新 選 組 大 事 典


川瀬太宰邸跡
かわせだざいていあと
(滋賀県大津市尾花川)
 
皇子山中学校東側の民家前に石碑が建つ。川瀬太宰は文政二年、膳所藩家老・戸田五左
 
衛門の五男に生まれ、三十歳で池田都維那の養子となり養女幸と結婚、聖護院宮に仕え
 
て川瀬太宰に改名する。その邸宅は膳所藩正義派の密謀、また脱藩志士の潜伏の場所と
 
なった。慶応元年閏五月、太宰は幕吏に待ち伏せされ、雲母越えで捕らわれ、六角獄舎
 
に送られた後、翌年六月七日斬罪となる。太宰捕縛後、新選組佐野七五三之助らが川瀬
 
邸に来たが、幸は重要書類を焼き自刃しようとして果たせず苦悶している所を足蹴にさ
 
れ暴言を加えられた。幸は憤り絶食して、慶応元年五月二十六日、四十八歳で死去。
 
夫妻の墓は大津市小関町五本桜、池田家墓地にある。
 
 
 

観音寺
かんのんじ
(東京都足立区綾瀬四丁目)
 
古義真言宗稲荷山。慶長十九年、五兵衛新田開拓者の金子五兵衛により創建された。幕
 
末には住職不在であり、新選組がこの地に滞在した時は下級隊士の宿所にあてられ、当
 
初の三十八人から逐次増加して最多八十一名を数えた。
 
 
 

祇園会所跡
ぎおんかいしょあと
(京都市東山区祇園南側五五〇)
 
元治元年六月五日の池田屋事件当夜、新選組が過激派浪士探索の為に集合した場所。そ
 
の後三十四名の隊士は近藤隊、土方隊に分かれ、祇園会所を出発し、祇園町、鴨川西、
 
四条河原町、木屋町筋から三条通りにかけて虱潰しに探索を続け、最終的に三条小橋の
 
池田屋で密会中の浪士団と近藤隊が遭遇した。会所跡は祇園石段下(八坂神社石段下)の
 
東大路通と四条通の三叉路南西にあり、「八百文」という果物店になっていた時期があ
 
る。祇園石段下では、慶応二年二月五日に新選組大石鍬次郎の実弟、一橋家附臣造酒蔵
 
が同隊士今井祐次郎に斬殺され、同年四月一日に谷三十郎が暗殺された(真相不詳)場所
 
ともいわれる。
 
 
 

祇園北林
ぎおんきたばやし
 
 
文久三年八月七日から京坂合併の相撲晴天七日間興行に、新選組が連日警備に出動した
 
場所。同年七月以降の京都相撲と大坂相撲の力士間の険悪な空気を解消させるため、両
 
方の責任者と接触のある新選組が介入し和解させた記念興行である。隊士らは木綿の黒
 
羽織と白袴で出動し、「ことのほか行儀が良い」との目撃談が残っている。この恩によ
 
り同月十二日、壬生でも興行が開催されることとなり、隊士らは諸方に張札をし、壬生
 
屯所近在の村民らを見物に募り、大盛況であったという。
 
 
 

菊一文字則宗
きくいちもんじのりむね
 
 
「新選組沖田総司の愛刀は菊一文字」との伝説があるが、沖田の差料は遺族により神社
 
に奉納されたと伝わり、詳細は未確認である。新選組隊士は服装はみすぼらしくても、
 
刀だけは分不相応なほど良いものを持っていたと父が話していた、と八木為三郎老人は
 
語り残したようだが、沖田が当時既に高額かつ国宝級の「菊一文字則宗」を所持出来る
 
とは考えられず、遺族の談話が後年、高名な則宗に結びついたものかもしれない。
 
一文字即宗は福岡一文字派の祖、鎌倉時代を代表する刀鍛冶で、後鳥羽上皇が諸国から
 
名工を集め御番鍛冶として月番で鍛刀させた折、則宗はその筆頭格であり天皇家を表す
 
「菊」一文字の尊称がついたという。  別に刀剣の書(二)を参照のこと。
 
 
 

菊浜小学校跡
きくはましょうがっこうあと
(京都市下京区西木屋町通上ノ口上ル梅湊町八十八)
 
明治二年開校。新選組隊士美男五人衆の一人、山野八十八が明治になってから京都に戻
 
り菊浜尋常小学校の使丁(小使い)となり、明治二十九年七月まで勤めた。山野は新選組
 
在任中、壬生の水茶屋の女性との間に女児を設けた。その娘が成人して小学校の小使い
 
となっている父を探し出して引き取り楽隠居させたという。山野はその後、時々立派な
 
着物を着て竹の杖をつき、旧同志の墓参に壬生を訪れた、と「新選組始末記(八木為三
 
郎老人壬生ばなし)」にはある。尚、同校は平成四年三月に閉校した。
 
 
 

木曽掛橋
きそかけはし
 
 
文久三年の浪士隊上洛中に、木曽路を詠んだとされる土方歳三の和歌の題。ただし旅程
 
と作歌の風景が一致しないので現地に赴かず書いた可能性はある。以下八首の歌と題。
 
・飽かず見む 横川の波に すむ月の 影も散りなむ 秋の山水   (横川秋月)
 
・山寺は 外ともわかず 程遠き ふもとに響く 入り相の鐘    (徳音晩鐘)
 
・立ちわたる あしたの雲も 色深き 霞にこむる 木曽の掛け橋  (掛橋朝霞)
 
・嵐吹く 夕べの雲の 絶え間より みたけの雪ぞ 空に寒けき   (御嶽暮雪)
 
・駒の岳 晴るゝ夕日に 見る雪の 光も寒く まがふ白雲     (駒嶽夕照)
 
・仮枕 寝覚めの床の 山風も 雨になりゆく 夜半(よわ)の寂しさ (寝覚夜雨)
 
・白妙に 見る一筋は 手作りの それかとまがふ をのゝ滝つ瀬  (小野瀑布)
 
・明けわたる 光も見えて 風越の 高根晴れゆく 夜の浮雲    (風越晴嵐)
 
  (原文は仮名書体)
 
 
 

北添佶摩
きたぞえ きつま
(天保六〜元治元年)
 
初め源五郎、のち佶摩。名は正佶。号を松陰、対松軒。変名は本山七郎。土佐国高岡郡
 
岩目地村の庄屋、与五郎の五男。幼少から学を間崎哲馬に学び、嘉永六年、父の死後庄
 
屋を継ぎ大内村に移り、安政以後の幕府の処置を憤って尊攘志士の同盟に加わる。文久
 
三年二月、能勢達太郎と共に脱藩、江戸で遊学、大橋順蔵門に入る。一説には、同五月
 
に京を発ち、敦賀から蝦夷、奥羽を視察して北方の海防を考えたといい、彼の抱いた大
 
陸雄飛の志が坂本竜馬の志士北海道移住計画に影響を与えたという。元治元年に上洛、
 
本山七郎の変名で尊攘志士と交わり倒幕の密謀に加わるも、池田屋会合中を新選組に急
 
襲され討死、行年三十。岩倉の三縁寺と東山霊山に墓。
 
なお、子孫が語っているが、「きつま」ではなく、「きちま」が正しい読み方である。
 
 
 

君菊
きみぎく
(不詳〜明治十八)
 
京都北野上七軒の舞妓。土方歳三の愛人と言われ、土方が京坂花街の女性たちにもてた
 
事を自慢した有名な書簡の中に名がある。
 
京の花柳界では「舞妓」が成人した後「芸妓」と呼ばれる。太夫、天神などは遊女の位。
 
(以下、武州多摩郡小野路村名主小島鹿之助宛文久三年十一月付、抜粋、読み下し)
 
「尚々、拙者儀共、報国の有志と目がけ婦人慕い候事、筆紙に尽くし難く、まず島原に
 
ては花君太夫、天神、一元。祇園にてはいわゆる芸妓三人ほどこれ有り、北野にては、
 
君菊、小楽と申し候舞妓、大坂新町にては若鶴太夫、ほか二三人もこれ有り、北の新地
 
にては沢山にて、筆にては尽くし難し。まずは申し入れ候。
 
 報国のこころを忘るる婦人かな  歳三如何のよみ違い」
 
無名の青春時代に女性問題で失敗した歳三が漸く男盛りの地位や経済力を得て、玄人の
 
女性たちと心置きなく遊んだ得意満面がうかがえる文章である。
 
 尚、この手紙から二十六年後の明治二十二年、歳三の甥佐藤俊宣(姉のぶの子)が京都
 
を訪ね君菊を探したところ既に四年前に他界していた、と聞いたという。歳三との間に
 
設けた一女が早世した、という話もあるが真偽は定かではない。
 
 
 

休息所
きゅうそくじょ
 
 
新選組の京都時代、制度が整い人数も増えてくると、伍長以上の幹部には宿直任務以外
 
の日には営外からの通勤を認めたといい、その住居を指す。多くは、そこに妻や愛人を
 
置いて自宅替わりとした。住人の三度の食事を隊で炊き出し、賄方から届けたという。
 
近藤勇が深雪太夫(後に妹のお孝)を身請けして住まわせた醒ヶ井通七条上ル西側花園町
 
の興正寺下屋敷、原田左之助が妻まさと住んだ釜屋町七条下ルの休息所、等の実在が伝
 
わるが、その他所在の詳細は不明。伊東甲子太郎は新選組を離脱した後、宮川町に愛人
 
を置いたと記録にあり、これも休息所の慣例を続けたものらしい。
 
 
 

旧幕府
きゅうばくふ
 
 
雑誌の名。戸川安宅(残花)が幕末の幕府に関する資料纂集目的で発刊し、旧幕臣の勝海
 
舟、榎本武揚、大鳥圭介らが支援して明治三十年四月に創刊、同三十四年八月の第五巻
 
第七号までに通算四十八号が刊行された。現代、原書房から全七巻の合本が復刻されて
 
いる。新選組の記事は戊辰戦争時のものが特に多い。大鳥圭介「南柯紀行」、安藤太郎
 
「美家古廼波奈誌」「函館脱走海陸軍総人名」、丸毛利恒「函館戦史」「近藤勇の伝」
 
結城礼一郎「柏尾の戦い」等の貴重な史料が収録されている。
 
 
 

久武館
きゅうぶかん
 
 
文久三年夏頃、新選組が壬生八木邸母屋の東側に建てた道場。東西三間半(約6.3m)
 
南北八間(約14.4m)。それまでは前川邸の表長屋を道場にあてていたが、隊士が増
 
加したため建築したといい、西本願寺に移転する際に解体して運んだ。道場内での稽古
 
風景については八木為三郎遺談にいくつか描写されている。近藤勇の手紙を出典に、
 
「新選組始末記」「新選組史録」とも道場の名を「久武館」とするが「文武館」の誤読
 
かもしれない。
 
 
 

京都守護職
きょうとしゅごしょく
 
 
文久二年に新設された幕府の役職。その頃、京都では尊王攘夷を唱える過激な志士たち
 
による暗殺や、それに便乗した強盗殺戮が後を絶たず、従来の役所である京都所司代、
 
京都町奉行所では対処しきれず、幕府の威信も損なわれており、その為に強い軍事力と
 
実権を持つ京都守護職が創設され、初代に会津藩主松平容保が任命された。容保は最初
 
固辞していたが、会津家訓(将軍を重んずる事を第一義としている)を元に再三の要請を
 
受け、「御家大事よりも敢えて火中の栗を拾う」と君臣覚悟して受諾に至る。同年十二
 
月二十四日藩兵千名を連れて入洛した容保は、次々と治安対策を実行する。翌文久三年
 
には、江戸で募集した浪士隊の京都引き揚げに際し、洛中の浮浪鎮撫に当たるため残留
 
した者たちの采配を依頼され、壬生浪士組、後の新選組を預かり、さらに後、見廻組等
 
も指図する職となる。京都守護職御預かりの新選組は厳しい規律のもと大いに成果を上
 
げ、容保もその働きに敬意を表した。途中、守護職が越前の松平春嶽に交代したものの
 
間もなく以前の通りに戻され、大政奉還後の職制廃止まで会津藩が勤める事となり、新
 
選組隊士も数多く戊辰戦時までの行動をともにした。
 
 
 

京都守護職屋敷跡
きょうとしゅごしょくやしきあと
(京都市上京区下立売通新町西入ル)
 
京都府庁正門右手に石標がある。会津藩が京都入りした翌年の文久三年から屋敷の建設
 
が始められ、慶応元年にほぼ完成した。屋敷の図面は、京都大工頭中井家に所蔵され、
 
後に京都大学保管の「京都守護職役宅上屋舗出来図」に仔細な記録が残る。東は新町通
 
西は西洞院通、南は下立売通、北は下長者町の一角の広大な敷地であり、幕末京都の軍
 
事と警察治安を総括した守護職に相応しい屋敷であったことがわかり、新選組も守護職
 
配下として出入りをしたものと思われる。
 
 
 

京都ヨリ会津迄人数
きょうとよりあいづまでにんずう
 
 
新選組の島田魁遺品と伝わる。慶応三年十一月下旬から十二月上旬の時点での隊士名簿
 
で総員百五十七名、戦死、蝦夷渡航、負傷、脱走の印が付けられている。基本的には、
 
それ以前からの在隊九十三人が「新選組」、同年十月頃に江戸と京坂で入隊した六十四
 
人のうち、「局長附人数」五十二人、「両長召抱人」(年少隊士と思われる)が十二人と
 
配属を記されている。
 
 
 

(参考 新人物往来社)
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