新 選 組 大 事 典


隊旗
たいき
 
 
新選組の象徴というべき旗。製作時期は不祥だが、文久三年八月十八日の政変には、行
 
軍の先頭に押し立てたと伝わり、縦四尺、横三尺ほどで緋羅紗の地に白い文字で「誠」
 
の一文字を染め抜き、下部には山形の模様がついていた、という。この旗を隊士たちは
 
壬生の屯所門前で、火消しが纏を振るように投げ合って遊ぶことがあった。
 
隊旗の姿については、六尺四方であったとも、誠の字は金糸の刺繍だったとも、また、
 
文字は「誠忠」の二字だった、山形はなかった、等、様々な記録がある。隊旗は終始一
 
本だったのではなく、複数存在し、年代によっても変遷した事を示していると思われる。
 
また、元治元年六月下旬には、大小三本の旗が目撃されている事から、主要な大旗の他
 
小型のものも作られたと考えられる。
 
 
 

隊士の募集
たいしのぼしゅう
 
 
元治元年の池田屋事変までは、京都と大坂を中心に新選組の隊士募集が行われていたが
 
近藤勇の書簡に「兵は関東」との感想もあるように、同年九月には局長自らが関東に下
 
り江戸で隊士を募集、伊東甲子太郎ら二十人余が入隊している。同時に京坂でも十五人
 
程が入隊している。以後は土方歳三の江戸下りがあり、慶応元年四、五月頃と慶応三年
 
十、十一月頃にも江戸と京坂で同時期に募集が行われ、東西同時募集が原則であったか
 
とも考えられる。
 
 
 

大善寺
だいぜんじ
(山梨県東山梨郡勝沼町勝沼)
 
江戸時代の甲州街道柏尾坂にある真言宗の古刹。山号を柏尾山。養老二年(七一八年)
 
行基の開創で、本尊の薬師如来座像と、弘仁・貞観年間(九世紀)桜木一本造りの日光
 
・月光菩薩立像はいずれも重要文化財。執権北条貞時が再建した和様建築の薬師堂は国
 
宝。天正十年(一五八二)三月、織田軍に追われる武田勝頼主従が、同庵の理慶尼の庇
 
護を受けた。
 
慶応四年三月六日、新選組を中心に、会津藩から人数を借り受け編成した甲陽鎮撫隊は
 
同寺院の後方、柏尾山に布陣して官軍と戦い、幕府庇護の大善寺を戦禍から救った。
 
 
 

大林院跡
だいりんいんあと
(千葉県市川市真間四ノ四番地付近)
 
真間山弘法寺の塔頭であったが、現在は住宅地となっている。慶応四年四月十一日の江
 
戸城明渡しを受け、江戸を脱走した旧幕府陸軍は市川国府台へ集結、翌十二日大鳥圭介
 
以下の主だった将が大林院で軍議を開き、全軍の総督が大鳥、参謀に土方歳三が就任。
 
下記概要は大鳥の著作「南柯紀行」による。
 
一、前軍 司令・江上太郎(秋月登之助)参謀・土方歳三
 
         伝習第一大隊約七百、桑名藩隊二百、新選組、回天隊右半隊
 
二、中軍 大鳥圭介  伝習第二大隊六百
 
三、後軍 旧幕歩兵第七連隊三百五十  会津藩別伝習隊七、八十
 
     御料兵約二百  土工兵約二百
 
 
 

高木元右衛門
たかぎ もとえもん
(天保四〜元治元・七・十九)
 
熊本藩士、肥後国菊池郡深川村の生まれ、名は直久。武芸に秀で、文久二年藩主弟の細
 
川護美に随伴、入京して親兵に加わった。文久三年の禁門の政変後、長州に亡命。三条
 
実美の命を受け再度上京、深川策助と変名して情勢探索にあたった。池田屋事変では乱
 
闘の中、囲みを破って河原町御池の長州藩邸に逃れ、翌月の禁門の変に出撃、蛤御門で
 
戦死した。享年三十二。墓は京都東山霊山にある。
 
 
 

高久村
たかくむら
(福島県会津若松市神指町高久)
 
戊辰戦時、会津藩は郊外にいる軍の指揮をとる為、家老萱野権兵衛を陣将に越後街道の
 
宿場高久村に本陣を置いた。猪苗代から戻った新選組は塩川方面に出陣していたが土方
 
歳三ら多くが米沢に向け出発、山口次郎(斎藤一)ら一部が高久村の本陣に合流して、
 
会津藩と共に戦いを続けることにした。山口らはすぐ近くの如来堂に宿営しており九月
 
四日に西軍の奇襲を受け、多くの戦死者を出した。
 
 
 

滝川充太郎
たきかわ じゅうたろう
(不祥〜明治十・五・三十一)
 
後の名を具綏。幕臣滝川陶哉の長男。幕府陸軍伝習隊士官として慶応四年一月の鳥羽伏
 
見の戦いに参戦、敗れて江戸に戻り、四月には大鳥圭介に共鳴して江戸を脱する。伝習
 
第二大隊頭取改役として野州、会津を転戦。仙台で榎本艦隊に乗船、蝦夷に渡航。推さ
 
れて伝習士官隊長・歩兵頭並となり第一レジマン(連隊)第一大隊長となり箱館を守る。
 
翌明治二年四月、二股口の激闘には土方歳三を助け、自ら敵陣に斬り込み奮戦。五月十
 
一日の官軍総攻撃の日には箱館山下で戦闘指揮中に負傷、十八日の五稜郭降伏開城によ
 
り、滝川は青森を経て弘前の景勝院に謹慎、同年十月には再度函館弁天台場に移され、
 
三年三月に赦免、静岡に帰った。明治四年、大川正次郎らと陸軍に入り、中尉となる。
 
十年の西南戦争には、別動第二旅団の中隊長として出動、五月三十一日、熊本県球磨郡
 
瀬戸山で敵を追撃、同郡美野原の戦闘で戦死した。
 
 
 

武田観柳斎の殺害
たけだかんりゅうさいのさつがい
 
 
新選組幹部で甲州流の軍学師範でもあった武田観柳斎が殺害された事件の理由について
 
は、通説では洋式軍学の導入により立場の弱まった武田が伊東甲子太郎派や薩摩藩に接
 
近、隊の秘密を内通した事が露見し、慶応二年九月二十八日、新選組酒席の帰路、斎藤
 
一と篠原泰之進に竹田街道銭取橋で斬殺された、と言われていた。武田が伊東や薩摩に
 
接近を図った事は考えられるが、しかし、篠原はその九月二十六・二十七日に近藤勇と
 
激論を戦わせており隊の暗殺命令に協力する状況とは考えにくい事、某尾張藩士の記録
 
に「元隊士の武田某が殺害」とあった事や、彼の墓がない事等から、実際は慶応三年六
 
月二十二日、既に除隊となっていた武田が独自の討幕運動を展開していた為、新選組に
 
殺害された、とするほうが正しいようである。武田の遺体を引き取りに来た三人の男が
 
隊士と乱闘になり逃走、うち一人が枚方で切腹したという。翌二十三日には新選組の加
 
藤羆が死亡、壬生光縁寺に葬られており、武田に斬られたものか、或いは隊内同調者と
 
して枚方において切腹した人物の可能性がある。二十七日には武田の同志で善応という
 
僧侶が新選組によって殺害されている。子母澤寛の著作には新選組の美男隊士馬越三郎
 
が武田に男色を迫られ、逆に薩摩内通の秘密を察知して隊に報告したとあるが、馬越は
 
元治元年には既に離隊しており、フィクションである事がわかる。
 
 
 

立川主税戦争日記
たちかわちからせんそうにっき
 
 
箱館で降伏し生き残った新選組隊士立川主税が、謹慎中に綴った戦記。甲州出兵から箱
 
館戦争終結までを記述したもので、「中島登覚書」「島田魁日記」より簡略ではあるが
 
甲州敗戦後、傷病者を会津へ先発させた事や新選組本隊の会津入りの経路など、独自の
 
貴重な記載もある。中島、島田と異なり、立川は箱館に於いて土方歳三附属となり、終
 
始側に従った。日記中、「幕下わざわざ総督(土方)の知勇を恐る」「故に一人も損ぜ
 
ざるは総督の力なり」「土方氏常に下万民を憐み」と、土方に対する畏敬の念を色濃く
 
記しており、後に仏門に入って土方を厚く弔ったのもその為であろう。日記は明治五年
 
頃、赦免後の立川が日野佐藤家を訪れ届けたもので現在土方生家などに写本が伝わって
 
いる。全文は「続・新選組隊士列伝」に初出、後に校訂を加え「新選組史料集」に収録
 
された。
 
 
 

脱走者の実際
だっそうしゃのじっさい
 
 
新選組で、山南敬助の死を「脱走の罪」と発表した後、脱走者が厳しく処断された事例
 
がある。慶応二年六月、柴田彦三郎が金策を働き脱走、新選組はすぐに追手を差し向け、
 
福知山方面に逃亡したとの情報を得て付近を探索、出石藩領に潜入した事を確認。海野
 
七五三という変名、年齢、服装などを細かく記した人相書を藩の役人に提示して協力を
 
仰いだ。数日を経ず柴田の旅宿をつきとめた役人が捕縛、柴田は隊士に引き渡され、京
 
都の屯所に連れ戻された後に切腹。同三年四月に脱走した田中寅三は、京都本満寺に潜
 
伏中捕縛され、やはり屯所に連行されて切腹した。その場で斬り捨てず、屯所に戻して
 
からの切腹は他の隊士に対する見せしめであり、こうした厳罰をもって臨まなければ脱
 
走者が相次ぎ追跡も困難になったと思われる。
 
 
 

辰の口糾問所跡
たつのくちきゅうもんじょあと
(東京都千代田区丸の内一丁目)
 
辰の口兵部省事務局糾問所。現在は丸の内一丁目四番地の東京三菱銀行新丸の内支店、
 
永楽ビル、住友信託銀行ビル、当用信託銀行本店ビルなどが立ち並ぶ辺りで、JR東京
 
駅から徒歩五分、地下鉄大手町出口前。
 
明治二年十月津軽から新選組の森常吉が送還され、十一月十三日まで留置された。また
 
同年十一月九日、箱館から横倉甚五郎が、もと見廻組の今井信郎と共に、翌三年二月二
 
十二日まで留置された。同所は江戸時代には辰の口評定所であり、浪士隊以前の芹沢鴨
 
が同志を斬った為に入牢していたという話が、永倉新八の「新撰組顛末記」にある。
 
 
 

立見鑑三郎(立見尚文)
たつみ かんざぶろう
(弘化二・七・十九〜明治四十・三・六)
 
桑名藩士町田伝太夫静臥の三男として江戸の藩邸に生まれ、親族立見尚志の養子となる。
 
明治後は名を諱の尚文に改めた。号を快堂。御馬廻役で禄高百八十石、聡明勇敢兼備で
 
徳望があった。戊辰戦争時、実兄町田老之丞を隊長とする八十余人の同盟に参加、慶応
 
四年四月十一日の江戸開城にあたり脱して国府台に走り、十二日の旧幕脱走軍編成では
 
参謀土方歳三のもとで軍監となる。十六日夜に下妻陣屋へ出向き降伏させ、十七日には
 
下館城を囲み、同役の島田魁(新選組)・米沢精之進・峯松之助(共に会津藩)と城中
 
に乗り込み降伏させている。十九日の宇都宮攻城戦の後、桑名藩領の越後柏崎に赴き、
 
兵制を大改革した桑名軍の軍事奉行兼雷神隊隊長となり勇名を馳せた。越後、会津と転
 
戦し、庄内大山に於いて降伏、謹慎。後に官に出仕し、西南戦争城山攻撃、日清戦争平
 
壌攻撃では、錦絵にも取り上げられた程の働きを見せ、累進して陸軍大将となる。正三
 
位勲一等功二級男爵。その翌年、東京都牛込区喜久井町の自邸で病没、享年六十三。
 
墓は港区の青山霊園、戒名を「立功院殿尚厳英文大居士」。
 
 
 

館城の戦い
たてじょうのたたかい
 
 
明治元年蝦夷地に於いて、土方軍の江差進攻に呼応するように、松岡四郎次郎の指揮す
 
る一隊二百名が館城攻略のため箱館を出発、中山峠を越え、稲倉石の関門で松前軍と戦
 
闘し、厚沢郡の鶉村に至り宿営。この日、松岡本隊は東西両道から不意に松前軍の挟み
 
撃ちを受け狼狽した。
 
館城はその年の九月初めから築城にかかり、わずか二ヶ月余の突貫工事で城の周囲に濠
 
を掘り、内側に木柵をめぐらせた未完成の新城であった。
 
十一月十五日、松岡軍は二道に分かれて館城に迫る。門扉は厳重に守られていたが、そ
 
の下にわずかな隙間があるのを発見し、松岡軍の伊奈誠一郎、越智一朔の二人が匍匐前
 
進して門扉の下に這い潜り、中から門を外し、味方を城内に進入させた。松前軍は支え
 
きれず敗走したが、ただ一人、左手に鍋ぶたを持って弾丸を防ぎ、右手に刀を振るって
 
奮戦したのは、松前法華寺の僧・三上超順という士官であった。
 
 
 

田中寅三の切腹
たなかとらぞうのせっぷく
 
 
慶応三年四月十四日、新選組を脱走した隊士田中寅三は、潜伏先で捕縛され、翌十五日
 
切腹した。田中は平隊士ながら剣術師範を務め、品行方正な壮士、と言われた。勤王思
 
想も強く在隊中伊東甲子太郎にも接触していた。島田魁の記録によると、慶応三年三月、
 
伊東らは脱退に際して、今後互いに脱退して相手の隊に加入を願うことを一切禁じた約
 
定を近藤勇と結び、違反者は切腹と取り決めていた。田中は伊東らの脱退に同行せず、
 
残留していたが翻意し、四月十四日夜、伊東一派の屯所、五条善立寺を訪ねたが、身の
 
保全を考えた伊東は入隊を拒んだ。田中はやむなく、寺町本満寺(上京区寺町今出川上
 
ル二丁目)へ潜伏したが、伊東の通報を受けた新選組に捕縛され、約定に基づいて翌日
 
午の刻、西本願寺屯所で自刃。「いずかたも吹かば吹かせよ志古の風 高天の原は満に
 
吹まじ」「四方山の花咲かば咲け 時されば萩も咲け咲け武蔵野までも」と二首の辞世
 
を詠み、新選組と伊東派に痛烈な罵倒を込め、自らの勤王思想と討幕の期待を表現した。
 
互いの脱退者受け入れ禁止の約定はその後も守られ、同年初夏頃浅野藤太郎(薫)らが
 
離隊出来ず処断され、六月十四日、佐野七五三之助らが切腹死した。しかし江田(江畑)
 
小太郎、佐原太郎ら、後に伊東派に加入した者たちもいる。
 
 
 

田中藩陣屋跡
たなかはんじんやあと
(千葉県流山市加)
 
現在、流山市立博物館を含む高台にあり、博物館入口には維新後に県庁が置かれた事か
 
ら「葛飾県・印旛県庁之碑」が立っている。田中藩本多家は静岡県藤枝市に藩庁を持つ
 
五万石の譜代で、藩主本多正訥は駿府城代を兼ねていた。文久三年、深川扇橋の下屋敷
 
の藩士をこの地に移住させて、「加村台御屋敷」とし建物は御殿一棟、長屋二十七棟、
 
土蔵二棟、道場一棟を備えていた。慶応四年、官軍の東進にあたり、田中藩は二月八日
 
に勤王証書を提出したが、一万石の飛び地領にあった当地方の一部が彰義隊の勧誘に応
 
じ、会津藩士との提携のもとで幕閣を介して大久保大和(近藤勇)と連携した。田村銀
 
之助の遺談や復古記などから、同年四月には田中の陣屋が新選組の関東での拠点となる
 
はずだった事がわかる。大久保大和が出頭した長岡屋は、当地の西南三百メートルの天
 
領流山にある。
 
 
 

(参考 新人物往来社)
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