誠抄

あずま男
(4)


(七)   お  蘭


――――藤堂は、その後ぶらぶらと日を過ごしている。どうにも、菊栄に会うのは気が進
   まない。
藤堂   暇だねえ、斎藤さん。
斎藤   まあ、しかたない。以前なら、巡察に出て歩き回っていた時間だ。
――――玄関の方を、伊東と、鈴木、篠原らが紋付きを着て出ていくのが見えた。
藤堂   伊東先生は、またお出掛けか。
斎藤   薩摩屋敷だそうだ。
藤堂   いつも、あの連中を取り巻きにして出掛けるな。俺や斎藤さんのほうが、よっ
     ぽど用心棒になるのによ。
斎藤   それも、しかたない。諸藩の勤王派と会えば……池田屋に斬り込んだ私や藤堂
     さんの名前を聞いて、いい顔をする者はおらんだろう。
藤堂   ちぇっ。
――――藤堂、額の傷をうらめしそうに撫でる。
斎藤   いずれ、武力を持って行動する時があれば……その時は我々の出番だよ。
藤堂   こうしていても面白くねえや。斎藤さん、女でも買いに行くか。
斎藤   折角だが……私は、きょうちょっと、先約がある。
藤堂   例の、コレか。(小指を立てる)
斎藤   そう。君のところと同じ、料理屋の仲居さ。
――――その女とは、実は斎藤と新選組のつなぎをする密偵である。だが藤堂はもちろん
   知らない。
藤堂   仲居ね……。(不機嫌な顔をする)
斎藤   近頃、会いに行かないようだけど、いいのかい。
藤堂   ああ。


――――藤堂は、退屈しのぎに散歩に出た。清水寺の石段下で、巡察中の新選組隊士を見
   かけた。中に、あの三浦という平同士がいる。
藤堂   お……。
三浦   あ、藤堂先生……。
――――三浦が笑顔を見せようとして、隣の隊士に「よせ」と袖を引っ張られた。三浦は
   しかたなく、ちら、と会釈だけして通りすぎた。浅葱のダンダラが、揃って藤堂の
   目の前をひるがえっていった。
藤堂   ………。
――――ついこの間まで、あの先頭に立って歩いていたのは藤堂である。道行く者が、恐
   れるようにしてよけたものだ。
藤堂   ちぇっ。
――――藤堂は子供っぽく、石を蹴った。かといって、どこへ行くあてもない。
藤堂   待てよ……清水。
――――ふと、以前深川の女郎から聞いた話を思い出した。この先の私娼宿に、お蘭とい
   う江戸女が勤めているはずである。
藤堂   (行ってみるかな。)


――――藤堂は、その「玉屋」という女郎屋に行っている。
藤堂   ここに、お蘭という女がいるかい。二、三年前に、江戸の深川から鞍替えをし
     て来たらしいんだが。
女    へえ……お蘭どしたら、今、お馴染みがついて……あと四半時ほどかかります
     けども。
藤堂   いいよ。暇はある。
女    へえ。
――――藤堂が下で待っていると、しばらくして、階段を男と女郎が下りてきた。
男    ほなな。お蘭ちゃん。またじっきに来るさかい、ええ子にして待っててや。
お蘭   あい……ぬしさん、必ず、お待ちしておりんすわいな。
男    へへへ。可愛いやっちゃ。
――――男が鼻の下を伸ばして出ていくと、お蘭は階段の下にすっくと立って、
お蘭   へ、おととい来やがれ、このスットコドッコイ。
――――と、悪態をついて振り返った。とたん、藤堂と目が合った。
お蘭   あら。いやあだ。あはは。
――――お蘭は、ばつが悪そうに笑った。
         
藤堂   お蘭てえ妓(こ)は、お前かい。
お蘭   ええ。
藤堂   俺ァ、深川の勝弥って女から聞いてきたんだが。
お蘭   あら、まあ!勝っちゃんから。きゃーっ、懐かしい!
――――お蘭は飛び上がらんばかりにして喜び、
お蘭   いやだ、そんなお客さんなら、待たせたりしませんよう。どうぞどうぞ、上が
     っておくんなさいまし。
――――と、藤堂を抱き抱えるようにして二階へ上げている。


――――二階。お蘭は、酒を持って上がって来た。ぞろっとした衣装をまとって立った姿
   は、腰のあたりに匂うような色気がある。肌が浅黒く、目尻がきりっと上がって、
   よく動く口元はひきしまって薄く、いかにも江戸好みの女であった。
藤堂   まさか、勝弥に聞いたのと同じ名前で出ているとは思わなかった。
お蘭   島原や祇園みたいに気取った店じゃあるまいし、都風の勿体つけた源氏名なん
     ていらない、深川お蘭で充分だって言ったんですよ。男に春を売ってるってい
     ったって、はばかりながらこちとら、てめえの体で、てめえで稼いで食ってる
     んだ。名前を聞かれて困るほどの事はありゃあしない。もとを正せば死んだ親
     父が、庭で蘭の花を咲かせるのが自慢だったってえ位のお嬢様だよ。こんなき
     れいな名前を取り上げられてたまるもんかいってね。
藤堂   ははは。
お蘭   お陰で、ここの女将なんざ、あんたはランはランでも、島原の乱か、大塩平八
     郎の乱や、なんてしゃれた事を言いますよ。
藤堂   あははは。
お蘭   大体がね、こっちの人間は何でも勿体ぶるのが好きなんですよ。やれしきたり
     だ、まじないだ、信心だってね……化粧の仕方一つにしたって口を出すんだか
     ら、うるさいったらありゃしない。いくら色が黒いったって、あんな、めりこ
     むほどの白粉をつけてたら、肌がやけちまってぼろぼろになるじゃないか。江
     戸前の薄化粧でまだまだ見られるつもりですよ。
藤堂   違いねえ。確かに、勝弥の言った通りの別嬪だ。
お蘭   あはは。お世辞は嫌ですよ。
――――お蘭は、藤堂に酌をしている。
藤堂   それに、そのおしゃべりがたまらねえや。コロコロ舌が回って気持ちいいくら
     いさ。
お蘭   旦那も物好きですねえ。でも、あたしも懐かしい。ついつい、江戸の男だと贔
     屓しちまってね。
藤堂   そうかい。
お蘭   さっきの客みたいなさ、上方言葉でべたべたなよなよした男はだいっ嫌い。へ
     えだのはあだの、いちいち間延びした喋り方をされると、背中がかゆくなりま
     すよ。
藤堂   うふ。
お蘭   女言葉もさ、どうしてああべったりした喋り方になるのかねえ。何考えてるん
     だか、もって回ったことばっかり言うんでさ。ほめられてるんだかけなされて
     るんだか、こちとらさっぱりわかりません、てんですよ。あの調子じゃ、瓦版
     一枚読むんだって、半日がかりじゃないのかねえ。
藤堂   はは……
お蘭   男なんざ馬鹿だから……あら、ごめんなさい。でもさ、ああいうまったりした
     京言葉がたまらん、なんていうのが多いんだからさ。あたしもしょうがないか
     ら、ここらじゃ言いたいことの半分も言いませんよ。
藤堂   京言葉は、覚える気にもならねえか。
お蘭   ご冗談。あんな風に、何々しておくれやさしまへんどすやろか、なんて言う位
     なら、舌を噛んで死ぬか、鴨川に身を投げるか、いっそ横浜か長崎にでも行っ
     て異人の言葉を覚えた方が早うござんすよ。
藤堂   いやいや……大した気勢だな。
お蘭   やっぱりちょっと、色気が足りませんかねえ。
藤堂   どれ。
――――藤堂、お蘭の腰を引き寄せ、襟元に手を差し入れる。
藤堂   そうでもねえぜ。
お蘭   うふ……。
――――お蘭は敏感なたちらしい。藤堂の肩に寄り掛かって、甘い息を漏らしはじめた。
お蘭   旦那……お近づきの印です。何をなすっても、かまいませんよ。
藤堂   よし。遊ぶか。
お蘭   ええ。遊んで遊んで。
――――お蘭は、藤堂の頭を抱え込んで、胸を顔に押しつけるようにした。藤堂は帯をと
   くのももどかしげに、作業に熱中した。


――――お蘭は、髪を乱したまま煙草をつけて、立て膝で吸いつけている。襟から、乳房
   がこぼれて見えそうになっている。
お蘭   ああ……きつ……さすがお侍。腰の鍛え方が違うよ。
藤堂   北辰一刀流だからな。
お蘭   神田お玉ヶ池?
藤堂   はは。
――――藤堂は嬉しくなって、お蘭のほっぺたをつついた。その指をお蘭の指がからめて
   唇へ持っていった。
藤堂   おい。まだ指しゃぶりをする年かい。
お蘭   うふふ……。
――――お蘭は、含んでいた藤堂の指を、きっと噛んだ。
藤堂   あいてて……何をする。
――――慌てて離すと、人指し指にくっきりと歯形が残っている。
お蘭   約束。この跡が消えないくらいの内に、きっとまた来ておくんなさいましよ。
藤堂   そんな事を言って、また後ろであかんべえをするんじゃねえのか。
お蘭   いやだ。(笑う)
藤堂   俺は今、暇だ。そんなお世辞を言うと、毎日でも通って来ちまうぜ。
お蘭   (手を振って)駄目。旦那に毎日通われたら、あたしの身が持ちませんもの。
     時々、思い出したように来て下さるのが一番さ。
藤堂   何か、欲しいものはねえか。今度買って来てやる。
お蘭   そうねえ……別に……。そうだ、読本や、瓦版の読み捨てた奴でも、たんと持
     って来て下さいまし。
藤堂   そんなものがいいのかい。
お蘭   ええ。だって昼間は退屈ですもの。あたし、字を読むのが好きなんですよ。役
     者絵なんかじゃ駄目ですよ。
藤堂   わかったよ。
――――藤堂が立って着替えをしていると、お蘭がふい、と背中に抱きついた。
藤堂   なんだい。
お蘭   ああ……いい匂い。男の匂い……ほんものの男の匂いだよ。
藤堂   よせやい。
お蘭   旦那。これからは平助様……ううん、平さんって呼ぶよ。いい?
藤堂   ああ。今度は、泊まりで来る。
お蘭   無理しないで。(笑う)さあ、行った行った。こっちも忙しいんですよ。
――――お蘭は、ぽんと藤堂の背中を叩いて送り出した。


――――藤堂は、それから暇を見てはお蘭の店に通っている。
お蘭   昼間っから女遊びなんて、よっぽど暇なのねえ。
藤堂   はっきり言うな。
お蘭   あのね、嫌ですよ。おあしが足りなくなって、変な金貸しなんぞにつかまった
     りしちゃ。
藤堂   金だけは、ありがたいことに不自由していねえのさ。
お蘭   ふうん。お墓の番人で、どうしてそんなに手当てがもらえるのかしら。
藤堂   本当に、口が悪いな。
お蘭   他ンところがいいから、いいんです。
藤堂   ははは。
お蘭   平さん、本、持って来てくれた?
藤堂   ああ。しかし、この間のは?
お蘭   もう、読んじゃった。
藤堂   へえ、結構難しいのもあったろう。
お蘭   みくびっちゃいけません。あたしゃ、男だったら学者か医者にしたかったって
     親が嘆いたほどの秀才ですよ。
藤堂   自分で言ってりゃ、世話ねえや。
お蘭   そうそう、ここんところがよくわからない。
――――と、お蘭は付箋をつけておいたところを開いて、
お蘭   ねえ、この「遣露使節の樺太雑居条約」とかってさ、どういうこと?
藤堂   (困って)俺に聞くなよ。
お蘭   なあんだ。国事に奔走する志士なんていっても、大したことないのねえ。
藤堂   言ったな。
お蘭   ま、いいや。今度蘭学の先生が来たら聞こうっと。
藤堂   ちぇっ。ぬけぬけと言うよ。
お蘭   だって、あたしは平さん一人の女じゃないもの。
藤堂   そうなった方がいいかい。
お蘭   どうしようかなあ。あいた。
――――お蘭、藤堂にひっくり返される。脛がにょっきりと上を向く。


――――藤堂が三条の屯所に戻ると、門前で巴が待っていた。旅装をしている。
藤堂   おや……お前。
巴    お待ちしておりました。
藤堂   何でえ。
巴    何でえ、じゃありませんよ。藤堂様。
――――巴は怖い顔をしている。
巴    あの不幸以来、ずっと菊栄さんに会いに来ていらっしゃらないじゃありません
     か。あなた、それは……いくらなんでも薄情ってもんですよ。
藤堂   仕事が変わったばかりで、忙しいと言ったじゃねえか。
巴    嘘をおっしゃいっ!
――――巴は、腹に響くような声を出した。
藤堂   お、おい。門内に聞こえる。
巴    帝のお墓を守るなんて言ったって、名目だけのことで、あなたはほとんど毎日
     ぶらぶらして、遊びに出掛けているそうじゃありませんか。そんなことを菊栄
     さんが知ったら、どうするんです。
藤堂   ………。
巴    あなただって自分の子供を亡くして、辛いお気持ちはわかりますよ。でもね、
     自分のお腹から流してしまった女の方が、その何倍も辛い思いをしているんで
     す。身も心も、痛い思いをしているんです。男たるもの、そのくらいのいたわ
     りがなくってどうしますかっ。
藤堂   ……薬代は届けたじゃねえか。
巴    お金なんかの話じゃありませんっ。
――――巴、仁王立ちになる。
藤堂   おい。
巴    今の菊栄さんに必要なのは、薬や金なんかじゃない。あなたのやさしさです。
     もう、体の方はすっかり治っていますとも。ただ、心がひどく傷ついている。
     私の見ていない所で、毎日声を殺して泣いていますよ。ええ?あなた、それで
     も男、しかも武士でござんすか。
藤堂   ………。
巴    私は……勝手ながらお暇をいただきます。下総の母親が病気でね、帰って看て
     やらなくっちゃなりません。だけど、このままじゃあ帰れませんよ。
藤堂   そうか……何か餞別をやらなくっちゃな。
巴    馬鹿っ。
――――巴、藤堂の腕を逆手にとってねじ上げる。
藤堂   あいた、いたたた。
巴    このまま、菊栄さんの家まで行っていただきます。それがあたしへの餞別です
     よ。
藤堂   わ、わかった。離せ、痛い痛い。
巴    逃げ出そうと思ったら、ぶん投げますよ。
藤堂   わかった、行く行く。その前にちょっと、中へ……。
巴    伊東先生には、お許しをもらってあります。泊まってきてもいいそうです。
――――藤堂、うへっという顔をする。


――――菊栄の家の前まで来ると、巴は藤堂の背中を押して、「行け」という顔をした。
藤堂   お前は。
巴    ………。
――――巴は微笑して、かぶりを振った。
藤堂   そうか。……世話になったな。
巴    ほんと、世話をやかせてくれました。
――――巴は笑って、深々と頭を下げるとそのまま去って行った。藤堂はその姿を見送っ
   てから、ごほんと咳払いをして菊栄の家の戸を叩いた。
菊栄   ……誰?
藤堂   俺だ。
――――菊栄はあっと驚いて、転がり出るようにして戸を開けた。
菊栄   藤堂はん。
藤堂   どうだ、具合は。
菊栄   ………。
――――菊栄は、胸がいっぱいになった様子で藤堂に寄り添って来た。
藤堂   おいおい。泣くなよ。


――――藤堂は久しぶりに菊栄の手料理を食べた。吸い物を口に含んで、
藤堂   薄いな。
菊栄   へえ……すんまへん。
藤堂   いい加減、俺の味を覚えろよ。
菊栄   へえ……
――――藤堂は複雑な顔をした。


――――藤堂は、寝巻に着替えている。
菊栄   あの……。
藤堂   いいよ。まだ、本調子じゃねえんだろ。俺も、疲れている。ぐっすり眠るだけ
     でいいや。
菊栄   へえ……。
――――菊栄はそれを藤堂のいたわりととって嬉しかったのだが、藤堂の脱いだ襦袢をた
   たみながら、はっと手を止めた。
菊栄   あんさん……。
藤堂   何だ。
菊栄   これ、なんどす。
藤堂   なにって……?
――――菊栄、襦袢を広げて見せる。後ろ襟の所に、はっきりと紅がついている。
藤堂   さあ……朱肉かなんかだろ。
菊栄   嘘や。こっちには、白粉かてついてます。
藤堂   ………。
――――藤堂、気まずい顔をしている。
菊栄   ずっと来てくれはらへん思うたら……よその女子はんと……そうどすな。
藤堂   なんでえ、その言い方は。
菊栄   そうかて……。
藤堂   お前が……この半年の間出来ねえ体だったんだからしょうがねえじゃねえか。
     俺に精進潔斎でもしていろっていうのか。
菊栄   よりによってうちが……こない、しんどい思いをしている時に遊び回るて、ひ
     どいやおへんか。
藤堂   うるせえ。流産したのは、てめえの不注意じゃねえか。
菊栄   ………。
――――藤堂、しまったと思うが取り返しがつかない。すでに、菊栄の顔から血の気がひ
   いている。
菊栄   ひどい。ひどいっ。
――――菊栄、藤堂の襦袢や着物を投げつける。
藤堂   何しやがる。
菊栄   うちかて……うちかて、その事は……。
――――菊栄、泣きながら物を投げている。
藤堂   よせっ。この馬鹿。
――――藤堂、菊栄の腕をつかむ。
菊栄   いやや。よその女子はんにも、やさしいにしてますのやろ。うちと、初めの頃
     みたいに、やさしゅう笑いかけたり、おいど撫でたりしてますのやろ。うちが
     どんな思いで待っているかも知らんと……いやや。うちに内緒で、そんなん、
     いやや。卑怯もん、うそつき。
――――菊栄、たまっていたものが爆発したかのように藤堂の胸を叩く。
藤堂   馬鹿っ。
――――藤堂、菊栄をつきはなす。
藤堂   なんてざまだ。嫉妬深いのもいい加減にしやがれ。
菊栄   ………。
藤堂   ああ、確かに俺は女遊びもしたさ。だがな、てめえの金で、女郎と遊んだだけ
     だ。何もお前みてえに、まるごと抱え込んだわけじゃねえ。どこの世界に、色
     街の女を買うのにいちいち、てめえの女にことわる奴がいるってんだ。
菊栄   おんなじ事や。他の女と寝てたら、おんなじどす。江戸に下った時かて、さん
     ざん遊んで来やはったんどすやろ。うち、わかってましたんえ。ややができる
     前かて、遊びの味が忘れられんと、どこぞへ通うてはりましたのやろ。都合の
     ええ時ばっかり、うちのところへ戻って来て……あんさん、勝手どす。
藤堂   何を。(かっとなって)お前こそ……。
菊栄   うちが、何どす。
藤堂   お前こそ、前の亭主とこそこそ会ってたんじゃねえか。
菊栄   ………。(息を飲む)
藤堂   あの弥兵衛って男と、俺の目を盗んで……寝たんじゃねえのか。
菊栄   あほなこと……。
藤堂   弥兵衛本人から、何もかも聞いたぜ。お前が、あいつにやられた時の着物の柄
     までな。お前、あの着物シミ抜きに出したといったな。醤油のシミなんて、大
     嘘だろう。
菊栄   ………。
――――菊栄、わなわなと震えている。
藤堂   それだけじゃねえや。他にも俺にかくしごとをしていたじゃねえか。弥兵衛と
     は冷えきった仲だったといったが、二度も子供を孕んだそうじゃねえかよ。し
     かも、二度とも流れたそうだな。え、その子供が産まれていたら、亭主と別れ
     る気なんかなかったんだろう。今度の事だって、もしかしたら駄目かもしれね
     え、と言わなかったじゃねえか。さんざん俺にぬか喜びさせて、あの男のせい
     で流れちまうなんざ、どう詫びて言い訳してくれるつもりなんだよ。おいっ。
菊栄   そ……。
藤堂   あいつはな、その腹の子が、自分の種かもしれねえと言ったんだぜ。そうとで
     も思わなきゃ、誰が他人の子を孕んだ女なんかにしつこくつきまとうもんか。
     そんな事を元の亭主にずけずけ言われて、俺はいい面の皮だ。
菊栄   弥兵衛の言う事なんて……でたらめどす。あのややは、あんさんの子や。
藤堂   どうだかな。弥兵衛も子供も死んじまっちゃ、確かめようがねえ。
菊栄   弥兵衛が、死んだ?
藤堂   ああ。俺が斬った。
菊栄   ええっ。
藤堂   お前ら、揃いもそろって俺の刀が飾りだとでも思ったか。残念ながら、俺はも
     う新選組隊士じゃねえ。法度に縛られて、切腹させられることもねえ。あそこ
     まで言われりゃ立派な無礼討ちさ。
菊栄   なんてこと……町人を、殺すやなんて……。
藤堂   俺が悪いか。え、弥兵衛にぺらぺらと女の秘密をばらされて、斬ったのは俺の
     せいかよ。
菊栄   ………。
藤堂   ああ、やめたやめた。こう辛気臭くっちゃかなわねえ。
菊栄   あんた。
藤堂   巴の顔を立てて来てはみたが、面白くもなんともねえや。俺との事はこれっき
     りにしてくんな。幸い、体も治った、疫病神も払ってやったんだ。またみよし
     やの女将の世話にでもなって、新しい、聞き分けのいい男でも探すんだな。子
     供もいらねえ、浮気もしねえっていう奇特な男をな。俺はもう御免こうむる。
――――藤堂、寝巻を脱ぎ捨て、さっさと着物を着替える。
菊栄   どこへいかはるんどす。
藤堂   寝る所くらい、どこにでもあらあ。
――――藤堂、おっとり刀で荒々しく戸を閉めて出る。


――――藤堂、その足でかっかしながら清水の「玉屋」へ行った。
遣り手  おやまあ、藤堂先生。
藤堂   お蘭はいるか。
遣り手  いてるも何も……昼間、会うて行かはったばかりやおへんか。
藤堂   そうだった。
遣り手  いま、お客はんがついてはりますえ。
藤堂   蹴散らせ。
――――藤堂は小判を数枚、床に投げた。
遣り手  へ、へえ。


――――お蘭は早々に前の客を追い出して、藤堂を部屋へあげた。
お蘭   どうなすったんですよ。
藤堂   面白くねえ。お蘭、今日は、夜っぴいて飲み明かすぜ。
お蘭   おやおや……おかんむりですね。
――――お蘭は、日頃はうるさい位のおしゃべりだが、こういう時は何も言わない。黙っ
   て酌を続けた。
藤堂   ちぇっ。厄落としだ。ああ、せいせいした。
お蘭   嘘ばっかり。
藤堂   何。
お蘭   泣きそうな目をしておいでですよ。
藤堂   ………。
――――藤堂は、本当に泣きそうな顔をした。
お蘭   ねえ、平さん。何があったか知りませんけどさ。……あたしみたいな女に逃げ
     こんじゃ、駄目ですよ。
藤堂   ………。
お蘭   確かに、ここは男の憂さの捨て場所ですけどね。そればっかりになったらいけ
     ません。もちろん、……来てくれるのは嬉しいけどさ。
藤堂   お蘭。
――――藤堂はお蘭に抱きついた。


――――朝になっている。藤堂は布団の中で、かいつまんで菊栄のことを話した。
お蘭   そりゃあ、平さんが悪いわ。
藤堂   ちぇっ。
お蘭   嫌だよ。あたしのせいで、堅気の女のひとを泣かせるなんて。寝覚めが悪い。
藤堂   でもさ。
お蘭   でももへったくれもあるもんですか。ちょいと頭を冷やして、その女の人に謝
     りに行きなさいよ。
藤堂   ………。
お蘭   こら。藤堂平助。いいかい、男と女の喧嘩ってのはね。好きだって気持ちが心
     底にあるからするんだよ。本当に嫌いなら悋気を妬いていがみあったりしない
     んだ。女が困ってる時に見捨てるような男は、あたしゃ嫌いでござんす。
藤堂   そう言うなよ。
お蘭   そりゃあ今はお互い、頭に血が上って無理かもしれないけどさ……そういうい
     い人がいるんなら手を離しちゃいけないんだよ。ちょっとした行き違いでさ、
     今を辛抱したら笑い話ですむ時もあるんだよ。そんな、子供を亡くした時にあ
     んたが見放したら、あんまり可哀相じゃないのさ。
――――お蘭は本気で涙ぐんでいる。
藤堂   もう、駄目さ。それに……俺はお前に惚れちまった。もう、菊栄とは前みてえ
     に戻りっこねえ。
お蘭   馬鹿っ。あたしの言うことが聞けないっていうなら、とっとと帰りやがれ。お
     代はのしつけて返してやるさ。この馬鹿侍っ。
――――お蘭、布団をひっぺがす。
藤堂   おい。
お蘭   おとといおいで!もう、その女と話して来ないうちは、来ちゃいけないよ。
――――お蘭は威勢よく藤堂の着物を投げつけ、部屋から追い出した。
藤堂   ちぇっ。よくよく、物を投げつけられるぜ。


――――藤堂はそれでも決心が鈍って、菊栄の家に行くのに三日かかった。
藤堂   (とにかく……子供まで作ったんだ。お蘭の言う通り、別れるにしてもあんな
     ままじゃいけねえ。)
――――おずおずと、中をのぞいた。菊栄が、うつろに笑っている。
菊栄   藤堂はん……。
――――部屋の中はきちんと整理がされて、荷物がまとめてある。
藤堂   これは?
菊栄   へえ……。やっぱり、みよしやへ戻る事にしました。道具類は古道具屋はんに
     ひきとってもろうて……お代は、なんぼになるかわからへんけど、屯所の方へ
     お届けします。
藤堂   そうか……。いや、俺は何もいらねえ。何かの足しにしろ。
菊栄   へえ。ほな、そうします。
――――菊栄は、着物を畳み続けている。ふと、あの紅藤の小紋が出てきた。菊栄の手が
   止まった。
藤堂   菊栄……。
菊栄   うち、藤堂はんに申し訳ないことして……嘘をついて……けど、この着物だけ
     は……。うち、ちゃんと洗うたんどす。洗いに出したんどっせ。
――――菊栄、絶句して顔を見せないように泣いている。藤堂はその背中を抱きしめて、
藤堂   菊栄。すまなかった。俺が……俺が悪かった。
菊栄   いいえ……うちこそ、ええ夢見せてもろうて……おおきに。
藤堂   ………。
菊栄   そやけど……もう、あかん。
藤堂   俺も……お前が嫌いになったわけじゃねえ。しかし、今は無理だ。少し、時間
     をくれ。
菊栄   ………。
藤堂   虫のいいことを言うと思うだろうが、もっと時間がたって、もし……もしまた
     会いたいと思ったら、その時はやり直そう。
菊栄   嬉しい……。その言葉だけで、十分どす。
――――菊栄は寂しげに笑った。


――――高台寺月真院。御陵衛士はそこへ宿所を移している。
斎藤   どうした。なんだかしおれた顔をしているね。
藤堂   みっともねえ話さ。いっぺんに、二人の女にふられちまった。
斎藤   へえ。珍しいな。
藤堂   粋に遊んだつもりが、野暮の骨頂さ。
斎藤   ふうん。
――――斎藤は刀に打粉を振りながら、
斎藤   藤堂君。あんた……こんなことを言ったら気にさわるかもしれんがね。
藤堂   何だい。お説教かい。
斎藤   君は、実の父親を知らないと言ったね。
藤堂   ああ。……本当に、藤堂和泉守の種だかどうかは知らんが、見たことも会った
     こともねえ。
斎藤   うん。君はお袋さんの女手ひとつで育った。だから女に対して、よくも悪くも
     甘えん坊だな。
藤堂   俺が?
斎藤   違うかね。
藤堂   うーん。
斎藤   よくも悪くも、だぜ。女は、そういう君が可愛くて寄ってくる。しかし、君は
     その女に対して、お袋さんみたいに身も心も甘えてしまう。何でも、自分のわ
     がままを受け入れてくれると思っている。
藤堂   そうかなあ。
斎藤   男は大なり小なり、女にお袋の匂いを求めるものだそうだがね。しかし、女も
     人間だ。しかも我々とつき合うようなのは、同じくらい……たかだか二、三十
     年しか生きていない未熟な人間だ。誰でも……男も女もない。その日その日を
     懸命に生きているただの人だ。君の母親や、観音様でもなんでもない。それを
     思ってやらないと、女も辛くなってしまうんじゃないのかな。
藤堂   へえ……。
斎藤   誰でも、明日の事さえわからなくて必死なんだ。迷ったり、苦しんだりぶつか
     ったり……それでどうにか一人前に生きていくんだ。私は……最近そんなふう
     に思うようになってきた。
藤堂   斎藤さん。
――――斎藤、照れたようににやっと笑う。この男も、間者として屈折した思いを抱いて
  いる。密偵のお絹という女とは、役目を越えた深い仲になりつつあった。
藤堂   俺は……確かにわがままだった。しばらくおとなしくして……考えるよ。
斎藤   ああ。



(八)   つ か の 間 の



――――ほどなくして、高台寺党こと御陵衛士たちを震撼させる事件が起こった。隊士の
   阿部という男が、血相を変えて飛び込んで来た。
阿部   大変だ。茨木司たちの一党が、全滅したぞ。
藤堂   何っ。
――――藤堂ら数名は驚愕した。
藤堂   全滅とは、どういうことだ。
阿部   先日……新選組に残留した茨木ら十名が、幕府取り立てを機に向こうを抜けて
     こちらへ合流しようとしたろう。
藤堂   ああ。


――――と、いう時に、伊東は彼らを門内へ入れる事を拒否した。回想。
伊東   そうか。茨木君たちが来たか。
鈴木   ええ。彼らは、新選組に残って動静を探ってくれていましたが、正式に幕臣と
     して名を連ねたら今後の活動もできない。これを機会に我が党へ参入したいと
     言っています。
伊東   それは……まずい。直にここへ受け入れたら、近藤との約定を逆手にとって新
     選組が斬り込んでくるぞ。
鈴木   兄上。では、どうするのです。
伊東   会津藩邸に身柄を預かってもらうように言いなさい。彼らは、国事を思うあま
     り主家を脱して上洛した。今になって幕臣となるのは、二君に仕えずという道
     義に反すると、我々への転入の仲裁を頼むのだ。守護職が間に入れば、近藤た
     ちも申し出を聞き入れざるを得まい。
鈴木   なるほど。では、そう伝えて来ます。


――――再び現在。
藤堂   会津が中に入って、穏便に済むはずじゃなかったのか。
阿部   そ、それが……その会津藩邸内で斬られたんだ。
隊士たち 何っ。
阿部   無論、表向きは脱退願いが叶わず、自刃したことになっている。死んだのは、
     茨木、佐野、中村……えーと、富川の四人だ。あとの六人は、追放されて逃げ
     散った。
服部   何と……まあ……。
藤堂   やっぱり、あの近藤さんたちが許すはずがねえ。
服部   汚いな。
阿部   外出先の伊東先生には、新井君が知らせに走っている。
篠原   こうしてはおられんな。
阿部   なぜです。
篠原   逃げた連中が、ここへ駆け込み寺よろしく舞い戻って来たらどうする。新選組
     の追手が押し寄せて来るかもしれんぞ。
―――― 一同、あっという顔をして、
阿部   そ、そうだ。門を閉ざさねば。
藤堂   俺は、斎藤さんを呼んで来る。
――――藤堂は、寺に近い空き地で剣の稽古をしていた斎藤を呼びに行き、急を告げた。
   斎藤ですら、驚愕している。
斎藤   何と……。
――――茨木らの暗殺については、斎藤も知らされていない。


――――伊東は、さすがに取り乱したところはなかったが、顔色は青ざめていた。
伊東   まさか藩邸内で殺戮を行うとは……さすがに、常識が通じんな。会津も、会津
     だ。公邸内を血で染めるようなことに加担するなどと……。
鈴木   野蛮そのものですな。
伊東   しかたあるまい。皆しばらく、外出を控えて事に備えていただこう。
篠原   承知。


――――衛士たちはその後、いつ新選組からの夜襲があるかと、着衣のまま刀を抱いて寝
   た。寝つかれず、ひそひそと話している。
阿部   やはり、あの時思い切って全員で出て来ればよかった。残留組などを残して、
     火種を蒔いてくることはなかったんだ。
篠原   いや。あの時は、十六名だったから向こうも許したのだ。総勢三十人近い分離
     だったら、とてもああすんなりとは行くまい。
――――こちらでは、藤堂と斎藤が枕を並べている。
藤堂   落ち着かねえ。何だか、わくわくするぜ。
斎藤   ふ……。
――――しかし、新選組からの急襲はなかった。拍子抜けするほど、静かなものだった。


――――伊東、近藤勇からの書状を読んでいる。
伊東   腹のわからぬ連中だ。見たまえ。
藤堂   何です。
伊東   この度の、茨木一党の件……そちら御陵衛士がたの画策ではないことは承知し
     ている。彼らが脱退を企て、高台寺に押しかけた折、よく約定を守って拒絶し
     て下さり、お陰で隊規を遵守出来た事に礼を申し上げる。と、こうさ。まさか
     近藤から礼状が来るとは思わなかった。
藤堂   ………。
伊東   彼らも、時勢が傾いて来ている事に気づかぬほど馬鹿ではないらしい。朝廷に
     手づるのある我々と、事を荒立てるのは損だと思っているのかな。
藤堂   さて……。そうですかね。
伊東   彼らも、必死さ。親藩諸侯がだらしない、と近藤の名前で建白書を出したりし
     ている。今更公儀の尻を叩いたところで何もできまいが……。
藤堂   ふうむ。
伊東   こちらも対抗しよう。同じ老中板倉侯に建白書を提出する。
藤堂   左様で。
伊東   その建白書には、弟(鈴木三樹三郎)と共に、君と斎藤君に名を連ねてもらお
     うと思っている。
藤堂   ええっ。そ、そんなもの書けませんよ。
伊東   (笑って)何、文面は私が書く。君たちは、署名してくれるだけでいい。
藤堂   なんだってまた……。
伊東   君たちは、もとは近藤君の最古参の同志じゃないか。その君たちが新選組を見
     限って、私と志を一つにしていることが明らかになれば、近藤勇の面目は丸潰
     れさ。
藤堂   ははあ。先生も意地が悪いですな。


――――藤堂、斎藤と木刀で稽古をしながら、
藤堂   へへ。この俺たちが、まさか老中へじきじきに意見書を出すとはなあ。なんだ
     か、面はゆいや。
斎藤   ………。
――――斎藤の心中は複雑である。


――――秋。阿部と加納が、ひそひそと話している。
阿部   土方が、隊士募集で江戸に下ったそうだな。
加納   うむ。それに……沖田の病が悪化して、どこか営外に潜んでいるらしい。
阿部   ほう。それじゃ、近藤は両腕をもがれたも同然じゃないか。
加納   ああ。沖田は、近藤の腹心中の腹心だ。しかし、いかに奴といえども……病で
     寝たきりでは、敵ではあるまい。この機会に奴を密かに斬って、慌てた近藤を
     も、一気にやるというのはどうだ。
阿部   いいな。沖田はどこに潜伏しているんだ。
加納   おそらく、近藤の妾宅だろう。
阿部   醒ヶ井か。しかし、あの近藤が自分の女と若い男を一緒に住まわせるかね。
加納   何、近藤にとっては、沖田は弟も同然だ。
阿部   よほど、秘密でやらねばなるまいが……。
加納   近藤をつけていればわかる。おそらく、供もほとんどつけずに見舞いに行くに
     違いない。うまくすれば、二人同時に討ち取れるぜ。そうなりゃ大手柄だ。
――――斎藤が、気配を消して廊下から話をうかがっている。
斎藤   (馬鹿な奴らだ。沖田君の病床を襲ったりしたら、藤堂君が烈火のごとく怒っ
     て暴れ出すに決まっている。彼は、そういう卑怯を好まない。)
――――斎藤はひそかにその場を離れた。もちろん、新選組へも連絡している。


――――新選組屯所。近藤が、斎藤からの密書を読んでいる。山崎がいる。
近藤   総司の潜伏場所を襲うだと……。
――――近藤、怒りに震えている。
山崎   姑息なことを考えるものです。
近藤   病気の沖田を斬り、その死体を囮にわしをおびき出すつもりらしい。
山崎   土方先生のおっしゃる通りでしたな。局長の休息所にいると噂を流しておけ、
     という……。
近藤   うむ。土方君の思い人であるおりつ殿のことは、わしらしか知らぬ。おりつ殿
     の家におれば、沖田は安全だと思うが……。
山崎   やはり、念のためお見舞いは控えられた方がよろしいでしょう。
近藤   うむ。……高台寺党め。
――――近藤、憤懣やるかたないという表情で、密書を燃やしている。


――――高台寺党が沖田を襲うまでもなく、近藤が動揺する出来事は起きた。徳川慶喜に
   よる大政奉還である。伊東をはじめ、御陵衛士たちは狂喜した。
藤堂   ついに……徳川幕府が消えてなくなったか。
――――生まれてからずっと、江戸のお城を見ながら育った藤堂には、信じがたいような
   気がする。鴨川のほとりを、一人酔いをさましつつ歩いた。
藤堂   とうとう……菊が葵に勝った。これからは菊の世の中だぜ。
――――ふと、菊栄を思い出した。藤堂が新選組を離れたのは、菊栄の父から聞いた話も
   わずかだが要素に入っている。生まれるはずの子供のためでもあった。
藤堂   お菊……菊栄のやつ、どうしているかなあ。
――――ああして別れてから、半年近くたっている。玉屋のお蘭には「女と別れたよ」と
   言って時々通ってはいるが、当初あれほど新鮮に見えたお蘭が、近頃はそうでもな
   いように思えている。所詮、金で買う女と、あれほど実を尽くした菊栄とでは、恋
   としての比重が違っているようだった。
藤堂   俺も、本当に勝手なやつだよなあ。
――――藤堂は、橋の欄干によりかかってほろりとした。


――――清水の玉屋。お蘭が、瓦版をぽい、と畳に投げ捨てるようにして、
お蘭   大政奉還、か。幇間だか芸者だかしらないけど、とりあえず……平さんの念願
     叶っておめでとうございます。と、言わなきゃならないんでしょうね。
藤堂   不服そうだな。
お蘭   そりゃ、あたしら江戸っ子ですよ。世の中から、将軍様がいなくなるなんて、
     生まれてこのかた考えたこともないもの。
――――お蘭は、ちょっと沈んでいる。
お蘭   だけど……こんなにこんがらがった世の中でさ、御所の庭くらいしか見たこと
     のない、しかもまだ子供の天子様なんぞに、異国を向こうに回して戦やまつり
     ごとができるのかねえ。
藤堂   馬鹿。罰当たりなことを言うな。
お蘭   でもさ。
藤堂   そのために、今後は薩摩や長州などの雄藩が連合して、帝をお助けしていくの
     さ。
お蘭   どうだか。田舎者に神輿をかつがせたって、徳川様の残したおいしいところだ
     け食い散らかされるのがオチさ。
藤堂   こら。
お蘭   いずれにせよ、まだまだ大荒れになりますよ。……どうせ、薩長土の勤王諸藩
     とやらは、徳川様が将軍の座を降りただけじゃ満足できなくって、裸になるま
     で叩きつぶす気でいるんだろ。それに、いくら旗本八万騎がだらしないったっ
     て、新選組みたいな血の気の多い侍もいるんだもの。とても、皆がおとなしく
     我慢しているとは思えない。そのうち、天下分け目の大いくさになるって、お
     客の誰かれとなく噂していますよ。
藤堂   戦になりゃ、俺は真っ先に働くぜ。ここんとこずうっと、うずうずしていたん
     だ。
お蘭   ………。それもいいけど……平さん、例の……お菊さんとかいう人とは、音沙
     汰なしなの。
藤堂   え……ああ。あれっきりさ。
お蘭   戦にでもなったら……それこそ本当に会えなくなっちまうじゃないか。ねえ、
     もういっぺん会っておやりよ。向こうだって、待っているかもしれないよ。
藤堂   今更どのツラさげて、会えるもんじゃねえ。
お蘭   馬鹿ねえ。生きるか死ぬかって時に、体裁気にしててどうするのさ。男と女な
     んてものはさ、好きなら素直になって、会いに行かなきゃ駄目なんだよ。お互
     い、じっと思い出ばっかり偲んでたってさ、本当に取り返しがつかなくなって
     からじゃ遅いんだよ。
藤堂   お前は、妙な女だなあ。自分の客に、他の女とよりを戻せなんて勧める奴には
     会ったことがねえ。
お蘭   そりゃあ……苦労した女には、一人でも幸せになってもらいたいもの。
藤堂   お前は……。俺が菊栄と一緒になっても平気なのか。
お蘭   あたしは強いから大丈夫。それこそ、堅っ苦しいお武家の女房なんざ頼まれた
     ってなりたくもないやね。
藤堂   ちぇっ。
お蘭   今の商売も嫌いじゃないけど……、じきに、戦ぶとりの焼けぶとりっていう馬
     鹿じじいでもたらしこんで、身請けをさせてのんびり暮らすさ。まあ、このご
     時世で妾にでもなれりゃ御の字さ。
藤堂   何だ。妾でもいいなら、俺だっていいんじゃねえのか。
お蘭   いや。だって、あんた気が変わりやすいの知ってるもの。若い男なんて信用で
     きませんよ。
藤堂   ちぇっ。
お蘭   いい?平さん。そんなあんたでも、子供を生んでやろうとした女が、たった一
     人いたんだからね。そのお菊さんが恋しいと思うんなら、会ってみなきゃ駄目
     だからね。女郎なんかに逃げ込んでたって、何もなりゃしないよ。
藤堂   ………。わかったよ、お蘭。お前は……いい奴だな。
――――翌朝。藤堂が玉屋を出ると、二階からその背中を見送るお蘭。ぷい、とふてくさ
   れたように窓を閉め、茶碗の酒をぐっとあおる。少し泣いているらしい。


――――十一月十日。既に初冬である。藤堂は、「みよしや」の側の角に立っている。さ
   っきから客の出入りが激しいところを見ると、菊栄は忙しく働いているだろう。
藤堂   ちぇっ。みっともねえ。やめたやめた。
――――ぶるっと震えて、きびすを返そうとした。その時、背後で聞き覚えのある声がし
   た。菊栄が、客を見送って玄関に出ている。
菊栄   おおきに、ありがとうございます。また、おこしやしとくれやす。
客    ほな、菊ちゃん。また寄せてもらうさかいに、あんじょう頼むで。
菊栄   へえ。ほんまに、おおきに……。
――――菊栄は丁寧に、客の見えなくなるまで頭を下げていたが、通りを見渡して入ろう
   とした。その時、藤堂の姿に気づいて、呆然と立ちすくんだ。
菊栄   藤堂はん……。
――――とたんに、仕事の顔から、見慣れた泣き虫の顔になった。
藤堂   よう。
――――藤堂は、くしゃっと笑った。照れくさかった。
菊栄   ………。
――――菊栄は素早くあたりを見回して、下駄の音を刻んで走り寄ってきた。
菊栄   あの……どう、おしやしたんどす。何か?
藤堂   いや。ちょっと……通りかかったもんだからよ。
菊栄   お酒を?
藤堂   いや。……お前が、どうしてるかと思ってさ。
菊栄   ………。
――――菊栄は、前掛けを両手で掴んで、顔をかくした。声は出さないが、泣いている。
藤堂   相変わらずの、泣き虫だなあ。
菊栄   ………。(うなずく)
藤堂   菊栄。
――――藤堂は、はじめはおそるおそる、やがて力を込めて、菊栄のきゃしゃな体を抱い
   た。そのまましばらくして、
藤堂   あのさ……もう、俺が嫌いか。
菊栄   ………。(強くかぶりを振る)
藤堂   好きか。
菊栄   ………。(今度はうなずく)
藤堂   はは。安心した。
菊栄   嬉しい……。
――――菊栄は赤くなって、藤堂から体を離した。指で涙をぬぐった。
藤堂   元気か。体のほうは、どうだ。
菊栄   へえ……もう、何ともおへん。店が忙しいて、しんどいことはおすけど。
藤堂   そうか。商売繁盛なようでよかったな。
菊栄   へえ……例の、大政なんとやらで、世の中が慌ただしいさかいに……けっこう
     あちこちの寄り合いが多いんどす。
藤堂   へえ。そうか。
菊栄   あんさんとこも、大変なんと違いますか。
藤堂   俺の方は……ひとまず安心さ。天朝様の兵隊だからな。
菊栄   そうどすか。(微笑する)
藤堂   菊栄。今夜は俺も、高台寺に戻らなきゃならんが……近いうちにどこかで会お
     う。無理か。
菊栄   うちも……ごひいきさんのお座敷がいっぱいどす。そやけど……十九日の日や
     ったら、女将さんが法事で出掛けはりますさかい、店は休みどす。その後は、
     たぶん年の内はあかへんと思います。
藤堂   そうか。あと九日だな。よし……じゃあ、俺が迎えに来る。何時になるかわか
     らんが、きっと来る。めかしこんで待っていろ。
菊栄   へえ。
――――藤堂は、何気なく菊栄の手を握った。
菊栄   いやあ、冷た……
藤堂   おお、すまねえ。
――――藤堂は、ぱっと手を離そうとした。が、その手を菊栄が両手で包みなおした。
菊栄   ほんまは……長いこと待っておいやしたん?
藤堂   ばれたか。
菊栄   うふふ。
――――菊栄は泣き笑いをしながら、藤堂の手を温めるように白い息を吹き掛けている。
   藤堂は、目をしばたたかせた。


――――藤堂が高台寺に戻ると、同志がちょっとざわついている。
阿部   藤堂君。斎藤が、逃げたぞ。
藤堂   逃げた?
阿部   ああ。こともあろうに、伊東先生の手文庫から、五十両の金を盗んで出奔した
     んだ。
藤堂   げっ。
阿部   まさか、新選組にも戻れまいから……どこかへ落ちたんだろうと思うが。
鈴木   藤堂君。君は、斎藤君の女というのがどこにいるか、知らんかね。
藤堂   はて……そういやあ、料理屋の仲居だとか言ってたが、店は知らんな。
鈴木   不届きな奴だ。おおかた、女にそそのかされて金を持ち出したんだろう。
藤堂   ………。
――――藤堂は、唖然としている。
藤堂   (なんだか……俺にしみじみしたことを言っていたが、よほど命懸けで惚れた
     女でもできたのかねえ。斎藤さんも見かけによらねえ。)
――――藤堂はこのあたりお人よしである。斎藤はひそかに、新選組に戻っている。


――――十一月十五日夜。有名な暗殺事件が起こる。近江屋での、坂本龍馬、中岡慎太郎
   の斬殺である。
伊東   だから、あれほど注意しろと言ったのだ。おそらく新選組の仕業だろう。
――――伊東は憤慨している。前日、どこから漏れ聞いた情報か知らぬが、伊東はわざわ
   ざ坂本に、「新選組が先生を狙っております。くれぐれも身辺にご注意を」と、忠
   告しに行っている。ところが、坂本は「もと新選組のおまんに言われてものう。」
   と、鼻であしらうような態度だったという。土佐の巨魁である坂本にすれば、新選
   組を脱してわずか十六名の隊をひきいて奔走している伊東など、とるに足りない小
   物だったのだろう。その上、伊東の小才子ぶりがもともと気に入らなかったのかも
   しれない。しかし、伊東の自尊心はひどく傷つけられた。
伊東   坂本、中岡の二人が倒れたとすると……土佐は今後大きく遅れを取るかもしれ
     んな。
――――伊東は土佐からの要請を受けて、衛士たちの何人かを現場の検分にやっている。
   藤堂も、凄惨な血のあとを見た。
藤堂   派手にやりゃがったなあ。
――――土佐者たちが、じろっと険しい目で見た。その一人が、鞘を持って来た。
土佐者  これが、現場に落ちており申した。貴殿らの首領、伊東殿は、坂本を殺しに来
     るのは新選組じゃと申されておったそうじゃが、この鞘に、見覚えはござらん
     か。
篠原   蝋色の鞘は、原田左之助が使っておったな。
富山   いかにも。原田のもんに、間違いごわはん。
藤堂   そうか?
――――藤堂だけは、首をかしげた。原田の差料は、確かに好んで蝋色のものを使ってい
   たが、同一とまで言い切れるだろうか。篠原が、ちら、と目配せをした。
藤堂   ………。
――――伊東の側近にしてみれば、伊東の忠告が正しかったという事を裏付けるためにも
   犯人は新選組でなければならないらしい。土佐者を多く斬って憎まれている原田な
   どは、犯人像としてうってつけであった。


――――驚くことに、その三日後、である。伊東が、近藤土方の酒の招待を受けている。
伊東   ふふ……あははは。
――――伊東は、近藤の書状を読んで高笑いした。
伊東   ついに、近藤勇が私に膝を屈した。
――――伊東は、勝った、と思ったに違いない。
伊東   時局いよいよ急にして、ぜひ伊東先生のご高説を賜り、今後の方針の参考とし
     たい……だと。ふふ、馬鹿な連中だ。気づくのが遅すぎる。よほど、坂本殺し
     の嫌疑をかけられて困っているとみえて、私に、勤皇諸藩へのとりなしを頼ん
     で、保身をはかるつもりなんだろう。
鈴木   どうするんです。
伊東   行くさ。近藤、土方の馬鹿面を拝んでやる。潰れた幕府の、ご直参とやらの顔
     をな。
鈴木   まさか、お一人で。
伊東   ああ。場所は、近藤の妾宅だ。まさか、女子供のいる家で無茶はするまい。
鈴木   危ない。危なすぎる。
伊東   伊東ともあろう者が臆病風に吹かれたという風評が立ってはしゃくだ。今後の
     活動にも関わる。
鈴木   何を、話して来られるつもりなんです。
伊東   何。時勢についてとくと話して聞かせてやるさ。もし、近藤土方が揃って頭で
     も丸めて出て行くと言うのなら、残った隊士たちは、そっくり引き受けてやっ
     てもいい。そうすれば、我が隊も一気に百名を越える。もう、土佐の浪人づれ
     に馬鹿にはさせぬさ。
鈴木   しかし……。
伊東   三樹。我々の計画の事もある。下見もかねて……今日のところは向こうに警戒
     させぬことが第一だ。
鈴木   ……兄上。例の、近藤暗殺の計画……まさか漏れてはいないでしょうね。
伊東   いや、知っているはずがない。まだ、同志の中でもごく内輪の者にしか話して
     いない。念のため、試衛館組の藤堂君や斎藤君には秘密にしているほどだ。
鈴木   そうですな。知っていれば、旧交を温めたい、などと、兄上にすがってくるは
     ずもない。
伊東   近藤め。自分があと数日の命とも知らず……哀れですらあるな。
――――伊東は、黒羽二重の新調の羽織に袖を通している。


――――藤堂は、伊東が外出する事を聞いて、廊下で呼び止めた。
藤堂   伊東先生。まずいですよ。襖越しにずぶりとやられたらひとたまりもありませ
     んぜ。
伊東   何。私も武士だ。北辰一刀流の伊東が、近藤がこわくて逃げたなどと言われた
     くない。
藤堂   しかしですね。
伊東   君達は、好きにしていたまえ。気兼ねには及ばない。それに……敵をほめるよ
     うだが、近藤も今や旗本直参の男だ。私一人をだまし討ちにするほどの卑怯な
     真似は出来まい。お互い……名こそ惜しけれ、さ。
――――伊東は涼しげに笑った。それが藤堂が伊東の生きている姿を見た最後になった。


――――近藤の妾宅で、伊東は周辺にすすめられるまま、存分に弁舌をふるい、酒肴を楽
   しんだという。近藤、山崎らはいちいち感心し、土方は終始悔しげに黙っていた。
   しかも、土方は途中で退席した。反目していた伊東の時勢眼が正しかったことに、
   決まりが悪かったのだろう、と伊東は解釈した。午後十時。伊東は、酔いをさまし
   つつ一人で歩き、法華寺まで来た時である。
伊東   ぐっ。
――――伊東は、板塀から突き出された槍で首の付け根を刺し貫かれた。そのまま静止し
   たところを、背後から斬られた。のけぞった瞬間、伊東は最後の気力をふりしぼっ
   て、失いかけた意識の中で振り向き、背後の敵を斬った。が、その時に首の槍が抜
   け、血が吹き上がった。あっけなく路上に崩れ、息絶えた。なぜ、と問いたげな顔
   をしている。
土方   よし。手筈通り、死体を油小路に引きずっていけ。
隊士   は。
――――土方は、すでに近藤の妾宅を出た時、すばやく護衛、尾行の人影がないか、確認
   させていたのである。呟いた。
土方   ……本当に一人で来やがった。その点、見上げたもんだよ。
――――土方は、口のはしで薄く笑った。


――――永倉新八が、近藤の妾宅へ最後の下知を聞きに行った時、近藤は小声で、
近藤   永倉君。平助は、来ると思うか。
永倉   奴はああいう気性ですから……高台寺にいりゃあ、来るでしょう。
近藤   そうか。
――――近藤は、ちょっと視線を外して考えこんだあと、
近藤   永倉君。江戸っ子は、気が短い。同時に、ものに飽きやすい。
永倉   は?
近藤   一時は熱くなっても、また飄々として、きれいさっぱりと別の生き方をするこ
     ともできる。そうだな。
永倉   ………。
近藤   あいつも、江戸っ子だな。
永倉   はい。
――――永倉には、近藤の言わんとするところがわかった。




(九)   寒 月 油 小 路


――――町方の者が、深夜の高台寺へ走っている。戸を叩いた。
男    ごめんやす。急の知らせどす。開けておくれやす。
――――刀を立てかけて起きていた藤堂が、門へ走った。
藤堂   どうした。
男    へ、へえ。わしは町方のもんどす。七条油小路の辻に、お侍はんが、斬り殺さ
     れて倒れております。それが、こちらの伊東様という御仁らしいので……。
藤堂   な……。(絶句)
――――伊東の死が、衛士たちにもたらされた。ある者は蒼白になり、ある者は顔を紅潮
   させて、騒ぎ立てた。
篠原   何てことだ。
加納   新選組、卑怯なり。卑怯者めら!
鈴木   兄上、兄上ーっ。
――――ひとしきり、騒ぎとなる。
篠原   まあ、待て。諸君。残念だが、伊東先生が討ち死にされたことは間違いない。
     それで、どうする。
鈴木   どうする、とは。
篠原   知れたことだ。ご遺骸を、引き取りに行くか、否か。
――― 一同がごくりと唾を飲んだ。鈴木などは、真っ青になって震えている。
篠原   そんなに目立つ所に、わざわざ置いてあるということは……言わずもがな、と
     いうことだよ。
服部   ……新選組が総出で、待ち構えているだろうな。
篠原   無論。伊東先生を囮に、我々を全滅させる気さ。
加納   俺は、反対だ。
――――皆が、加納の顔を見た。
          ハラワタ
加納   もちろん、腸がちぎれるほどに悔しい。しかし、今のこのこと出て行っては、
     全員無駄死にではないか。せっかく、大政奉還の大願が成就して、あれほど待
     ち望んだ天朝の世が来るという矢先、我々が新選組相手に皆殺しにされて、国
     のために働くこともできぬとは。それが伊東先生のご遺志に叶うとは思えん。
篠原   それも、一理ある。
服部   しかし……高台寺の者は皆腰抜けだと言われるのも小癪だぜ。頭領の亡骸を、
     自分の命惜しさに路上に晒したと言うことになる。
毛内   いかにも。……後世までのいい笑い物だ。
鈴木   あ、明るくなってから……。
篠原   ん?
鈴木   薩摩藩邸に、護衛を頼もう。薩摩は我々の結盟の庇護者だ。堂々と、列を組ん
     で引き取りに行けばいい。
藤堂   無駄だな。
――――藤堂が、初めて口を開いた。皆、ぎょっとしてそちらを見た。
鈴木   何が、無駄だ。
藤堂   薩摩が、死んだ者のために力を貸すわけがねえ。もはや、伊東さんを利用する
     ことが出来ねえのだからな。
鈴木   何。
藤堂   会津と新選組の結びつきとは訳が違う。言っちゃ悪いが、この京で薩摩ほど計
     算高い藩はねえよ。とても、この時期俺らのために生死を賭けてまで、人を出
     してくれるとは思えねえ。
篠原   確かに……。
藤堂   俺ア、行く。
――――藤堂、刀を取って立ち上がる。
鈴木   ど、どこへ。
藤堂   知れたことよ。伊東さんは、俺が大将と仰いだ人だ。しかも……京へ来てくれ
     と誘ったのも俺だ。あの人はそばに誰かいねえと寂しがるような人だからね。
     一緒に、あの世へ行ってやるのさ。
服部   では、拙者も行こう。
――――服部も、のそりと立ち上がる。
毛内   お供する。
――――毛内も、立って大刀を腰にぶちこんでいる。
富山   行きもそ。じゃっどん、何も死ぬと決まったもんでも、ごわはん。
――――薩摩出身の富山が、にやりと笑った。篠原が苦笑した。
篠原   うふ……藤堂君。やはり、新選組がただ追い出してくれたわけではなかったな
     あ。
藤堂   ああ。奴らは、昔っから野暮天もいいところですからね。粋な別れなんてもの
     はできっこねえのさ。
――――篠原や服部らが、声を立てて笑った。
篠原   伊東先生を運ぶ駕籠がいるな。……毛内君。悪いが、ひとっ走り駕籠屋をたた
     き起こしてきてくれ。
毛内   心得た。
――――このあたり、篠原はぬけめがない。加納や鈴木に頼めば、そのまま戻って来ない
   かもしれないからだ。
富山   鎖かたびらは。支度しもすか。
篠原   うむ……(藤堂を振り返って)どうする。
藤堂   (笑って)俺は、いやだね。後で死体を調べられた時、「平助の奴、物々しく
     鎖を着込んで来やがった」なんて笑われるのは、こっぱずかしいや。
篠原   それもそうだ。
富山   せっかく新調したのに、一度も使わんで勿体なかこつじゃ。
藤堂   ほらな。薩摩っぽは、こうだ。
――――篠原たち、再び笑う。
篠原   (鈴木に)三樹三郎さん。誰も強制はしない。兄弟二人、一度に死ぬんじゃ母
     御に気の毒だ。あんたが生きて、兄さんの遺志を継いで働きたいというなら、
     それでもいいんだ。もちろん、加納君もしかりだ。今夜留守にしている同志の
     諸君を待って再起をはかるのも、至極まっとうな方法だ。
服部   そう。物好きに付き合うことはない。
――――加納と鈴木、顔を見合わせる。
加納   ………。
鈴木   私が行かねば……兄に申し訳が立ちますまい。あの世へ行って叱られますよ。
篠原   ふむ。
加納   篠原さん。私も……みくびってもらっては困りますよ。怖くて言ったわけじゃ
     ないんだ。
篠原   よし。では、潔く全員で行こう。
――――「おう」と言う声が上がった。皆、悲壮な顔をしている。
篠原   駕籠が来るまで……辞世を作るもよし、遺書をしたためるもよし。おお、そう
     だ。わしは、今夜の変事を知らずにいる同志たちに、訳を書いておかなきゃい
     かん。半刻後に出発することにしようか。
加納   阿部君たちも、帰ってみたらもぬけの殻で、びっくりするでしょうな。
篠原   うむ。……もし万一だが……虎口を脱することが出来た者は、薩摩藩邸で落ち
     あう事としよう。薩摩も、まさか新選組と斬り合ってきた我々を入れてくれぬ
     ほど、無慈悲ではあるまいよ。
加納   異存なし。
――――藤堂は黙っていた。寒月が冴え渡る庭へ出た。
藤堂   (逃げ道なんざ、どうでもいい。こりゃあ、派手な喧嘩が出来そうだぜ。)
――――藤堂には、辞世を書くほどの気取りはない。ちょっと、懐をさぐってみた。菊栄
   が以前、身重の体でもらって来てくれたお守り札が入っている。
藤堂   どうも、明日は行けそうもねえなあ……。
――――菊栄と再会の喜びを分け合った数日前の出来事が、嘘のようである。
藤堂   福の神……。
――――藤堂は、お守りに向かって白い息を吐いた。
藤堂   (みよしやの女将が、菊栄は福の神だと言ったっけ。その神様を粗末にしたか
     ら、とんだ罰が当たったのかもしれねえ。今度も、また待ちぼうけを食わせる
     わけだ。……こりゃあ……もう許してもらえねえかもしれねえなあ。)
――――藤堂は、月を見ている。


――――嫌がる駕籠かきを無理やり連れ出して、高台寺党の面々は、黙々と歩いた。皆、
   心中何を思っていたかわからない。ふと、服部が口を開いた。
服部   藤堂君。
藤堂   え。
服部   俺は、あんたが池田屋へ斬り込んだ時の手柄話をうらやましいと思っていた。
     しかし、今度はそれに匹敵するほどの喧嘩が出来ような。
藤堂   ふふ、池田屋か。……昔話だねえ。
毛内   何、匹敵どころか……今度は、新選組の猛者数十名が相手だ。しかも、天下の
     往来だ。これ以上存分に剣をふるえる場所はないだろうよ。
藤堂   違いねえ。


――――油小路。四つ辻の真ん中に、月に照らされて伊東の死骸が捨てられている。皆、
   息を飲んで近づき、膝を折って囲んだ。
鈴木   兄上……。
――――鈴木の声を皮切りに、皆、「伊東さん」「先生」などと声を掛け、死体を抱き起
   こした。伊東は、目をうっすらと開け、何か物言いたげな口をしている。目を背け
   るほどの血まみれで美男だけに無惨である。寒気で、衣類にしみた血がばりばりに
   なっている。
服部   血が……凍りついている。
篠原   ……無念だったろう。伊東さん……あんた、意外にお人よしだった。
鈴木   く……。
――――衛士たちの嗚咽が響いた。と、伊東の体を駕籠に入れかけた時、ばらばらと足音
   が鳴った。
藤堂   来た。
――――藤堂らは、立ち上がって一斉に抜刀した。服部が鋭く、
服部   奸賊・・・。
――――と、叫んで駆け込んでいく。毛内も、自分の間合いを取るべく地を蹴った。
篠原   三樹さん。
――――と、篠原は低く叫んで、どん、と鈴木の背を突き飛ばした。鈴木があっ、と伊東
   の駕籠を振り返ると、その肩を抱えるようにして、新選組の突進よりわずかに早く
   退路を駆け抜けている。加納、富山も早いうちに逃げた。無論、この間藤堂には、
   仲間の逃走を咎める余裕はない。
藤堂   ………。
――――藤堂は、ちっと舌打ちをして鈴木らの退路の方へ背を向けた。自然、彼らの逃走
   を助ける格好になった。あっという間に、新選組に取り囲まれてしまっている。
藤堂   藤堂平助だ。喧嘩のしかたを教えてやらあっ。来い!
――――大声で叫んだ。通りに面する商家の二階で指揮をとっている土方にすら、聞こえ
   た。
土方   あの、馬鹿。
――――土方はひそかに舌打ちした。それを合図にしたように、凄まじい乱闘が始まって
   いる。
原田   待て待てっ。迂闊に出るんじゃねえ、包んで討つんだ。
永倉   二番隊、右だ、右。
――――当夜の組頭は、原田と永倉である。二人とも、藤堂とは、試衛館の居候時代から
   の旧知であった。
隊士   うわあっ。
――――民家の塀を背にして、服部武雄が平隊士の群れに瞬時に飛び込み、すっぱりと腕
   を斬り落とした。服部は伊東と同期入隊だが、その剣術では古参をしのぐと言われ
   すぐに監察を任命された切れ者である。刃をふるうのが、おそろしく早い。
隊士   ぎゃーっ。
――――服部が一歩動く毎に、血しぶきがあがっている。一方では毛内監物(有之助)が
   重い腰を深々と沈めて、確実に敵の頭蓋を割っている。文学師範を勤めたほどの教
   養人だが、弘前訛りの残る篤実な人物で人気があった。
土方   ………。
――――土方は、二階から身じろぎもせずに見ている。敵の方はたったの三人。こちらは
   その十倍以上の人数を敷いたというのに、すでに路上に倒れている影が、十を越え
   ている。
土方   (奴ら、鬼でものりうつったか。)
――――藤堂などは、今までに見たこともないほどの鮮やかな手並みで、平隊士たちの間
   を縫うように斬り立てている。原田が階段を駆け上がって来た。
原田   土方さん。あれじゃ、こっちの半分は死ぬ。新入りたちを下がらせてくれ。
土方   平助が……踊っている。
原田   え?
土方   奴の、あんなに楽しそうな顔は何年ぶりだろう。
原田   何、のんきな事を……。
土方   原田君。あんたは、槍を使え。
原田   ああ。
――――原田が騒々しく降りていくと、土方はゆら、と立ち上がって、自らもたすきをか
   けた。階下へ、ゆっくりとおりていく。
永倉   ………。
――――平隊士たちを指揮していた永倉が、土方が動いたのを知って、はっとした顔をし
   た。そのまま、叫んで前へ出た。
永倉   どけ。お前らの手に負える奴じゃねえ。
――――永倉は素早く隊士たちを制し、目立つように藤堂の前へ立ちはだかった。
永倉   平助!
藤堂   ………。
――――双方、剣を構えて対峙した。藤堂はすでに、数カ所の傷を受けて、肩で息をして
   いる。
藤堂   新八さんよ。
永倉   ………。
――――永倉は、同じ江戸生まれでもあり、年こそ違え友人であり、池田屋で藤堂の危機
   を助けた命の恩人である。それがこうして、剣を構えて向き合っている。双方、言
   葉は交わさずとも特別な感情があったろう。
藤堂   ………。
――――永倉は剣を構えたまま、摺り足で位置を移動している。平隊士たちが遠巻きに下
   がった。一方、服部と毛内は、反対側の路地で互いに背中をかばいあいつつ、新選
   組を悩ませている。服部の正面に、原田が槍を持って立った。逆に、毛内の正面に
   は、土方が立っている。
服部   いよいよ……大物のお出ましか。
毛内   ふふ。服部君。わしは……もう、いかん。先に行く。
服部   そうか。
――――毛内は、ずい、と踏み出し、服部の側を離れた。すでに、十数創にわたる傷を受
   けて、着物の色がわからぬほどになっている。
毛内   ……狐め。
――――毛内は、最後の力を絞って刀を振り上げ、土方の方へ向かって歩を進めた。せめ
   て一太刀、土方に浴びせたかったらしい。
島田   副長。
――――大兵の島田魁が進み出て、横殴りに斬った。毛内は首の付け根を斬られて、ぐら
   りと倒れた。周囲が「やった」とどよめいた。
永倉   (小さく)平助。
――――永倉は刀を構えつつ、切っ先を右へ、小刻みに動かした。
藤堂   ………。
――――藤堂は気づいて、にやっと笑った。永倉の間合いのせいで、右の道筋がぽっかり
   と空いている。
永倉   (もういい。逃げろ。)
藤堂   (すまねえ。)
――――藤堂は、喧嘩もこれまで、と土を蹴って逃げようとした。その時、わずかに隙が
   できた。そこへ、藤堂の背中を目掛けてわっと斬りおろした者がいる。
藤堂   うっ。
――――藤堂は一瞬のけぞり、振り返った。何と、斬ったのはあの三浦である。
藤堂   貴様……。
三浦   うわ……。(下がる)
――――藤堂が、鬼神のような目をして今逃げた道をとって返した。永倉が止める間もな
   かった。藤堂は叫びつつ、服部を囲んでいる新選組手勢の中へ、白刃をかざして走
   っていく。背中の血が、路上に線を描いて飛び散った。
藤堂   うおおおっ。
――――藤堂平助はまず三浦を斬り、さらに数人を斬り、走りおえた時には息が止まって
   いる。激しく板塀にぶつかり、側溝にしぶきを立てて頭から突っ込み、やっと動き
   が止まった。やがて孤軍となった服部が、原田の槍に腹を刺し貫かれた。こうして
   油小路の決闘は、終息した。


――――翌朝から三日の間、藤堂、伊東、服部、毛内の四人の遺体は油小路の路上に放置
   された。が、もはや高台寺残党の誰も引き取りに来なかった。藤堂の絶命した側溝
   の水は、血の色に汚れたまま凍りついていたという。ようやく、市民の抗議を受け
   入れた新選組の手で四遺体は壬生の光縁寺に埋葬され、明治の後に、御陵衛士の本
   拠に近い東山戒光寺に改葬され、墓はそこにある。藤堂の遺族の話は伝わっていな
   い。


――――明治。すでに老人となった目明かしの福助が、これも初老の、上等の着物を来た
   女に語っている。
福助   へえ。「みよしや」の仲居の菊栄が悲報を聞いて、「うちは油小路へ行く」と
     言うて泣き叫んだそうどすが、何しろ神経の細い女子どすさかい、あの無惨な
     死体を見たらほんまに気が狂うてしまうのやないか、と、女将や店の者が、は
     がいじめにして止めたそうどす。それからは、何や魂の抜けたようになって、
     人前にもよう出んと、縫い物したり、奥向きの女中みたよなことをして、女将
     の世話をして暮らしていたそうどすな。わしもいっぺん、あの店の門のところ
     で、菊栄が柱によりかかって……青白い顔でぼんやりしているのを見たことが
     おす。
女    ……それで。
福助   ところが、あのおとなしい女がどうしたことか、段々に男を作って身を持ち崩
     すようになったそうで、ある時ふいと店を出てゆくえもわからんようになりま
     した。その後のことはわしも知りまへん。
女    ………。
――――女はぽつりと涙を落として、福助の家を去った。鴨川にかかる橋の上まで来て、
   京の山々を振り返った。淡い雪がちらついている。女は、ショールの襟をかきあわ
   せて、遠くを見ている。
女    藤も、菊も……散ってしまいましたか。
――――女は白い息を漏らして、寂しげに橋を渡って行く。玉屋お蘭の、後年の姿であっ
   た。
                            (終)

       

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