勝 海舟
かつ かいしゅう

幕 臣
 
文政6年1月30日、江戸本所亀沢町に旗本小普請組、勝小吉の子として生まれる。幼名麟太郎。
 
養子小吉の代に旗本株を買ったのが勝家であるが、僅か41石の微禄では家計は苦しく、天井
 
板の破れも直せなかったという。父は浅草界隈では顔役的な存在で、喧嘩駆け落ちと無頼の
 
限りを尽くし、反省の為に三年間座敷に閉じ込められ、その間に妻お信との間に生まれた
 
のが麟太郎である。自らの代での出世は諦めていた父は麟太郎をこよなく愛し期待をかけ
 
易者の「この子は天下を乱すか救うかの大人物になる」という占いに悪態を就きながらも
 
まんざらではなかったという。麟太郎7歳の時、お城のお庭拝見の時に目にとまり、将軍
 
家斉の孫初之丞君のご学友として五年間城住まいを経験する。日本最高権力者の家族とい
 
う雲の上の生活を知り、帰れば食うにも困る貧乏な庶民生活、この両面を見た事が後年も
 
世間通としての視野を広げた影響は大きい。
 
16歳で家督を継ぐが、この以前から従兄の幕臣男谷精一郎に直心影流を学び、その弟子の
 
島田虎之助の道場へ通い、21歳で免許を取得している。島田の勧めでこの間に参禅、後に
 
蘭学、特に兵学を学び、23歳の時には一年がかりで和蘭辞書「ズウフハルマ」を借りて2
 
冊筆写し、1冊は自分の為に、もう1冊を10両で売って生計に当てる等苦学している。こ
 
の頃信州松代藩士で洋学者の佐久間象山と親交を深め、彼の書にあった「海舟書屋」から
 
海舟を号とした。嘉永3年赤坂田町に蘭学塾を開き、蘭語、西洋兵学を教えるとともに、
 
兵器の研究に勤め、幕閣の大久保一翁の知るところとなる。ペリー来航の翌安政元年には
 
異例の公募による幕府への上申書が集められ、総数700通の中から海舟の「海防意見書」は
 
卓見を認められ、老中阿部正弘が提出させた二度目の上申書には「海外に出貿易をして利
 
益を国防費に当てるべし」と意見した。安政2年、33才にして、異国応接掛蕃書翻訳御用
 
に登用され亡父の念願であった「お番付き」となる。恋女房のたみとの間には既に二男二
 
女を設けていた。同10月長崎に我が国初の海軍兵学校である海軍伝習所を開設し、伝習生
 
監督となる。また薩摩藩主島津斉彬と会い、海岸防備体制を目の当たりにする。
 
後に江戸に戻り、軍艦操練所の教授方頭取となる。安政5年6月、日米修好通商条約が調
 
印されると、批准書を持つ特使をワシントンに送るため、海舟は咸臨丸艦長として太平洋
 
を横断し、暴風雨に悩まされながらも無事アメリカを実地に見聞して帰国した。この功に
 
より文久2年には軍艦奉行の要職に就く。しかしこの間に日本では、安政の大獄への報復
 
で大老井伊直助が殺害され、攘夷派から見て洋行帰りの開明派である勝海舟も刺客に狙わ
 
れる標的の一人であった。この頃土佐の坂本竜馬が海舟を斬ろうと自宅へ訪れ、面談の末
 
にすっかり惚れこんでしまい弟子になったという話は有名である。
 
元治元年、将軍家茂や幕閣を大坂湾上に誘い、海軍の重要性を説き、神戸に念願の軍艦操
 
練所を作らせる事に成功、ここで海舟は第一次長州征伐を前に、西郷隆盛と初の会見をし
 
た。薩摩は旧来公武合体派であったが、海舟は欧米に対する日本国家の弱体ぶりを説き、
 
薩長が手を結ぶべきだとまで教えた。幕臣である海舟から倒幕の話が出るとは思わず西郷
 
は驚嘆、以後の薩摩は表面は従来のままで倒幕へ傾いていく。海舟の幕府のみにこだわら
 
ない発想から、軍艦操練所を幕府占有とせず西南雄藩の子弟や浪人にまで開放したたとい
 
う理由で役職を解かれ、約一年半江戸赤坂氷川町の屋敷で蟄居していた。しかし時局の急
 
転に幕府は、慶応2年海舟に海軍奉行を命じ、會津、薩摩の調停、第二次征長の不利な戦
 
局の後始末のための講和談判にあたらせた。
 
曲折を経て、翌年将軍慶喜が大政奉還を奏上し、幕府政権は交替を迎える事になったが、
 
あくまで武力倒幕を目指す薩長は鳥羽伏見の戦いに持ち込む。これに敗れた慶喜が朝敵と
 
して江戸に戻り、江戸が戦火の危機に陥った時、海舟は慶喜に恭順を誓わせ、事後処理の
 
全権を委任される。この時の海舟は甲府に新選組を送る他、幕府陸軍諸隊を周辺に配置し、
 
榎本武揚率いる海軍を海上に起き、もし薩長が無理な要求を続けるのであれば江戸の町を
 
火の海と化して拒絶するという武力構想で臨んだのであり、唯々諾々と応じて無血開城を
 
飲んだのではない。旧知の西郷との会談で合意を得、将軍慶喜の処刑は免れ、旧幕臣の処
 
遇が決まり結果として江戸は総攻撃の戦火から救われた。
 
維新後は参議兼海軍卿、枢密顧問官などの要職につき爵位を受ける。幕府の終焉を預かり
 
ながら明治新政府の顕官となった勝海舟に対する批判も当然あったが、海舟は黙殺してと
 
りあわなかった。独特の口調での聞き書き「氷川清話」では各種の懐旧談を残しているが、
 
文字に残されたもの全てが海舟の心中ではあるまい。明治32年1月21日脳出血で亡くなった。
 
享年77歳。
 
■ 御 家 紋 ■
 
■ 剣 客 剣 豪 ■
 

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