(不祥〜明治十・五・三十一) |
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後の名を具綏。幕臣滝川陶哉の長男。幕府陸軍伝習隊士官として慶応四年一月の鳥羽伏 |
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見の戦いに参戦、敗れて江戸に戻り、四月には大鳥圭介に共鳴して江戸を脱する。伝習 |
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第二大隊頭取改役として野州、会津を転戦。仙台で榎本艦隊に乗船、蝦夷に渡航。推さ |
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れて伝習士官隊長・歩兵頭並となり第一レジマン(連隊)第一大隊長となり箱館を守る。 |
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翌明治二年四月、二股口の激闘には土方歳三を助け、自ら敵陣に斬り込み奮戦。五月十 |
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一日の官軍総攻撃の日には箱館山下で戦闘指揮中に負傷、十八日の五稜郭降伏開城によ |
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り、滝川は青森を経て弘前の景勝院に謹慎、同年十月には再度函館弁天台場に移され、 |
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三年三月に赦免、静岡に帰った。明治四年、大川正次郎らと陸軍に入り、中尉となる。 |
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十年の西南戦争には、別動第二旅団の中隊長として出動、五月三十一日、熊本県球磨郡 |
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瀬戸山で敵を追撃、同郡美野原の戦闘で戦死した。 |
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新選組幹部で甲州流の軍学師範でもあった武田観柳斎が殺害された事件の理由について |
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は、通説では洋式軍学の導入により立場の弱まった武田が伊東甲子太郎派や薩摩藩に接 |
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近、隊の秘密を内通した事が露見し、慶応二年九月二十八日、新選組酒席の帰路、斎藤 |
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一と篠原泰之進に竹田街道銭取橋で斬殺された、と言われていた。武田が伊東や薩摩に |
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接近を図った事は考えられるが、しかし、篠原はその九月二十六・二十七日に近藤勇と |
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激論を戦わせており隊の暗殺命令に協力する状況とは考えにくい事、某尾張藩士の記録 |
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に「元隊士の武田某が殺害」とあった事や、彼の墓がない事等から、実際は慶応三年六 |
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月二十二日、既に除隊となっていた武田が独自の討幕運動を展開していた為、新選組に |
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殺害された、とするほうが正しいようである。武田の遺体を引き取りに来た三人の男が |
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隊士と乱闘になり逃走、うち一人が枚方で切腹したという。翌二十三日には新選組の加 |
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藤羆が死亡、壬生光縁寺に葬られており、武田に斬られたものか、或いは隊内同調者と |
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して枚方において切腹した人物の可能性がある。二十七日には武田の同志で善応という |
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僧侶が新選組によって殺害されている。子母澤寛の著作には新選組の美男隊士馬越三郎 |
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が武田に男色を迫られ、逆に薩摩内通の秘密を察知して隊に報告したとあるが、馬越は |
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元治元年には既に離隊しており、フィクションである事がわかる。 |
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箱館で降伏し生き残った新選組隊士立川主税が、謹慎中に綴った戦記。甲州出兵から箱 |
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館戦争終結までを記述したもので、「中島登覚書」「島田魁日記」より簡略ではあるが |
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甲州敗戦後、傷病者を会津へ先発させた事や新選組本隊の会津入りの経路など、独自の |
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貴重な記載もある。中島、島田と異なり、立川は箱館に於いて土方歳三附属となり、終 |
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始側に従った。日記中、「幕下わざわざ総督(土方)の知勇を恐る」「故に一人も損ぜ |
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ざるは総督の力なり」「土方氏常に下万民を憐み」と、土方に対する畏敬の念を色濃く |
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記しており、後に仏門に入って土方を厚く弔ったのもその為であろう。日記は明治五年 |
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頃、赦免後の立川が日野佐藤家を訪れ届けたもので現在土方生家などに写本が伝わって |
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いる。全文は「続・新選組隊士列伝」に初出、後に校訂を加え「新選組史料集」に収録 |
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された。 |
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(弘化二・七・十九〜明治四十・三・六) |
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桑名藩士町田伝太夫静臥の三男として江戸の藩邸に生まれ、親族立見尚志の養子となる。 |
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明治後は名を諱の尚文に改めた。号を快堂。御馬廻役で禄高百八十石、聡明勇敢兼備で |
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徳望があった。戊辰戦争時、実兄町田老之丞を隊長とする八十余人の同盟に参加、慶応 |
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四年四月十一日の江戸開城にあたり脱して国府台に走り、十二日の旧幕脱走軍編成では |
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参謀土方歳三のもとで軍監となる。十六日夜に下妻陣屋へ出向き降伏させ、十七日には |
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下館城を囲み、同役の島田魁(新選組)・米沢精之進・峯松之助(共に会津藩)と城中 |
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に乗り込み降伏させている。十九日の宇都宮攻城戦の後、桑名藩領の越後柏崎に赴き、 |
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兵制を大改革した桑名軍の軍事奉行兼雷神隊隊長となり勇名を馳せた。越後、会津と転 |
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戦し、庄内大山に於いて降伏、謹慎。後に官に出仕し、西南戦争城山攻撃、日清戦争平 |
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壌攻撃では、錦絵にも取り上げられた程の働きを見せ、累進して陸軍大将となる。正三 |
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位勲一等功二級男爵。その翌年、東京都牛込区喜久井町の自邸で病没、享年六十三。 |
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墓は港区の青山霊園、戒名を「立功院殿尚厳英文大居士」。 |
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明治元年蝦夷地に於いて、土方軍の江差進攻に呼応するように、松岡四郎次郎の指揮す |
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る一隊二百名が館城攻略のため箱館を出発、中山峠を越え、稲倉石の関門で松前軍と戦 |
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闘し、厚沢郡の鶉村に至り宿営。この日、松岡本隊は東西両道から不意に松前軍の挟み |
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撃ちを受け狼狽した。 |
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館城はその年の九月初めから築城にかかり、わずか二ヶ月余の突貫工事で城の周囲に濠 |
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を掘り、内側に木柵をめぐらせた未完成の新城であった。 |
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十一月十五日、松岡軍は二道に分かれて館城に迫る。門扉は厳重に守られていたが、そ |
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の下にわずかな隙間があるのを発見し、松岡軍の伊奈誠一郎、越智一朔の二人が匍匐前 |
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進して門扉の下に這い潜り、中から門を外し、味方を城内に進入させた。松前軍は支え |
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きれず敗走したが、ただ一人、左手に鍋ぶたを持って弾丸を防ぎ、右手に刀を振るって |
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奮戦したのは、松前法華寺の僧・三上超順という士官であった。 |
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慶応三年四月十四日、新選組を脱走した隊士田中寅三は、潜伏先で捕縛され、翌十五日 |
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切腹した。田中は平隊士ながら剣術師範を務め、品行方正な壮士、と言われた。勤王思 |
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想も強く在隊中伊東甲子太郎にも接触していた。島田魁の記録によると、慶応三年三月、 |
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伊東らは脱退に際して、今後互いに脱退して相手の隊に加入を願うことを一切禁じた約 |
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定を近藤勇と結び、違反者は切腹と取り決めていた。田中は伊東らの脱退に同行せず、 |
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残留していたが翻意し、四月十四日夜、伊東一派の屯所、五条善立寺を訪ねたが、身の |
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保全を考えた伊東は入隊を拒んだ。田中はやむなく、寺町本満寺(上京区寺町今出川上 |
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ル二丁目)へ潜伏したが、伊東の通報を受けた新選組に捕縛され、約定に基づいて翌日 |
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午の刻、西本願寺屯所で自刃。「いずかたも吹かば吹かせよ志古の風 高天の原は満に |
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吹まじ」「四方山の花咲かば咲け 時されば萩も咲け咲け武蔵野までも」と二首の辞世 |
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を詠み、新選組と伊東派に痛烈な罵倒を込め、自らの勤王思想と討幕の期待を表現した。 |
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互いの脱退者受け入れ禁止の約定はその後も守られ、同年初夏頃浅野藤太郎(薫)らが |
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離隊出来ず処断され、六月十四日、佐野七五三之助らが切腹死した。しかし江田(江畑) |
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小太郎、佐原太郎ら、後に伊東派に加入した者たちもいる。 |
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(千葉県流山市加) |
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現在、流山市立博物館を含む高台にあり、博物館入口には維新後に県庁が置かれた事か |
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ら「葛飾県・印旛県庁之碑」が立っている。田中藩本多家は静岡県藤枝市に藩庁を持つ |
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五万石の譜代で、藩主本多正訥は駿府城代を兼ねていた。文久三年、深川扇橋の下屋敷 |
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の藩士をこの地に移住させて、「加村台御屋敷」とし建物は御殿一棟、長屋二十七棟、 |
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土蔵二棟、道場一棟を備えていた。慶応四年、官軍の東進にあたり、田中藩は二月八日 |
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に勤王証書を提出したが、一万石の飛び地領にあった当地方の一部が彰義隊の勧誘に応 |
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じ、会津藩士との提携のもとで幕閣を介して大久保大和(近藤勇)と連携した。田村銀 |
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之助の遺談や復古記などから、同年四月には田中の陣屋が新選組の関東での拠点となる |
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はずだった事がわかる。大久保大和が出頭した長岡屋は、当地の西南三百メートルの天 |
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領流山にある。 |
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