田屋で一躍名が知られる事になった新選組の、「最強戦闘集団」

としてさらなる高みを目指すという、厳しく激しい決意の表れだろう。


前川邸屯所

屯所は京都時代の七年間で三度移転したが、その内最も長く住んだのが壬生寺の斜め前に

ある前川荘司邸だった。前川邸は総坪数四百四十三坪、建物は二百七十三坪の平屋と

他に土蔵が二棟あった。部屋は十二間あり、畳数にして百四十六畳とかなり広かったの

で、納戸部屋などは日中でも陽が差さず、真っ暗だったと言われている。

天井の高い土間は、人を乗せた馬が横に四頭並んで通れる程広く、その一角に炊事場が

あった。雨天はここで剣術の稽古をこなし、天気の良い日は土蔵の脇に砂山を築き砲術

訓練をやっていた。

新選組誕生当初は、浪士や刺客が襲ってきてもすぐに対処できるように、幹部も平隊士も

みな奥の部屋で雑魚寝していた。新選組の活躍により隊士の数が増えてくると、広い屯所

も流石に手狭となり、夜、厠に行く時など、寝ている隊士をうっかり踏んづけたりしたという。

池田屋事変の重要参考人、古高俊太郎を拷問したのはこの土蔵であり、山南敬助の自刃も

ここ前川邸で起きた。新選組の歴史で一番付き合いの長い屯所である。


日常生活

隊士の普段の生活は、現代の寮生活の様なきちっとしたものだったという。起床と同時に

平隊士は布団を畳んで掃除に取りかかり、終わると朝稽古、それから朝食で、そのあと

勤務割りが発表され、細かい注意事項などが告げられた。

勤務当番の者は与えられた仕事に取りかかった。非番の者は囲碁や将棋を差したり、

読書をしたり、お互いの月代を剃って身だしなみを整えたりした。

外出も自由に出来たので、三、四人気の合った者同士で街へくり出すこともあった。なに

せ京は見所がたくさんあったから、寺社や名所旧跡巡りをしたり、美味しいものを食べ

てくることもあった。京の地理に明るくなっておけば、見廻りにも役立つ。

屯所の縁側で日向ぼっこする隊士もいれば、沖田や若い隊士は近所の子供達と

鬼ごっこをしては、一日中壬生寺の境内を走り回っては楽しんでいた。

手当て金が出て懐具合が良くなると、外に女を囲う隊士もいた。色恋話もあったが、その

多くは島原の芸妓のことだった。外泊も認めたが、金の無い隊士は夜になると田圃を

挟んで見える島原の灯りを眺めては、鬱憤を晴らす為大声で詩吟を歌ったり、派手に

剣舞をやり、勢い余って柱に斬り付けることもあったという。

そんな隊士達を労おうと、近藤は時折、全員を連れて島原へ行った。無礼講でみな良く

食べ、よく飲んだ。まさに豪遊だったが、泊まる事はせず、酔いつぶれた者は仲間が

介抱し連れ帰った。若い隊士は島原に連れて行ってもらうのを心待ちにしていたと言う。


隊務巡回区域

新選組の仕事の一つ市中見廻り。その見廻り地域は、京都御所付近、東洞院、西洞院、

北五条、東山限、西寺町鴨川迄、西御土居、南御土居、南七条辺、北四条辺が主な

見廻り地域だったが、今の京都の地図をみても驚く程広域である。

だが、不逞な浪士を見つけた際は、管轄外でも容赦なく取り締まった。

西本願寺北集会所に屯所を移転した理由は、前川邸が手狭になったというだけでなく、

この周辺と東本願寺を挟んだ市街南東部が警備区域ということも含まれるだろう。

また、浪士の捕縛の為、大坂まで出張することもあったという。


隊編成

隊の編成は平隊士五人、その上に伍長が一人、これが一班で二班で一隊となる。

十人の隊士に伍長が二人、計十二人を副長助勤が指揮していた。助勤は組長とも呼ばれて

いた。慶応元年には十番隊まであり、一番隊組長沖田総司、ニ番隊組長永倉新八という

ように、試衛館出身者が重要なポストにおかれ、さらに副長が統括していた。

巡回の際は普通二隊が行動を共にした。抜身の刀や槍を持って、辺りを睨み付けながら

ぞろぞろ二十数人が往く様は、まさに壮観であった。

日頃、勤皇の志士である、と大言壮語する諸藩の脱藩浪人も、新選組の姿が目に入ると

こそこそと横小路に逃げ込んだり、道の端に小さくなって大人しく一行をやり過ごした

と言う。少しでも疑わしいと目をつけると交代で張り込みをやった。時には庭の中まで

入り込むこともあり、張り込まれた者の語り残しによると、物陰に槍の穂先が光って

いたりするので、新選組だな、とすぐに分かったそうである。


隊旗

縦四尺、横三尺の赤地(緋羅紗)に、「誠」の文字が白く染め抜かれたもので、下には

白のダンダラが施されていた。この隊旗を、隊士達は前川邸屯所の門前に持ち出しては、

火消しが纏を振るようにクルクルと回し、それを相手に投げ、受けた相手も同じように

クルクル回しそれをまた投げかえす、という単純な遊びを汗びっしょりになるまで

大真面目にやっていたという。

また、袖章は白地に赤く「誠」の文字が入り、やはり、ダンダラが入っている。大きさは

縦十八・五、横七・ニセンチで、服に縫い込んで使ったという。


隊提灯

夜道の見廻りに欠かせない提灯だが、用途別に「誠」の字の下にダンダラを書いたもの

と、赤いダンダラの下に「誠忠」の文字を黒く書いたものの二種類あった。赤いダンダラ

の方は騎馬提灯で、禁門の変で出動した際も目印として用いられている。

「新選組」という隊名はこの時命令を下すのに「浪士隊」ではどうも聞こえがよくない

ので「新たに選ばれた組」即ち、新選組がよかろうと伝奏の発案で決まったものだが、

それ以前に近藤は既に隊の象徴として「誠」の一字を決め「隊名」代りにしていたのである。

「誠」は無論「誠忠」からとっている。近藤道場は「試衛館」という名が通説だが、

「誠衛館」の誤りではないかという説もあり、それが正しければ「誠」を隊の象徴にした

近藤勇の真意も分かるようである。


隊制服

隊の制服である羽織は、京都の大丸呉服店に特別注文した麻布仕立ての

浅葱色で、袖口に白く山形のだんだら染めを配した、あまり上等な品

ではなかったようだ。浅葱は切腹の際に用いられる裃の色である。

袖口を目立つ白のだんだら染めにしたのは、忠臣蔵が好きだった

芹沢鴨と言われており、赤穂浪士の忠誠にあやかったとも考えられる。

さらに戦いの際、敵味方の識別もできるように考慮されていた。

だが、実際は、柄が目立ち過ぎる上に品も悪く、さらに全員に行き渡らなかった。

新選組のイメージでもある浅葱のダンダラだが、着用したのは初期の頃のみで、

その内誰も袖を通さなくなってしまったという。

だが、会津藩士本多四郎が「世話集聞記」に、「文久三年三月、だんだらの羽織を着た

隊士らと壬生狂言を鑑賞した」と書き残していたり、会津藩士山川浩が、

「(文久三年)英仏の軍艦が摂海に来航するとの説が、京中に

粉々としていた。しかるに摂津に警備が無いので将軍(家茂)が

親しく巡視して、警備の充実をはからねばならないことになり

その事由を上奏して、四月二十一日二条城を発した。

我が藩に属している浪士の新選組二十余人が、将軍の駕に

従いたいと申し出た。公(容保)はそこで外島義直、広沢安住に

これを率いて属従させた。彼らはみな揃いの姿で大刀を佩び、

状貌雄偉で、見るものもこれを恐れた。」

と記しているように、新品の頃はお披露目に、近藤を先頭に全員が揃ってこれを羽織り、

得々としていたという。

市中見廻りの時も、非番の時も常に高下駄を履いていた。髷の結い方にもこだわった。

大髷で刷毛先は大きく、歩くと風にぱっと広がる様が粋で強そうに見える、それは

新選組隊士らしい、と思わせる効果大だった。一目で新選組とわかるように、頭から足元

まで工夫を凝らしていたのである。


西本願寺屯所

二番目の屯所となった西本願寺北集会所は、六百畳余という広い建物で

境内に竹矢来で仕切り、別囲いにして一般の者の出入りは許さなかった。

八木邸に作った文武館も解体して運んだ。現存する太鼓楼も使用したという。

壬生時代から比べると、隊士数も二百を超え、規律は一段と厳しくなった。

規律だけでなく、軍事訓練も百八十度の転換であった。

移転したのは慶応元年三月であるが、幕府は前年の長州討伐の教訓を生かし、

軍隊制度を今までのオランダ式からフランス式に切り換えた。このため新選組も、

幕府の方針に従ってフランス式調練を行なうことになったのである。

初めは西本願寺の境内で歩調から始め、大砲を二門設置して派手にぶっ放した。

発砲の際の音響で本堂の屋根瓦が落ちてきた程である。

あまりの轟音に肝を潰した寺側から苦情が出た為、しかたなく、壬生寺に練兵場を

移した。ここでは、大砲が珍しいのか、近所から見物に来る人もいたという。

朝から調練し、終わった後もすぐに引き上げず、壬生周辺でうろうろしている隊士が

多かった。親しくなった家で茶や食事のふるまいをうける隊士もいた。

古参隊士にしてみると古巣に帰ったようなものであるし、引越しの際、衣類など

細々した物を預けたままにしている隊士も多かったからである

西本願寺の要請により、近くの堀川通りの東、木津屋橋の南不動堂村の

内一町四方あまりの土地に移ったのは慶応三年六月頃で、費用は一切、西本願寺が持ち、

設計は新選組が行なった。

四方を高塀で囲み、表門、玄関門、長屋、使者の間から長廊下まであり、

近藤、土方ら幹部の個室、隊士の部屋、客座敷、厩舎、物見櫓、

中間小者部屋まである、大名屋敷並であったとされている。だが、この新居には

半年程しかいられなかった。


健康管理

隊士らは寄せ集めという事情もあって、水あたり、食あたりなどで

体調を壊す者が多かった。池田屋事変でも、夏負けで寝込んでしまった隊士が多く、

参加出来る隊士の数に合わせて斬り込みの手順を変えなければならなかった、

という苦い経験から、身体が資本の隊士たちは健康管理には特に気を配るようになった。

屯所に来る物売りから猪や鹿の肉を買っては、鍋にして食べたという。

慶応元年閏五月頃、医者であり新選組顧問でもある松本良順は、屯所を訪問した際、

残飯が多く出るのに目をつけ、屯所に豚を飼うことを勧めた。

そこで早速豚小屋をつくり、仔豚は神戸から取り寄せた。屠殺して解体する手順を

木屋町の町医南部精一の弟子たちが快く引き受けてくれた。

会津藩医でもある南部精一は松本良順の父井上泰然の弟子でもあった。

南部の弟子らは豚を人体にみたて「解体新書」と首っ引きで、手際良く処理した。

気軽にやってくれるのは良いのだが、豚は往生際の悪い動物で、悲鳴を上げて

逃げ回るので撲殺するのに手間が掛かった。事情を知らない通行人などは、豚の断末魔

の叫びを、隊士が拷問を加える者の悲鳴と聞き違える事もあった。

寺側が閉口したのは、殺生禁断の聖地で屠殺の上、煮たり焼いたりした時に

ところかまわず異臭を放つことであった。堪りかねて苦情を申し出たが

これだけは、立ち退くまで止めなかったという。


新選組の字体

「しんせんぐみ」は、「新選組」と「新撰組」どちらが本当なのか、というのは常に疑問

が沸くところであるが、文久三年に命名された時点で正しくは「選」である。

会津藩の軍制の中で、過去に使用されていた隊の名に「新撰組」があり、そこから採った

といわれているが、手偏の「撰」には文字通り、「手でものをえらぶ」という意味が含ま

れる。殿のお手ずから家臣をえらぶという意義ならば「会津藩新撰組」も納得出来る。

しかし、「えらぶ、えりすぐる」の本字は「選」であり、シンニュウは、人がゆく道を表

すのに用いられる。文久三年八月十八日の政変出動の褒賞の意味を込め、壬生浪士組改め

「新たにえらばれた組」が良かろう、との純粋な意味通りに、武家伝奏が命名したと見る

べきであろう。「新選組」を賜る、との命名の経緯は、古参の島田魁が明かしている。

新徴組しかり、見廻組しかり、当時の幕府は、新規の組織には、いたって文字通りに命名

している。浪士組の当時に、新選組だけ特殊な字にすることはない。

当時の漢字は、おおむね耳で聞き手で書くものであるから、かなり混同が許される傾向に

あり、当の新選組隊士すらも、両方の「選」と「撰」の文字を自在に使っており、人名に

至っては、沖田総司などは自ら「総ニ」と書いたり、会津側からも「島田魁」を「島田甲

斐」と書いてあったりして、固有名詞の誤表記は数え切れない。読み方が合っていて書き

やすければ、問題のない状況だったのだろう。当人に確認しない限り、音で聞いただけで

正確にはつかめない。

ただし、新選組からの公式な文章には「選」の字が用いられている。郷里の親友に近藤勇

が送ったとされる書簡には「新選組印」との印章が使われており、印判制作の間に誤字を

通用させ、局長の近藤が押捺して送るほど粗忽だとは、考えられない。また、隊名発足の

壬生時代に、屯所と最も近しい位置にあった光縁寺の過去帳は「新選組」と明記している。

これも直接の接触があり、文字に造詣の深い僧侶があえて誤字を用いるとは考えにくい。

公用を務める隊士達から「新選組」である事の確認は容易である。

物として撰ばれる、より「人として選ばれた」という方が、本来の意味と新選組隊士の自

尊心からすれば的を得ている。どっちも残ったからどっちでもいい、のではなく、正しい

理由をもって、「新選組」の名が、選ばれているのである。


参考 新人物往来社 新選組のすべて


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