(弘化二・十一・十七〜明治十二・四・十五) |
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桑名藩家老。同藩家老服部半蔵正綏の次男で百寿計と称し、同じく家老酒井三右衛門朝 |
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益の養子となる。名は朝雄、字は文実、号は東海。 |
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戊辰戦争勃発の時、実兄服部半蔵正義は抗戦派であったが、立場を異にして桑名城開城 |
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に奔走、藩士の生活保障の為、扶持米の支給を西軍と折衝。箱館に投じた旧藩主松平定 |
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敬を連れ戻す為明治元年十二月二十四日に同地へ上陸。翌二十五日、新選組に加盟して |
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いた桑名藩山崎八蔵(成瀬杢右衛門)と再会、二十九日の大晦日と翌日明治二年元旦には |
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土方歳三の来訪を受けている。その元日、旧主の定敬に謁見。六日に大町の丁サ佐野屋 |
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に土方を訪ねる。四月十三日未明、定敬とともに米国船で箱館を脱出、後に桑名藩は再 |
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興を許された。これらは「酒井孫八郎日記」にある。 |
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孫八郎はその後大参事に任じ、廃藩置県後は東京に移り宮内少監、警視庁、司法省、検 |
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事を歴任。その間に定敬の妹高姫と結婚したが、三十五歳の若さで病没した。遺体は東 |
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京の深川霊巌寺の塔頭長専院に葬られたが、昭和三年七月に都内港区の青山霊園 (一種 |
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十六号三側二番)に改葬、墓碑も建立されている。戒名は俊高院殿才誉雄哲居士。 |
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(京都市上京区丸太町通堺町通北) |
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京都御所の門の一つ。文久三年八月十八日の政変により、それまで堺町御門の守衛をし |
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ていた長州藩はその任を解かれた。退去を拒む長州藩兵と、薩摩・会津との間でにらみ |
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合いが続き、この時に新選組(壬生浪士組)も出動、御所警備に当たった。 |
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翌年の元治元年、池田屋事変の報に激怒した長州勢は、失権回復をはかる為京へ進撃、 |
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七月十九日に三方から挙兵した。山崎天王山から洛中に入った久坂玄瑞、真木和泉らの |
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軍は、堺町御門から鷹司邸の裏門を通って御所内に侵入しようとしたが、越前・彦根の |
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藩兵に挟撃され、会津・薩摩・桑名の攻撃に敗れ、久坂が戦死した。この日九条河原を |
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固めていた新選組も御所方面からの砲声に洛中へとって返し、堺町御門まで駆けつけた |
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もののすでに勝敗は決しており、活躍の場とはならなかった。 |
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(嘉永三・九・十〜昭和四・四・十三) |
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長じてからの名は俊宣。日野宿名主・佐藤彦五郎と妻のぶ(土方歳三の姉)の長男。十歳 |
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で近藤勇の門に入り、叔父の歳三にも可愛がられていた。 |
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慶応四年の甲州勝沼戦の時には父の彦五郎が春日隊を結成、近藤勇率いる甲陽鎮撫隊に |
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参加した事から、留守家族の源之助は官軍に厳しい尋問を受けたが、父の行方を全く知 |
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らなかったため白状しようもなく、逆に敵将である土佐の板垣退助から「稀に見る親孝 |
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行者」と誉められ釈放された。 |
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明治後、武蔵野叢誌に「勅命丸」という一文を書いて不敬罪に問われ三年間投獄された。 |
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これにより多摩の自由民権運動は衰退した。その後は南多摩郡学区取締・日野郵便局長 |
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を務め、晩年の二十六年を逓信事業に専念、退職後は文雅の道に親しみ隠居生活を楽し |
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み、「今昔備忘記」を書き残している。明治二十二年には西国へ旅をし、京都では旧新選 |
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組の山野八十八や島田魁らと会い、近藤勇の首級や土方歳三の愛妾の行方等を探したと |
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伝わる。享年八十。墓は父と同じ都内日野市日野本町二丁目の大昌寺。 |
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(文政十・九・二十五〜明治三十五・九) |
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武州日野宿(現在東京都日野市)の名主。父が早世した為わずか十一歳で跡を継いだが、 |
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若年より人徳があり村政もよく治めた。弘化二年、石田村土方義諄の娘のぶ(土方歳三 |
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の姉)と結婚、長子の源之助をもうける。彦五郎の母まさは、歳三の叔母にあたり、彦 |
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五郎は歳三の義兄であると共に従兄弟にもあたる。後の近藤勇である宮川勝太とも親交 |
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を結んだ。 |
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二十四歳の時に天然理心流近藤周助邦武の門に入り、後に自邸内に道場を建て、勇、歳 |
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三、井上源三郎、沖田総司らと共に稽古に励んだ。近藤らが上洛後に新選組を結成した |
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時も物心両面の良き支援者となり、彼等からの書簡も多く受け取っている。慶応四年、 |
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新選組が関東に引き揚げ甲陽鎮撫隊を結成して甲州へ進軍する際には、彦五郎は自ら春 |
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日隊を組織して参加、勝沼戦争に敗れて官軍から厳しく追及されたが後に許され、南多 |
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摩郡初代郡長他多くの公職を務める。晩年は俳句や文雅の道にいそしみ、そのかたわら |
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明治二十一年には関係者と共に、亡き近藤勇と土方歳三の為「両雄殉節碑」を日野市高幡 |
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不動金剛寺境内に建立、新選組の汚名を雪ぐ努力をした。享年七十六。墓は日野市日野 |
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本町二丁目の大昌寺。 |
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(京都市中京区木屋町通三条下ル東入ル石屋町一二五) |
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先斗町町会所とも。現在の歌舞練場の北隣、うどん・そば「有喜屋」建物辺りにあった。 |
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慶応二年九月十二日の夜、三条大橋西詰の制札場に警戒網を敷いた新選組の原田左之助 |
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ら一隊十二名が待機した場所。当夜は土佐系の浪士八名が鴨川沿いの先斗町を北上、原 |
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田隊はこれに気づき町会所から尾行、制札を引き抜いた浪士と乱闘となった。(三条制 |
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札事件)大石鍬次郎、茨木司ら十名が待機、見張りをしていた大橋東詰の荒物屋は現在 |
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バスターミナル北側辺り。同じく新井忠雄ら十二名がいた大橋東詰の酒屋は現在の三条 |
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木屋町通北東角から二軒目の御所飴ビル辺り。なお、事件当夜に土佐系の浪士が飲酒し |
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ていた木屋町四条上ル「巴屋」は現在も高瀬川真端東側の旅館として往時をしのばせて |
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いる。 |
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禁門の変の後、幕府から長州藩の罪状を記した制札が京都三条大橋西詰に立てられたが |
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慶応二年六月十七日以降何者かがこの制札を壊すという事件が続き、新選組が出動する |
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こととなった。見張りについた一日目、二日目は無事。三日目の同年九月十二日は橋南 |
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先斗町会所(三条会所)に原田左之助ら十二名、橋東の荒物屋に大石鍬次郎ら十名、橋西 |
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の酒屋に新井忠雄ら十二名、斥候として橋下に乞食姿の橋本皆助、浅野薫という布陣で |
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あった。午前零時頃、土佐系の浪士八人が現れ、制札に手をかけたので、まず橋本が原 |
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田・新井隊に知らせ、浅野はかなり遅れて大石隊に知らせ、大乱闘となった。 |
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この乱闘で土佐側は藤崎吉五郎斬殺、宮川助五郎が重傷で捕縛、安藤謙治は重傷のまま |
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土佐藩邸にたどり着いて自害。同月十九日、土佐藩と新選組が祇園栂尾邸で和解し、同 |
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年十二月二十日、新選組には報奨金が下った。 |
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