新 選 組 大 事 典
刀の名。慶応四年戊辰の年に不運の士二人の首を刎ねた。偽官軍の汚名を着せられ信州 |
下諏訪宿(長野県下諏訪町)で斬首の赤報隊相楽総三と板橋宿一里塚において斬首の新 |
選組局長近藤勇である。子母澤寛の著作中にある「近藤勇五郎老人思出話」に、「勇の |
首を斬る大刀取りは二人でありました。一人は背のすらりとした眼の大きい四十一、二 |
の人で」と書かれた武士が岐阜揖斐岡田家武術師範の横倉喜三次であり二王清綱は横倉 |
の佩刀である。慶応四年四月二十五日昼、板橋宿で軍監脇田頼三の実検のもと、横倉は |
近藤勇に最後の挨拶をし「何も申し遺さるることなきや」と問うと、近藤は「宜しく頼 |
む」と答え、横倉が名刀二王清綱を振りかざし気合と共に一閃して首を刎ねた、と伝え |
られている。 |
(文政六〜元治二・二・十一) |
近江の人。名は直純、号を俛斎。変名を北村太郎。道学、易学に通じ、一時期洛東に隠 |
棲して梅田雲浜の門下に入り雲浜刑死後の故宅を片付け、碑を立て、妻子の面倒を見た。 |
変名で三条富小路入ル北側に書店を開き、幕吏に疑われて聖護院の儒者鈴木恕平の家を |
借りて潜居、桝屋(古高俊太郎宅)に出入りして京都回復の謀議に加わる。元治元年六 |
月五日の池田屋事件当夜は素早く危機を脱して聖護院の自宅に帰るが、翌六日に新選組 |
(または幕吏とも)に探知されて捕らわれ、六角獄に送られた。五日に池田屋で捕縛の |
説もある。獄舎での拷問にはよく耐えたが、病死或いは斬殺ともいう。享年四十三。 |
墓は京都東山霊山と西京区御陵大槇山西念寺。 |
(京都市下京区堀川通花屋町下ル) |
京都の二つの本願寺で、東は佐幕、西は勤皇寄りと俗に言われるように、元治元年の蛤 |
御門の変の際、西本願寺では境内へ逃げ込んだ長州藩士に僧侶の格好をさせて落ち延び |
させるなどしたため、幕府側から勤皇派であると睨まれ、山内捜索の結果、家臣僧侶数 |
名が捕らえられている。こうした経緯から、翌年の慶応元年二月には監視の意味もこめ |
新選組が西本願寺に屯所を移した。使用されたのは東北の方角にある北集会所と太鼓番 |
屋、堂宇(幼稚園)である。新選組は本陣の札を掲げ、本堂との間に竹矢来を組み、牢 |
屋から首切り場までこしらえ、境内で剣術や銃砲の訓練を行い、住民や寺も大いに迷惑 |
した、という。幕医松本良順のすすめで、食用に豚を飼ったという話もこの屯所の頃で |
ある。特に銃砲の音は寺の門主を驚かせ、会津藩に交渉して、大小砲の訓練は壬生寺で |
行うようになった。新選組はその後、慶応三年秋に不動堂村の新屯所に移り、北集会所 |
は明治初年に解体、姫路市亀山本徳寺の本堂として移転、現在も残っている。 |
「新撰組始末記(壬生浪士始末記)」の著者西村兼文はこの西本願寺の侍臣であったた |
め、後年の著作にも、迷惑を被った新選組に対して好意的でない部分が多い。 |
(天保三・七・二十二〜明治二十九・十一・一) |
山城京都出身。西村房義の次男。城兼文。西本願寺の侍臣で、元治二年(慶応元年)三 |
月、新選組が西本願寺に屯所を移転した時には西国から九州を旅行中で、同時期に「西 |
本願寺の西村芳三郎」という人物が西国の情報収集をしていたという記録があり、同一 |
人物と推定される。帰京後は新選組の中でも勤皇色の強い隊士(伊東派など)と主に交 |
流して情報を得、それらに自分の取材を加え明治二十二年「新撰組始末記」を著す。他 |
「近世野史」「甲子戦争記」などの見聞録や書画骨董などの著作も多い。西本願寺退任 |
後は著述業から奈良県庁の職を得て宝物取調官となり同地で没した。享年六十五。墓は |
京都市東山区五条大橋東六丁目の西大谷墓地。 |
(東京都新宿区二十騎町) |
近藤勇の留守宅所在地。試衛館所在地とされる甲良町の東隣で、近藤勇五郎の談による |
と慶応三年四〜五月頃に移転したというが、武家地であり浪人や町人の居住が許されて |
いない町なので、六月の幕臣取り立てを機に移ったとも考えられる。江戸城に出仕する |
御城坊主の家を購入し、部屋数は三つ、台所を増築しただけの質素なものだった。この |
年の十月に隊士募集のため江戸に戻った土方歳三は廿騎町のこの家で応募者の面接を行 |
い、上洛の集合場所とし、二十一日に出立した。 |
幕末維新の基礎史料を集大成した日本史籍協会による叢書。大正四年から昭和にかけて |
刊行され、現在は東京大学出版会から正編百九十二巻、続編百巻が復刻されている。 |
下記新選組に関する史料も断片的に収録されている。 |
「朝彦親王日記」「維新日乗纂輯」「岩倉具視関係文書」「大久保利通文書」「甲子雑 |
録」「楫取家文書」「川路聖謨文書」「吉川経幹周旋記」「九条家国事記録」「西郷隆 |
盛文書」「採襍録」「続再夢紀事」「嵯峨実愛日記」「薩摩出軍戦状」「巣内信善遺稿」 |
「尊攘堂書類雑記」「伊達宗城在京日記」「丁卯雑拾録」「東西紀聞」「中山忠能日記」 |
「中山忠能履歴資料」「連城紀聞」「連城漫筆」「加太邦憲自歴譜」「官武日記」 |
慶応元年四月、大坂の村井北山という人物がおり、新選組隊士尾関弥四郎のもとで隊士 |
募集の根回しをしていたところ、長州から来た金作という者と出会い、署名入りの書付 |
を渡した。金作が書付を手に芸州出身と偽って新選組入隊を希望すると、応対の隊士か |
ら独身か否かを問われ、妻子持ちと答えると「妻子を十里ほど離れた土地に預けてから |
一人で来れば入隊を許す」と答えたという。金作はそのまま帰国し実現しなかったが、 |
慶応三年の池田七三郎の入隊に際しても、実技試験はなく説明を聞いただけで入れたと |
しており、入隊自体は容易だった場合もあるようだ。 |
(福島県会津若松市神指町中四台) |
戦国大名上杉景勝の築城した神指城南の外域。如来堂観音があったことから廃城後も地 |
名として残った。会津戦争の時、新選組本隊とは別に山口次郎(斎藤一)ら二十余人が |
この地に陣を張り、守備中に敵襲を受けて壊滅したとされる。如来堂の激戦の模様から |
実は生存していた山口らも、箱館に従軍した中島登などには戦死と伝わっていたようで |
ある。堂の前には「史跡新選組殉難地」の石碑が建つ。 |
会津戦争中、慶応四年九月四日、山口次郎(新選組斎藤一)らが守備する高久村南方の |
如来堂が新政府軍に襲われ全滅したとされる戦闘。この時、新選組の本隊は高久北方の |
塩川にあり、高久を南北から挟んで別行動をとっていたということになる。これは、山 |
口ら会津に残留して徹底抗戦を主張する一隊と、会津から仙台へ向かう本隊の相違によ |
る。よって、新選組が高久での戦闘開始に如来堂から応援を出し、その手薄になったと |
ころへ攻撃された、という説は考えにくい。如来堂の一隊は二十人ばかりとも十三人と |
もされるが、中島登の記録によれば、山口次郎、久米部正親、池田七三郎、高橋文二郎、 |
志村武蔵、河合鉄五郎、吉田俊太郎、新井破魔雄、小幡三郎、高橋渡、清水卯吉の十人 |
が確認され、谷口四郎兵衛によると森権次郎、森庵六之助、円尾啓二郎が追加できるが |
この三人には異論もある。更に、戦いから脱出した隊士は山口、池田、久米部、吉田、 |
河合、志村の六人は確認できる。新選組隊士たちの記録には九月四日とあるが、勃発は |
五日。 |
(生没年不詳) |
米渓彦作(まいたに げんさく)。本国は摂津。元肥前唐津藩士。唐津藩士米渓新助常 |
道の養子と思われる。戊辰戦争時の変名を丹羽騏三郎。維新後に新井常保と改名。大野 |
右仲の弟とも。箱館脱走軍役員外客員で藩旧世子の小笠原長行に従い、身辺の世話をし |
た。慶応四年三月三日、長行が難を避け江戸深川の藩邸を抜け出した時に供を申し付け |
られ、情報収集を受け持ったと思われ、江戸、常総、庄内など各方面へ出張、九月に仙 |
台へ着き、蝦夷行きの榎本艦隊開陽艦乗船を決意した長行に同乗を許された藩士二人の |
うちの一人である。新選組には加入しなかったらしい。明治二年四月二十五日、長行が |
外国船で蝦夷脱出の時も同行した。 |
文久元年八月二十七日、府中の六所宮で近藤勇の天然理心流四代目披露の野試合が開催 |
された。源平になぞらえ紅白両軍に分かれ、赤軍は大将・萩原糺(小山村)以下三十五 |
名、白軍は大将・佐藤彦五郎(日野宿)以下三十五名。本陣は惣大将・近藤勇、軍師・ |
寺尾安次郎、軍奉行・沖田林太郎、太鼓・沖田総司、鉦役・井上源三郎。勇は中央に陣 |
取り審判役、法螺貝は江戸の本職の者が務めた。赤軍の衛士に土方歳三、玄武に山南敬 |
助が参加しており、合計八十八名。二回戦までは一対一の同点、決勝戦では大将同士の |
一騎打ちで白軍佐藤が勝った。佐藤はこの感想を「実際に戦闘となると強士といえども |
自分の身を守ることで精一杯であった」と語っている。 |
(文化十二・七・二十六〜明治十四・一・十) |
武家伝奏。正二位前大納言定祥(百五十石)長男。万延元年十月、和宮降嫁の御縁組御 |
用掛、文久二年一月議奏、同十一月武家伝奏、翌月国事御用掛兼帯となる。文久三年八 |
月十八日の政変の日、近藤、芹沢ら壬生浪士五十二人の一行に「新選組」の隊名を命名。 |
同日に参代・他行・他人面会の禁止処分を受けるが、元治二年三月、権中納言に昇任。 |
同年(改元して慶応元年)閏五月、正二位を叙す。慶応三年十二月九日の王政復古では |
公武合体派として参朝を止められ、慶応四年一月、明治天皇元服の大赦で赦免されたが |
権中納言を辞した。明治二年七月、皇后宮大夫。墓は京都市上京区寺町通り今出川下ル |
の廬山寺。 |