(生没年不詳) |
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大坂新町の芸妓。土方歳三が小野路名主の小島鹿之助に宛てた手紙に記されている。 |
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(「君菊」の項を参照の事) |
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新町遊郭は江戸時代の大坂では唯一の公許の遊郭で、ニシ、西の郭と呼ばれた。現在の |
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大阪市西区新京橋町・新堀町・瓢箪町など八町、東は横堀川、北は立売堀川、南は長堀 |
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川に囲まれた一角であり、周囲は溝で囲まれて他の町と区別し、初め出入口は瓢箪町の |
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西の大門だけであったが、明暦三年から東にも大門が出来た。遊女には太夫・引舟・天 |
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神・鹿子位(かこい)・端女郎(局女郎)の階級があり、享保以降に酒席へ出る天神芸 |
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者や鹿子位芸者が出来た。 |
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土方の記した北之新地は京都の北野七軒町とは別で、現在の大阪市北区曽根崎新地であ |
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る。蜆川沿いに東から一丁目から三丁目まであり、曽根崎川改修に伴い宝永五年から新 |
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地が出来、茶屋や旅籠の進出とともに発生した遊郭で、キタ、北の新地と呼ばれた。 |
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(北海道茅部郡森町鷲ノ木町) |
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明治元年十月に旧幕府軍榎本艦隊が上陸した地で、地名の由来は鷲の止まる大樹があっ |
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たからという。寛政年間には鷲ノ木会所も設けられていた。明治元年の宗門人別帳には |
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戸数八十戸、人口四百五十人とある。渡島地方東海岸の中央部・内浦湾(噴火湾)に面 |
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する漁村、JR函館本線桂川駅一帯。現在は鷲ノ木史跡公園に石碑が建ち、正面に「史 |
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跡箱館戦争榎本軍鷲ノ木上陸地跡」側面に「明治元年十月二十日上陸」とあり、霊鷲院 |
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が当時この地にあった。 |
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後に旧幕軍の箱館政府陸軍奉行となった大鳥圭介は、「鷲ノ木へ上りしに、積雪すでに |
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一尺ばかりあり。蝦夷地は寒郷なれば人家とてなく、土人穴居し我等上陸の後宿所もあ |
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るまじ、箱館迄行くには食糧も乏しきことと覚悟せしに、あにはからんや鷲ノ木宿は開 |
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けたる地にはあらざれども、人家百五十軒もあり。本陣に着すれば主人袴を着けて迎へ |
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家構えも壮大にて、間数七八個、殊に上段の間もあり。中々以前想像せしとは雲泥の違 |
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ひなり。」と、本土とあまり変わらない村の様子に驚いた事を記している。 |
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明治元年十月、仙台湾に集結した榎本艦隊は十二日に出帆、蝦夷地に向かう。途中で南 |
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部宮古湾に薪水補給のため寄港。十八日に一斉に出航、蝦夷地鷲ノ木をめざす。榎本艦 |
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隊は一路目的地の鷲ノ木に到着したといわれるが、風雪のため室蘭に避難したものもあ |
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り、鷲ノ木沖には二十日から二十三日にかけてそれぞれが到着した。 |
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「函館戦記」(北州新話)には「二十日午前、開陽等の諸艦、鷲ノ木に入り投錨し、午 |
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後より嘆願書護衛三十人を率い風波を冒して上岸、峠下に向け出発した」とある。また |
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新選組の石井勇次郎は「新選組の乗船した大江艦も二十一日到着、翌朝二十二日に土方 |
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歳三始め隊士が上陸した」と書き残しており、土方が旗艦開陽で渡航したとする説を否 |
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定するものともとれる。 |
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二十三日、新選組本隊六十五名は本道を隊長安富才助、海岸道を土方歳三率いる額兵隊・ |
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陸軍隊・護衛の新選組隊士若干名、に分かれて進軍し、二十六日には五稜郭へ無血入城 |
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した。 |
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(不詳〜明治二・六・八) |
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彦根藩士。諱を昌守。慶応四年二月、彦根藩の物頭兼小隊長として東征軍に従軍。四月 |
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一日、軍監香川敬三に従い須坂、岩村田、揖斐の兵とともに板橋を発し、宇都宮へ向か |
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う。途中、流山に敵屯集の報が入り、三日に流山の敵本陣を急襲して包囲。この時、敵 |
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の隊長大久保大和が兵器を差し出し、香川及び有馬藤太らの詰問を受けているのを見る。 |
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渡辺はかつて藩主に従い京にいた事があり、御所施薬院の会議で新選組の近藤勇の顔を |
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見覚えていたため、敵の隊長について「あれは近藤勇です」と注進した。それを聞いた |
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香川らは知らぬふりを装って大久保に越谷への同行を求める。翌日、渡辺とその小隊に |
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よって板橋総督府へ送られた大久保は、元新選組隊士加納鷲雄の面通しにより、ついに |
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近藤勇であると認めた。 |
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渡辺は後に野州小山をはじめ各地を転戦し、十月に東京へ凱旋。同年、彦根藩刑法局三 |
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等執事となったが翌年死去。彦根市古沢竜湛寺に葬られた。 |
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