幕 臣 |
文化14年11月29日、西ノ丸留守居、大久保忠向の子として生まれる。 |
初名忠正のち忠寛。幼名金之助、通称三四郎、三市郎。叙爵して志摩守、右近将監、伊勢守、 |
越中守と称し、隠居して一翁といった。号は石泉、桜園。 |
大久保は三河以来の旗本の家にありながら早くから大政奉還を唱えた開明派官僚であったと言える。 |
安政元年5月、老中阿部正弘に抜擢され、目付となり、海防掛となって以来、同役の岩瀬忠震と |
協力して事にあたった。大久保の発想は自由で、蘭学の師である勝海舟を阿部に推薦した。 |
安政3年10月、外国貿易取調掛を命ぜられ、同月蕃書調所総裁を兼任し、講武所の創設に尽力した。 |
安政4年正月、目付より長崎奉行(赴任せず)に転じ、駿府町奉行、禁裏付を経て、安政6年2月京都町 |
奉行となったが一橋派であったため、6月大老井伊直弼に西ノ丸留守居に左遷され、8月寄合になった。 |
文久元年8月、再び蕃書調所頭取に再任し、外国奉行、大目付、御側御用取次となる。 |
大久保は実際には大政奉還が行われる五年も前に大政奉還論を唱えはじめ、徳川家は駿河、遠州、 |
三河の三国領有の大名となり、幕府だけが日本の代表として諸外国との折衝をするのではなく、 |
議会制にする事を提唱するが、まだこの時期の幕府にはこの考えは黙殺された。文久2年11月、 |
講武所奉行となったが、わずか五日で罷免され、慶応元年2月、49歳で早々に隠居し、一翁と称した。 |
同年12月、長州再征で大坂に召され、将軍家茂の諮問に、寛大な処置をとることを主張したが |
入れられず、翌2年正月江戸に戻る。 |
幕府瓦解後の慶応4年正月会計総裁となり、2月に若年寄に転じたが、この間も徳川慶喜の意を |
体して陸軍総裁勝海舟と共に恭順論を唱え、徳川家救解に奔走し4月、田安慶頼と勅使、橋本実梁、 |
柳原前光を江戸城に迎えて徳川家処分の条項を受け結果、慶喜の水戸隠退、江戸城明け渡しとなり、 |
閏4月、東征大総督府より江戸の鎮撫取締りを命ぜられた。5月徳川家達が駿府七十万石に封ぜら |
れると、家達を補佐して藩政を取り、版籍奉還後の2年8月、静岡藩大参事、廃藩置県後の4年11月、 |
静岡県参事になり、5年5月文部省二等出仕、同月東京府知事、8年12月、教部少輔に転じ、10年1月 |
元老院議官に任ぜられた。明治20年5月、子爵を授けられ、翌年7月31日に没した。 |
享年七十二歳。青山墓地に葬られたが、のち府中多磨町の多摩墓地に改葬された。 |
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