副長助勤、四番隊組長 |
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島田魁の記録によると播州小野とされているが、永倉新八の記録だと大阪浪士で、食違い |
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をみせているが、播州小野藩士の子に生まれ、安政年間に何かしらで脱藩し、大阪にて |
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柔術道場を開いたものと云われている。忠次とも称される。島田と同じく最初の募集により、 |
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参加する。副長助勤、四番隊長。池田屋事件にも参戦しており、十五両の褒賞金を賜って |
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いる。文久三年八月の政変では、坊主頭に白鉢巻をし、大長刀を担ぎ、仙洞御所前や禁裏 |
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御所南門の警備にあたって「今弁慶」の異名をとったと伝えられている。 |
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元治元年十二月の編成では七番大炮組長、慶応元年の編成では柔術師範を務める。 |
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壬生村では、親切者は「山南と松原」と言われるだけあり、隊士にも優しかった。 |
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松原の最後は不可解な点が多い。ある失策から切腹をはかり、回復して平隊士として復帰を |
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したが傷痕が悪化して死亡したとの話や、慶応元年九月一日壬生天神横丁の裏長屋で安西 |
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某なる未亡人と心中した、子母沢寛の「壬生心中」の物語なのだが、実話なのか、否か、 |
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真相は謎のままである。 |
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光縁寺の過去帳には、生国播州産松原忠司藤原誠忠とある。 |
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副長助勤、五番隊組長 |
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出雲母里の出身で医学生だったとされる。福田広。江戸に出て福島伝之介塾などに学び、 |
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甲州流軍学などを習得した。文久三年秋頃に入隊する。副長助勤。元治元年六月五日の |
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払暁、四条西木屋町の桝屋喜右衛門宅を襲って、古高俊太郎を捕らえた。その日の池田屋 |
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事件に近藤らと斬り込み隊の一員になって、褒賞金二十両を賜っている。 |
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後も明保野亭事件の指揮をしたりしている。永倉新八らが会津に上申した近藤勇の専横の |
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件では、命を賭して両者の和解をはかろうとしたと伝わる。十二月の編成では六番組長を |
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勤め、慶応元年夏の編成では五番組長と文学師範を兼任し、壬生寺などで隊士らに甲州流 |
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軍学の調練を行った。閏五月には伊予大洲藩の矢野玄道を捕らえ、八月には蹴上の奴茶屋 |
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で金策を行う薩摩藩士の一人を斬殺、一人を捕縛した。九月には将軍上洛要請と隊士徴募 |
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の為に江戸に下る近藤勇に同行し、慶応元年十一月にも長州訊問使に随行する近藤勇に |
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伊東甲子太郎らと従うなど重用されている。 |
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慶応二年、幕府の軍学が、フランス式を取り入れ出すと新選組も導入し、武田の甲州流軍学 |
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は影をひそめ、立場は稀薄なものとなっていく。居場所を失い、薩摩藩に接触をはかり、 |
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伊東甲子太郎らにも接触をはかるが拒絶され、同年の後半には新選組を除隊となって討幕 |
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運動を行う。その後に油小路竹田街道で同志となっていた僧侶善応とともに斬殺された。 |
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これまでこの事件は、「慶応二年九月八日竹田街道銭取橋付近にて斎藤一、篠原泰之進に |
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殺害された」とされていたが、慶応三年六月二十二日の出来事に変更された。この時期なら |
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ば、斎藤と篠原は高台寺塔頭月真院に移った後で、二人の斬殺は考えられない。長沼式軍学、 |
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甲州流軍学という軍学者としての力と、信念を貫く精神力の弱さが命取りであったのだろう。 |
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副長助勤、六番隊組長 |
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文政十二年三月一日、多摩郡日野宿八王子千人同心井上藤左衛門の三男として生まれる。 |
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長兄、次兄と共に天然理心流近藤周助の弟子となる。土方歳三の姉のぶが嫁いだ、佐藤彦 |
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五郎の道場へ通い撃剣の修行に励んだ。土間や庭でも剣術の稽古に励んで百姓仕事が遅れ |
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て困ったという逸話もあるくらい熱心であったという。 |
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安政五年九月に日野の八坂神社に奉納された日野の天然理心流一門の献額にも兄とともに |
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名前を連ねている。万延元年には免許皆伝となり、文久元年の近藤勇の四代目襲名披露の |
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野試合では近藤の本陣で鉦役を務めた。 |
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文久三年、近藤らの浪士隊加入に参加し、総司の義兄林太郎、天然理心流日野の門人であ |
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る馬場兵助、中村太吉、佐藤房次郎らと同じ三番隊に配属された。小頭は新見錦である。 |
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上洛後に清河八郎の意に反して残留す。近藤とともに清河の暗殺を謀るが果たせなかった。 |
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兄である松五郎も八王子千人同心の一員として三月四日に上洛を果たすと六月十日の大阪 |
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で送別の酒宴をするまでの間、近藤や土方らも何度も面談し、芹沢鴨についての相談事を |
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話しており、他の門人たちは「近藤天狗になり候」と訴えており、この源三郎の兄松五郎 |
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がいなければ、近藤一派も分裂していたと考えられる。 |
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新選組結成後は副長助勤、六番隊隊長となり活躍する。元治元年の池田屋事件では、近藤 |
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らと斬り込み褒賞金十七両を授かる。 |
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慶応四年、鳥羽伏見の戦いで、淀千両松に甥の泰助と共に布陣。激戦の中、銃弾により討 |
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死にした。甥の泰助は、源三郎の首級と刀を退却途中の寺に奉ったというが場所は失念。 |
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不明のままである。彼の逸話で、壬生で総司が子供たちと遊んでいると井上源三郎が、通 |
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りかかり、総司が「また稽古ですか、熱心ですね」と声をかけると「わかっているなら稽 |
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古をしたら良いのに」と窘めたそうだ。八木為三郎は「井上はその頃、四十歳くらいでひ |
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どく無口な、それで非常に人の好い人でした」と語っている。誠実で生真面目な彼の人柄 |
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が伺える。 「源さん」の愛称とともに。 |
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■ 御 家 紋 ■ |
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副長助勤、七番隊組長 |
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備中松山藩主板倉勝静の家臣で、剣術師範谷三治郎の長男に生まれる。安政三年十月主君 |
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の勘気に触れてお家断絶。大阪で弟万太郎と共に南堀江町に武芸道場を開く。三十郎は、 |
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神明流剣術を指南し、直心流、神陰流とも記されているものもある。万太郎は種田流槍術 |
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を指南する。よく三十郎が槍師範といわれているが、万太郎の間違いである。三十郎も使 |
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うが、万太郎ほどではない。万太郎の子孫に伝わる話では三十郎は剣一筋であったという。 |
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元治元年の池田屋事件にも兄弟で参戦。十七両の褒賞金を賜っている。永倉新八の浪士文 |
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久報国記事にも一人の浪士を万太郎が槍で突いたとされている。禁門の変後の残党狩りで |
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西本願寺の道場で剣術を教えていた中田九一郎らを捕縛している。このときには、新選組 |
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は見かけほどに強い隊士はおらず、いつも自分が先頭に立たされてしまうと神陰流同門で |
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あった中田九一郎に語ったとされる。九月六日の葛山武八郎切腹死の時には頼越人として |
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三十郎の名が光縁寺の記録「往詣記」に見られる。十一月には近藤が大阪の商人加賀屋に |
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献金を申し込んでいるが、手控え帳の中に谷三十郎の名が見られる。大阪の番頭などにも |
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顔見知りが多いのであろう。大阪のぜんざい屋である石蔵屋事件では、万太郎、万太郎の |
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道場の門弟、正木直太郎、高野十郎(安部十郎)で斬り込んでいる。 |
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慶応二年四月一日、祇園坂下で頓死している。斎藤一に討たれたとも、酒席の喧嘩とも脳 |
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卒中ともいわれているが、真相は謎のままである。 |
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■ 御 家 紋 ■ |
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■ 剣 客 剣 豪 ■ |
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副長助勤、八番隊組長 |
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天保十五年江戸に生まれる。名は宣虎。北辰一刀流目録の腕前で、本人は、藤堂和泉守の |
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落胤と言っていたが、彼の佩刀である上総介兼重は藤堂家のお抱鍛治であり、一介の浪人が |
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持てる様な金額の刀ではない。従って真実味は高いであろう。時期は不明であるが、試衛館 |
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道場によく出入りしていて、皆と稽古して汗を流した。 |
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文久三年、浪士隊上洛に、近藤らと共に参加し、清河八郎へ異を唱えて近藤らと残留する。 |
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元治元年、池田屋事件では、近藤らと共に斬り込み、眉間を撃たれ傷を負うが、活躍を認め |
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られて、褒賞金二十両を賜った。元治元年十月江戸に下り、伊東らの加盟の仲介をする。 |
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慶応三年三月十日伊東らと御陵衛士を拝命して新選組から分離する。この時に改名し、 |
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南部与七郎とす。同年十一月十八日、七条油小路で新選組と交戦、永倉が逃げ道を空けた |
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が、そこに従者であった三浦恒次郎が、斬りかかりすぐさま交戦し、逃げ遅れて数名により |
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斬殺される。亡骸は壬生光縁寺に埋葬されたが、慶応四年、鈴木三樹三郎らの手で東山戒 |
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光寺に改葬された。先駆け先生と呼ばれた程に、一番に斬り込む度胸の良さが、逃げを許 |
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さずに命取りとなったのであろう。 |
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益荒雄の七世をかけて誓ひてし ことばたがはじ大君のため |
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■ 御 家 紋 ■ |
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副長助勤、九番隊組長 |
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天保八年七月十五日、志筑藩目付鈴木専衛門忠明の次男として生まれる。伊東甲子太郎は |
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実兄である。兄同様、神道無念流を使い、父親の閉門蟄居により母方の里で過ごす。のち |
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に同藩中小姓格寺内増右衛門の養子になるが、酒による失策で離縁され、鈴木に復そうと |
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したが母に拒まれ、三木荒次郎と称した。以後、和泉、三木三郎と称し、江戸に出て兄の |
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道場で修業したと云われている。元治元年十月十五日伊東らと上洛し、新選組に加盟した。 |
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このときは、三木三郎と称し、十二月の編成で井上源三郎の三番隊に所属する。慶応元年 |
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夏の編成では、九番隊隊長に任じられた。 |
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慶応三年、御陵衛士を拝命の折り和泉と称した。同、十一月十八日実兄伊東甲子太郎が、 |
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油小路で斬殺され、同志、篠原泰之進、藤堂平助、加納道之助、毛内有之助、富山弥兵衛 |
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服部武雄らと亡骸を引き取りに、出向いた処を新選組の攻撃を受けたが、乱刃をくぐり抜 |
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けて脱出。薩摩藩に匿われた。翌年に伊東らの亡骸を改葬した。同年、赤報隊に参加した |
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が、偽官軍事件に連座され、直ぐに釈放された。その後軍曹となって会津に出陣したが、 |
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終戦の為、帰京する。以後、司法、警察関係を経て鶴岡警察署から、酒田警察署長を歴任。 |
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十七年に退職して、茨城県新治郡石岡町に隠棲。大正八年七月十一日没した。 |
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副長助勤、十番隊組長 |
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天保十一年、伊予松山藩の足軽原田長次の嫡男として、生まれた。種田流槍術の使い手で |
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ある。安政二年か三年頃に江戸へ出て、三田の松山藩邸で中間となる。その後、郷里に戻 |
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った話に、切腹の傷痕が、真一文字に残っていたところから、丸一文字を定紋にした。 |
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その後、出奔し江戸に出て試衛館の食客になり、文久三年、浪士隊に近藤らと共に、参加 |
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し上洛する。八木為三郎の談話に「原田は気短かでせかせかした男でした。二言目には、 |
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斬れ斬れと怒鳴りましたが、これもいい男でした」と伝わり、「酔っ払うと着物の前を広 |
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げて腹を出して、これをぺたぺた叩きながら金物の味を知らねえ奴なんぞとは違うんだ、 |
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切腹の痕を見ろと云って、左の方から真一文字に腹を半分ばかりも切った傷痕を出して見 |
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くれました」と云い、美男で短気だった性格が伺える。元治元年、池田屋事件にも参戦し、 |
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十七両の褒賞金を賜った。三条制札事件では、十番隊を引き連れて出動し奮闘、二十両の |
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褒賞金を賜っている。慶応三年十二月七日天満屋騒動では、土佐の坂本、中岡殺害の報復 |
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として、海援隊陸奥陽之助ら十六人が、油小路花屋町の天満屋に宿する紀州藩用人三浦休 |
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太郎を襲撃。警備の任に就いていた、新選組斎藤一、原田左之助と暗闇の中で乱闘となり、 |
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機転を利かせた原田が土佐弁で「きゃつを討ち取った」と叫び、その一言によって襲撃者 |
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は引き上げていった逸話がある。その坂本暗殺事件で原田は高台寺党伊東の証言で「刀の |
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鞘と下駄が新選組原田の物である」と云われ「こなくそ」という掛声が伊予の方言であり、 |
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一躍名前が広まったが、事実無根であり、原田の鞘は無くなっておらず、新選組の仕業で |
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あれば、暗殺の為に下駄を履いて向うはずが無い。まして鞘を忘れてくるなど、暗殺には |
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適さない。それに、剣術より槍術が得意の原田を暗殺に向けるほど、人材不足ではない。 |
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幕臣である新選組が、幕府が決定した坂本龍馬の赦免に異を唱える意味は無いのである。 |
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慶応四年鳥羽伏見の戦いを経て、甲州勝沼の戦いに参戦するが敗戦し、江戸に逃げ落ちる。 |
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その後に新選組をはなれて、永倉新八と行動を共にしたが、山崎宿で袂を分かち、江戸に |
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戻る。江戸では、彰義隊に参加し官軍と戦い討ち死にする。説では、大怪我を負い、深川 |
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の旗本屋敷に収容されたが、翌々日亡くなり、同地区の寺に埋葬されたとされるが、記録 |
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が残っておらず、不明な点が多い。私は、同志とともに円通寺に、埋葬されていると信じ |
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たい。逸話では、彰義隊に参戦せず満州国に逃れて、馬賊として暴れ、満州事変の際に日 |
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本軍が進出したときに、兵隊に原田左之助であると語った話が残っている。 |
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慶応四年五月十七日没。 |
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■ 御 家 紋 ■ |
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■ 剣 客 剣 豪 ■ |
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