新 選 組 大 事 典


陸軍隊
りくぐんたい
 
 
戊辰戦時、彰義隊に参加した旗本春日左右衛門が上野の敗戦後、松平太郎や旭隊長吹田
 
鯛六らとはかって編成した一隊で、別名春日隊。主力は歩兵奉行井上八郎配下の兵か。
 
慶応四年六月、官兵の吹田襲撃により、急遽海路を奥州へ脱し、久の浜へ上陸、徳川陸
 
軍と称す。新選組の相馬主計、野村利三郎は近藤勇に板橋で付き添ったあと、土方の本
 
隊へ合流するまでの間この陸軍隊に幹部として加わった。また、この隊は一時「新額兵
 
隊」を称して仙台額兵隊の脱走に尽力した。奥羽の戦を経て、明治元年十月に蝦夷へ渡
 
島。箱館入りの際、春日と野村が対立した話は有名である。後に土方歳三の指揮下で松
 
前攻略に従軍。翌二年四月、官軍の松前奪還攻防で頭取今井(山田とも)八郎以下一小
 
隊を失う。五月十一日に春日が負傷して以後、頭取改役和田伝兵衛がこれを率いて千代
 
ケ岡に布陣したが、同所陥落前に多くが逃亡。和田ら数名は五稜郭へ戻り籠城した。同
 
十八日に恭順、解兵。箱館戦争中、新選組の少年隊士田村銀之助が春日の養子になった
 
ともいい、「史談会速記録」にその最期を記している。
 
 
 

陸軍奉行並
りくぐんぶぎょうなみ
 
 
箱館政府における土方歳三の役職。一般には選挙によって総裁他の各役職が決められた
 
結果就任したとされる。(「箱館政府の選挙」の項を参照の事)
 
開拓奉行となった沢太郎左衛門の記録によると、投票は各役職ごとに行われ、陸軍奉行
 
の結果は、大鳥圭介・八十九票、松平太郎・十一票、土方歳三・十一票、松岡四郎次郎・
 
六票、伊庭八郎・一票、町田肇・一票とあり、大鳥が奉行に選ばれ、松平は副総裁に就
 
任したため除外され、三位の土方が陸軍奉行並となった。土方は他に箱館市中取締と裁
 
判局頭取を兼任した。
 
 
 

両雄士伝
りょうゆうしでん
(新撰隊近藤昌宣土方義豊伝)
 
小野路村(現東京都町田市小野路)の名主小島鹿之助が、近藤勇と土方歳三の汚名を雪
 
ぐ為に明治六年に著した漢文。続国史略、説夢録、中島氏日誌、雨窓紀聞、安富正儀筆
 
記、近藤勇書簡、佐藤俊正書簡を参考にして撰した。この中で鹿之助は「二子の如き者
 
其忠誠義烈高し」と最高の賛辞を送っている。両雄士伝は明治四十一年史談会速記録第
 
百八十三輯の「殉国志士の事歴」と大正二年三月に自費出版された「韶斎遺稿集」に所
 
収されており、最近では小島資料館発行の「新選組余話」に収録されている。
 
 
 

蓮華寺
れんげじ
(青森県青森市本町一ノ五)
 
日蓮宗広布山蓮華寺。箱館戦争の降伏人達が、明治二年五月二十二日に青森へ到着、こ
 
の寺には「蓮花寺賊名簿」によると榎本対馬を筆頭に百四十五人が収容され、近くの蓮
 
心寺には大島富雄、安富才助を含む二百三十五人が収容された。「中島登覚え書」によ
 
ればさらに油川の明誓寺に移され、六月八日からは弘前で幽囚生活を送り、七月二十一
 
日、再び蓮華寺に移されて三ヶ月間をこの寺で過ごし、十月二十五日に箱館弁天台場へ
 
移された。
 
 
 

浪士組の上洛
ろうしぐみのじょうらく
 
 
清河八郎の提言に賛同した幕府では、文久二年十二月に松平主税介、続いて鵜殿鳩翁、
 
中条金之助を浪士取扱に任命。将軍上洛警護を目的として、翌三年一月に江戸を中心に
 
浪士を募集、近藤勇らも応募した。二月四日に伝通院塔頭の処静院内大信寮にて事前の
 
会合を行い、六日に手当支給、組の編成を決め、三十人ずつ七組、一組は十人ずつ三組。
 
人数は諸説あり、「尽忠報国勇士姓名録」二百二十九名、「新徴組上京姓名録」二百三
 
十七名、「上京有志姓名録」二百四十四名、「廻状留」二百三十七名、「有志浪士掛役
 
人併浪士姓名」二百四十名と記される。(一般には二百三十四人とされている)
 
近藤勇が道中先番宿係に、三番隊新見錦組には井上源三郎、沖田林太郎等。三番隊芹沢
 
鴨組には土方歳三、沖田総司、山南敬助、永倉新八、藤堂平助、原田左之助、平山五郎、
 
野口健司、平間重助。取締役に山岡鉄太郎、松岡万(萬)が配されている。
 
浪士組は二月八日に伝通院を出立、中山道を一日平均十里進んだ。宿泊先は下記の通り。
 
◆八日・大宮 ◆九日・鴻ノ巣 ◆十日・本庄 ◆十一日・松井田 ◆十二日・追分
 
◆十三日・長久保 ◆十四日・下諏訪 ◆十五日・奈良井 ◆十六日・須原
 
◆十七日・中津川 ◆十八日・伏見 ◆十九日・加納 ◆二十日・柏原
 
◆二十一日・武佐 ◆二十二日・大津 ◆二十三日・京都着壬生入り
 
 
 

浪士組の分宿先
ろうしぐみのぶんしゅくさき
 
 
文久三年二月二十三日に上洛した浪士組二百三十四人は、壬生村の各所に分宿した。
 
場所と人数は以下の通り。
 
◆新徳寺……………取締役、世話役並目付方・十九人、五番組・十人、七番組・九人
 
◆更雀寺……………一番組・二十九人、二番組・三十人
 
◆中村小藤太宅……三番組・三十人
 
◆四出井友三郎宅…四番組・三十人
 
◆南部亀太郎宅……取締役並出役・二十九人、五番組・八人
 
◆百姓政太郎宅……五番組・九人
 
◆村会所……………六番組・十人
 
◆八木源之丞宅……六番組・十人
 
◆浜崎新三郎宅……六番組・十人
 
◆柳恕軒宅…………七番組・十二人
 
◆百姓新三郎宅……七番組・九人
 
翌二十四日に更雀寺の浪士たちは中村小藤太宅へ移っているが、それに伴い異動があ
 
ったかどうかは不詳。
 
 
 

浪士文久報国記事
ろうしぶんきゅうほうこくきじ
 
 
平成十年に原本が発見され、発表された永倉新八の手記。維新後に著したもので、新選
 
組時代の出来事が詳細に記され、総数七十九枚の和紙に筆で書かれており、それを二つ
 
折にして綴じたものが三分冊にされていた。内容的には永倉の印象に残る事件のみが取
 
り上げられ誇張等も見られたりするが「新撰組顛末記」より年代が新しく、事実に基づ
 
いた部分も多く補完史料として貴重である。副題「新選組戦場日記」としてPHP刊。
 
 
 

六道口
ろくどうぐち
(栃木県宇都宮市京町一丁目)
 
六道口は宇都宮と壬生、栃木(いずれも現栃木県内)を結ぶ街道の要所として木戸が設
 
けられていた。慶応四年四月、大鳥圭介らの旧幕軍に奪われた宇都宮城の奪還をめざす
 
新政府軍の進攻は、二十三日の午前九時頃に始まり、大山弥助率いる薩摩二番砲隊、野
 
津七次の薩摩六番隊、大垣兵を含む約二百名余が、宇都宮城西方から滝ノ原を経て六道
 
口へ殺到した。
 
大山砲隊の砲弾は六道口を簡単に破り、城下へ突入。最大の激戦地となったのは松ヶ峯
 
門付近で、土方歳三はこの激戦の中で足を負傷。同じく負傷の会津藩士秋月登之助(江
 
上太郎)とともに今市へ後送された。戦況は一度旧幕大鳥軍に優勢となったものの、午
 
後三時を過ぎて形勢は逆転し、新政府軍の勝利に終わる。五時頃、大鳥らは城東から退
 
却を開始した。六道口には旧幕軍戦死者の合葬墓があり、近くの報恩寺には薩摩藩側の
 
戦死者墓がある。
 
 
 

六角獄舎跡
ろっかくごくしゃあと
(京都市中京区六角通り神泉苑因幡町)
 
正式には三条新地牢屋敷。宝永大火の後に移設し、六角獄舎と呼ばれた。元治元年七月
 
禁門の変の兵火が接近し、狼狽した幕吏は平野国臣ら志士数十名の囚人を、逃亡の恐れ
 
ありとして解き放ちの処置にはせず、牢内で惨殺した。一説には新選組が出動して処刑
 
に加わったというが確証はない。結局、火は堀川で止まり獄舎は焼けなかった。
 
大政奉還後に京都府の監獄舎となり、後に山科刑務所に移った。明治三十二年、六角獄
 
舎七百五十坪の跡地に盟親会堂(寮)が建てられ、少年感化保護事業、昭和以後は更正
 
保護事業が経営された。平成二年四月旧施設は改築され、三年四月に竣工、五月十五日
 
から盟親寮として再開し、新しい建物は旧域の奥に位置し、首洗い井戸は埋められて枠
 
だけが新館北側中ほどの坪庭に移された。道路沿いの入口左側に旧石標二基が建ち、塀
 
の内側通路左側の一面に、山脇東洋観臓地の碑と殉難志士忠霊塔が建つ。
 
 
 

(参考 新人物往来社)
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