新 選 組 大 事 典
(京都市中京区壬生賀陽御所町四九) |
新選組の壬生郷士屋敷分宿時代の屯所の一つ。綾小路通坊城角に当時のたたずまいを残 |
す長屋門のある建物で、現在は株式会社田野製袋所のある所。母屋には昔、式台付きの |
玄関や馬四頭が駆け込める勝手口があった。前川邸は文久三年三月に浪士組残留の近藤 |
らが守護職預りとなって以来屯所に使われ、裏庭では隊士が大砲撃ちの訓練をしたとい |
う。建物内部にはあちこちに刀傷が残っている。門に向かって右の出窓のある部屋で野 |
口健司が切腹。山南敬助が切腹したといわれる部屋の出窓は現在は取り払われているが、 |
坊城通りに面してあった。古高俊太郎を取り調べた土蔵もそのままに残っている。慶応 |
元年に新選組が西本願寺へ屯所を移転した際、それまでの部屋代として前川家には十両 |
の礼金を置いていったと言われている。 |
(京都市中京区木屋町通四条上ル真町) |
古高俊太郎住居の桝屋跡は、現在はイマジアムビルが主要地域を占め、西木屋町四条上 |
ル西側のリプトン辺りから、北側の路地を挟んで次の東西路まで、奥は西方「志る幸」 |
の地域に及んでおり、当初桝屋北角に建てられた「古高邸址」の石標は西へ移設された。 |
元治元年六月五日、新選組が急襲し桝屋主人(古高俊太郎)を連行、家捜しの結果、堅 |
気の商人には似合わぬ具足十一領、槍二十五筋、木砲五挺、弓十一張、矢五百筋と火薬 |
類が押収された。同日に池田屋事変が起き、その後闕所として町内預けとなり没収され |
た桝屋の家屋は本宅一棟、土蔵二棟、借家十八棟、納屋一棟であった。古高俊太郎の養 |
嗣子・章氏は「明治元年十二月現在、何人の所有たるや今以て原型の侭現存す」と記し |
ている。その後、維新史家の寺井万次郎氏の先代ほか数軒が跡地を買い受けて入居し、 |
改築、譲渡を重ねて今日に至る。 |
(生没年不詳) |
元伊勢桑名藩卒。戊辰戦争に際して会計方番外御勘定奉行勤となる。十二石三人扶持。 |
仙台で蝦夷行きを決意した松平定敬と榎本艦隊開陽艦に同乗を許された桑名藩士三名の |
うちの一人に選ばれ、箱館脱走軍役員外客員として定敬の身辺の世話に当たった。蝦夷 |
地に渡り、やはり会計を担当したようで明治元年十二月二十八日頃に藤井安八とともに |
外国船に乗って東京へ金策のために潜入する。翌二年三月十日に、四百〜五百両を工面 |
して帰還したといわれている。四月十三日、定敬が箱館港からアメリカ船に乗り込み蝦 |
夷地を脱出する際にも同行した。 |
(不詳〜明治三十六・四・七) |
大坂西町奉行、千二百石。称を大内蔵、勘太郎。大隅守、河内守を叙す。名は信敏。 |
文久三年五月二十二日、目付から大坂町奉行と「柳営補任」にあるが、「江戸幕臣人名 |
事典」の自筆短冊によれば五月二日の就任で、日付を証する一文として西町奉行与力・ |
田坂直次郎の塩飽島掛申付の辞令が五月十四日に松平勘太郎から出されている。大坂は |
江戸と違い、片方の奉行が不在の時はもう一方の奉行が代行する。また、与力の職制分 |
担も常に臨機応変に行われ、突発的な事態に即応して特命やプロジェクトチーム作りが |
行われていた。芹沢・近藤らの壬生浪士と大坂角力との喧嘩も、東町奉行有馬出雲守則 |
篤が着任前とすれば、松平とその配下の内山彦次郎が取り扱った可能性がある。松平は |
その後右腕ともいうべき内山を失うが、慶応三年一月十六日に大目付に転じるまで西町 |
奉行の席にあり、同年十二月十六日に東町奉行として再任するが、戊辰戦争の勃発によ |
り江戸へ引き揚げて勘定奉行となる。勝海舟日記に「坂下(本)竜馬暗殺は、佐々木唯 |
三郎はじめとして(今井)信郎などの輩、乱入と云う。尤も佐々木も上よりの指図これ |
あるにつき挙事、或いは榎本対馬の令か知るべからず」と松平勘太郎の談としてある。 |
東京都新宿区舟町の西迎寺に合葬墓があり、戒名は温良院殿恭誉謙道居士。 |
肥後国熊本城下に生まれる。名は範義。井原丈右衛門保清の弟、山田十郎信道の兄。林 |
桜園に国学、宮部鼎蔵に兵法を学ぶ。十七歳で藩の小吏なり、次いで藩主の弟・護久に |
仕える。嘉永六年の米艦来航に際して江戸に行き、攘夷を志す。安政二年江戸を発して |
途中、江川太郎左衛門に会う。上洛して梅田雲浜の家に寓す。桂小五郎と謀り肥後・水 |
戸・長州の同盟を周旋するが果たさず、安政の大獄を避けて高野山から四国・九州へ逃 |
れた。文久二年、肥後勤王党の糾合を図るが成らず、文久三年八月の天誅組蜂起には合 |
流せず、丹波から京都へ赴く途中七卿落ちの一行に会いともに長州へ下った。翌元治元 |
年夏に宮部鼎蔵らと上洛し、会津藩主松平容保を倒そうと画策、池田屋の謀議にも出席 |
したが、新選組に襲われ闘死した。享年三十五。墓は岩倉花園町の三縁寺と、東山霊山 |
に招魂碑がある。 |
(東京都台東区小島二丁目八、九、十一番地) |
松前伊豆守中屋敷。現住所は小島小学校とその北隣一帯であり、三味線堀(その形から |
名づけられたが現在は埋め立てられている)に近い。地下鉄の稲荷町駅か御徒町駅から |
徒歩十分。錦糸町〜大塚駅間のバスで元浅草一丁目下車徒歩三分。この大塚駅行きのバ |
スに乗ると藤田五郎寓居跡近くの真砂坂上や伝通院を通る。 |
松前藩邸では、永倉新八が天保十年に生まれ、十九歳の時に脱藩するまで過ごした。 |
明治二年二月、永倉は旧藩へ帰参が許され再び藩邸に住むが、この頃、藩邸から南へ二 |
キロほどの両国橋で旧御陵衛士の鈴木三樹三郎と出会い、鈴木が仲間とともに永倉をつ |
け狙って、藩邸近辺に出没するという一件があった。 |
(東京都港区三田二丁目四、五、六番地付近) |
松山壱岐守中屋敷。現在は慶応大学の北隣、イタリア大使館などを含む一帯で、地下鉄 |
芝公園か三田駅、JR田町駅から徒歩十分。 |
安政三、四年頃、原田左之助が十七、八歳の時にこの中屋敷の長屋で起居していた。元 |
松山藩士でこの藩邸で生まれ、後に「史談会速記録」に談話を残した内藤素行によれば |
原田が中間をしていたころ、子供時代の素行が遊んでもらったり、または日頃の言動を |
憎まれ、猿ぐつわをはめられ水責めに遭った、などという話が残っている。 |
(福島県西白河郡西郷村真名子) |
会津戦争の時、藩境の守備として山口次郎率いる五十名の新選組は、旧幕府軍の渡辺綱 |
之助率いる純義隊、野田進率いる会義隊などとともに真名子に陣を張り、白河城攻撃の |
命令を受け慶応四年閏四月二十一日にここから出撃した。 |
(天保八〜慶応三・五・二十五) |
京都の向日明神の神主・六人部美濃守雅香の次男に生まれ医家曲直瀬家の養子となって |
家督を継ぎ勤皇活動に邁進。薩摩藩・小松帯刀、江州・三上兵部、紀州・陸奥陽之助、 |
対馬・島正作らと図り海運業をもって倒幕資金を調達しようと東西奔走するうち、新選 |
組に目を付けられた。慶応三年五月、新選組を伊東甲子太郎と共に離隊していた薩摩出 |
身の富山弥兵衛が大坂の道策の家を訪問し、さんざんに理不尽なことを言い、困惑した |
道策が小者一人を連れて富山を外に誘い出し、難波新地にさしかかると、富山は突如抜 |
刀し、背後から後頭部にかけて斬り付け絶命させたという。富山は金のもつれから私怨 |
で道策を殺したと思われるが真相は不明。道策の享年は三十と伝わり、墓は曲直瀬家の |
菩提寺・京都市上京区寺町通今出川上ル三丁目鶴山町十三番地の西山浄土宗華宮山宝樹 |
院十念寺。 |
(大阪市天王寺区下寺町一丁目) |
浄土宗慶立山万福寺。新選組の大坂屯所となった場所。いつ頃から屯所に当てられたか |
は不詳だが、井上源三郎が長兄松五郎に宛てた書簡に名があり、慶応元年五月二十六日 |
大坂町人の勤皇家藤井藍田を捕縛してこの万福寺に連行、凄惨な拷問を加えたという。 |
同年閏五月二十四日の将軍家茂の下坂の際警護の各藩の旅宿が定められたが、記録には |
「南下寺町万福寺 壬生組」とある。同寺は戦災を免れたものの昭和四十五年七月に火 |
災に遭い、庫裏を残してほとんど焼失、藍田を押し込め牢獄に使った納屋と、当時の住 |
職が藍田に描かせたという絶筆の山水画が残る。 |
(文政十二・八・十八〜明治四十三・十二・十一) |
伊予国西条(紀州藩の支藩)出身。父は西条藩士小川武貴、母は三浦氏。幼名を光太郎。 |
休太郎・五助。内田敬之助、諱を安。雅号香瀾・雨窓・雷堂。嘉永三年江戸に出て、山 |
井璞輔、安井息軒の塾、昌平黌に学んだ。帰藩後(期間には異論あり)三浦家の養子と |
なり郡奉行を務め、将軍継嗣問題で西条藩宗家の紀州藩側として付家老水野土佐守忠央 |
に従って奔走、紀州藩で重きをなした。安政七年三月三日、大老井伊直弼が暗殺され、 |
水野忠央が蟄居、三浦は伊予国西条に帰る。慶応年間になると紀州藩の京藩邸で家老代 |
理を務め、朝幕斡旋役として活躍。新選組隊士を藩邸に潜伏させたりした。慶応三年十 |
一月十五日の坂本竜馬・中岡慎太郎の暗殺事件では、いろは丸問題で遺恨のあった紀州 |
の差し金ではと疑う海援隊陸奥陽之助(宗光)らが三浦を黒幕として狙う。翌十二月七 |
日、油小路通花屋町下ルの天満屋へ投宿中の三浦と護衛の新選組隊士が酒盃を交わして |
いる中を、陸奥ら海援隊士が襲撃、三浦は頬や顎に軽傷を負うが新選組に助けられて難 |
を逃れる。維新後は明治政府に仕え順調に昇進し、元老院議員、貴族院議員などを歴任。 |
明治三十六年東京府知事、後に宮中顧問官となった。墓は東京都港区青山墓地にあった |
が、豊島区西巣鴨妙行寺に改葬した。 |
(文化二〜慶応四・二・六) |
美濃大垣出身の博徒。通称を岐阜の弥太郎。京に上って新選組の御用達を務めるなど、 |
佐幕方の博徒として働いたが、鳥羽伏見の戦いで幕軍が敗れ大垣藩も新政府に恭順する |
と弥太郎ら藩内の佐幕派は皆投獄された。弥太郎は無念のあまり入牢中に自殺して果て |
たと伝わる。享年六十四。 |
(京都市東山区大和大路西入ル) |
京都四条河原は歌舞伎の祖・出雲阿国が興行を始めたという地で、南座はそこに建つ劇 |
場であり元和六年(一六二十年)頃に創設、現在も興行が続けられており、毎年十二月 |
の顔見世は京の冬の風物詩となっている。 |
元治元年十一月一日、「仮名手本忠臣蔵」の初日上演中、酒に酔った新選組隊士数名が |
入場、隣席の客と口論したり、舞台へ罵声を浴びせたりした。この時の客席に勤皇芸者 |
と名高い中西君尾がおり、隊士たちが鉄扇で君尾の面を打ち連れ去ろうとしたところを、 |
一人の若侍が助けたと伝わっている。 |
(京都市中京区梛ノ宮町三一) |
地蔵院、宝幢三昧院とも称した。壬生寺は勅願寺であり、律宗の別格本山で奈良唐招提 |
寺に属す。新選組の在京中、境内で沖田総司が近在の子供たちと鬼ごっこなどをして遊 |
んだという。新選組はこの勅願寺で兵法訓練も行い、月に六度四と九の日は馬を乗り入 |
れぬ事、大砲などは使用しない事という条件は守られるはずもなく、大砲の響きで堂宇 |
も損傷し、近隣や参詣人も多大な迷惑を受け、朝廷に請願書を出している。昔も今も、 |
二月の節分会や四月の壬生念仏狂言は市民の楽しみとなっており、壬生塚や近藤勇の胸 |
像など新選組を記念したものもあり、祇園祭宵山の毎年七月十六日には隊士の慰霊法要 |
が行われている。 |
芹沢鴨、平山五郎をはじめとする新選組隊士はもとこの墓地に葬られており、屯所とな |
った八木家の墓所もここである。壬生寺南門から出て仏光寺通りの西筋向かいに入口門 |
がある。点在していた隊士の墓石は後に寺内の現在の壬生塚辺に移され、昭和四十六年 |
に俳優上田吉二郎氏により近藤勇の胸像が建立されるとともに中の島も整備され、新選 |
組史跡を訪ねる人の交流の場となっている。 |