篠原泰之進
しのはら たいのしん

諸士取扱役兼監察役
 
文政十一年(1828)筑後国生葉郡高見村百姓、篠原元助の長男として生まれる。幼名
 
を泰助と称し篠塚友平、秦河内と称したが、維新後の通称廃止にともない秦林親と改めた。
 
幼少の頃から武を好み有馬家に仕え、安政五年六月十五日に有馬右近に随行し江戸赤羽邸
 
に入る。以後王事を尽くさんが為、東奔西走し、文久三年横浜で、佐野七五三之助、加納
 
道之助、服部武雄らと盟約を結び元治元年十月伊東甲子太郎らと新選組に加盟し上洛する。
 
新規隊士募集で増員した為、役職編成替えが行なわれて、諸士取扱役兼監察役並びに柔術
 
師範となる。近藤勇の二度にわたる広島芸州入りに随行し、伊東らと行動を共にして、慶
 
応三年、御陵衛士を拝命して隊を離脱し、高台寺塔頭月真院に移る。この時期に、斎藤一
 
とともに高台寺に移っているので、武田観柳斎殺害の可能性はありえない。
 
慶応四年十一月十八日、油小路の闘いで虎口を脱して、十二月十八日、近藤勇を伏見街道
 
藤森神社付近で狙撃する。鳥羽伏見の戦いでは、薩摩軍とともに戦い、後に赤報隊に参加、
 
独走する相楽らと別れて帰京するも偽官軍事件に連座させられ投獄されるも、放免されて
 
北越、東北の戦場を転戦。維新後は弾正台などに出仕した。晩年はクリスチャンとなって
 
明治四十四年六月十三日没する。「秦林親日記」を残す。
 
■ 御 家 紋 ■
 
 




新井陸之助

あらい りくのすけ


諸士取扱役兼監察
 
天保六年二月七日、奥州磐城平藩山崎角兵衛一善の次男として生まれる。荒井忠雄、荒井
 
俊蔵と名乗った。名は一業。嘉永五年江戸に出る。新井忠雄を名乗り、慶応元年七月まで
 
の京坂における隊士募集に応じ、新選組に加盟する。諸士取扱役兼監察と剣術師範を兼任
 
する。慶応二年の三条制札事件では、目付として出動。大活躍し褒賞金二十両を賜る。九
 
州出張の際は荒井俊蔵、成尾退蔵などの変名を用いた。慶応四年、伊東らとともに御陵衛
 
士を拝命して分離。五月には単独で八月には伊東甲子太郎とともに九州の遊説に三度も出
 
かけている。十一月の油小路事件や十二月の近藤勇狙撃事件には同志募集の為に江戸に赴
 
いて不在であった。鳥羽伏見の戦いが始まると綾小路俊実に従って挙兵し、その後、篠原
 
泰之進らと赤報隊に参加し、相楽らの独走に帰京したが、投獄され、放免後は越後に軍曹
 
として出兵する。維新後は司法省に出仕し、明治十九年退官。東京下谷の仲御徒町に住み
 
明治二十四年二月十五日没する。
 
■ 御 家 紋 ■
 
 



服部武雄良章

はっとり たけお よしあき


諸士取扱役兼監察
 
島田魁の英名録では、播州赤穂の出身と記載されていて、永倉新八は、御府内浪士と述べ
 
ている。天保三年生まれ。称は三郎兵衛、名は、良章。文久三年横浜で佐野七五三之助、
 
加納道之助、篠原泰之進と盟約を結び、元治元年十月、伊東甲子太郎らと新選組に加盟し
 
上洛する。江戸での募集に中西小六の変名で応じた可能性があり、服部武雄の名前は見出
 
せない。新規隊士募集で増員した為、役職編成替えが行なわれて、諸士取扱役兼監察役並
 
びに撃剣師範となる。三条制札事件では、大活躍し、褒賞金十両を賜る。慶応三年、御陵
 
衛士を拝命して隊を離脱し、高台寺塔頭月真院に移る。高台寺党の頃には三郎兵衛と称し
 
た。服部武雄の剣技は隊内随一で沖田総司と同等と言われた程である。その服部武雄の本
 
領が発揮されたのは、十一月十八日油小路の変で、新選組の使い手、原田左之助や島田魁
 
らに囲まれながらも善戦し、彼等に手傷を負わせた。だが多勢に無勢で押し囲まれ、両手
 
に刀を持ったまま散華した。享年三十六歳。墓は、京都市東山区泉涌寺山内町の戒光寺。
 
 



河合耆三郎義輝

かわい ぎさぶろう よしのぶ


勘定役
 
天保九年、播州高砂の米商人河合儀平の長男として生まれる。儀三郎とも。源義輝、吉輝
 
とも。永倉新八の記載によると、大阪浪人と書いてあるが、妹きくの嫁ぎ先、大阪平野町
 
の八百源から、新選組に応募した為である。商家の出だけあり、勘定に長けた。一般には
 
、武芸劣等と伝えられているが、元治元年の池田屋事件では、勇を奮って、討入りに参戦。
 
十五両の褒賞金を賜る。同年禁門の変後には松本喜次郎とともに摂津高浜村を探索し、同
 
村より長州藩と無縁である旨の誓約書を提出させ、昆陽宿では山崎烝とともに長州軍が残
 
置きした兵器類を大坂に移送している。
 
近藤勇の妾、御幸太夫の身請け金五百両用立ての段になって、帳簿に対する不足金五十両
 
が穴埋めできずに、切腹という事になったと云われているが、身請け話は、一年以上前の
 
事で、その真相は定かではない。慶応二年二月十二日没する。
 
河合耆三郎の墓は、光縁寺に埋葬され、名を河合耆三郎吉輝と記載されているが、遺族が
 
壬生寺に墓碑を建立し、河合耆三郎源義輝之墓と刻んである。
 
彼を死に追いやった真相は、定かではない。
 
■ 御 家 紋 ■
 
 

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