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昼にはまだ少し早い、という頃だが、やや歩き飽いたところで丁度よく途中に、茶店が ある。歳三が店先を指して、 「宗次郎、団子でも食っていくか。」 と言った。宗次郎はえっと顔を上げて、それからすぐに、 「いいですよ、勿体ない。」 と、子供らしくもない遠慮をした。道中何かの時にと、周助から少々の小遣いはもらって きている。しかしまだ道のりは遠い。 「馬鹿、団子くらいおごってやる。」 歳三が苦い顔をした。宗次郎は笑った。 「いやだなあ、せっかく晴れているのに。」 「なんだと。」 日頃憎々しい歳三が、一緒についていくと言ったり、珍しくやさしい事を言ったりすると 雨が降って崩れるといいたいのである。江戸の町民達の間でもまれているだけに、宗次郎 の口が達者になるのは、生来のしゃべり好きも加わってやむを得ない。 「でも………ごちそうになります。目上の人のご好意は立てないとね。」 「へっ、生意気言いやがる。」 歳三はぷいと茶店に入り、みたらしと餡の団子と茶、をそれぞれに注文して、日焼けし て緋色のだいぶ薄くなった格好ばかりの毛氈を敷いた長椅子の上に、宗次郎と並んで座っ た。 「買い食いも久しぶりか。」 「買い食いなんて、行儀の悪いことしませんよ。」 宗次郎の年頃の子供は、商家の奉公に出ればわずかな駄賃での買い食いが何よりも楽し み、というのがいる。歳三も、十一の年に江戸の呉服屋へ丁稚に出されて、ただ腹を満た すだけの質素な飯が味気なく、早く外への使いに出される身になりたいと願ったものだ。 上下の厳しい商家の内情では菓子の分け前など殆どまわってくる事がなく、実家にいる時 はさほど甘い物好きでもなかった自分が、無性に餡子や飴玉をほおばりたくなる事があっ たのを記憶している。 が、同じ住み込みでも宗次郎の場合は違うらしい。 「おあきさん……御新造さまが、こっそりおすそわけをしてくれますからね。」 ちゃっかりしたものである。 「なんだ。おめえ、あのばあさんとも仲がいいのか。」 「ええ。女一人に子供一人ですからね、お互い味方になることにしたんです。」 と、お互いに串から団子を口でヨコに引き抜きながら話している。 「だいたい、ばあさんなんて言ったら悪いですよ。師匠のお内儀に。」 宗次郎がお説教する側になった。歳三は鼻白んで、 「俺ァ、先生の女の趣味だけはわからねえ。あそこまでいくと、まあ、俗に言うゲテモノ 食いだな。」 と、言った。 「ひどいなあ。おあきさんは、いい人ですよ。」 「人はいいだろうがね。撃剣師匠の三代目宗家の奥方にしちゃ、品がなさすぎる。」 勿論、奥方と呼んだのは皮肉で、当時は屋敷に文字通りの「奥」と呼べる区画がある程の 大家の身分でなければ奥様とはいえない。試衛館の場合はおーいと呼んだらはいはい、と すぐに顔を出す程度の所帯である。 宗次郎は、それでも甘いほうを後にとっておいたのか、餡子をまぶした団子のほうを大 事そうにぱくり、とほおばってから、 「周助先生がおっしゃっていましたよ。歳三は顔がいいからもてはするが、まだまだ女の 真贋がわかっちゃいねえ、ってね。」 「何?」 宗次郎は、周助の声音まで真似ながら、 「歳のやつは、ああみえてもウブなところがあるから、女のうわべや見てくれだけでつい ころっと騙されちまう。本当にいい女っていうものがわかるまでには、まだなんべんも痛 え目を見るだろうよ………って。」 歳三はやや黙った。何しろ、宗次郎の弟子入りの前に、歳三が二度目の奉公先で手近の 女とねんごろになり、解決までにひと悶着あった話を周助はよく知っている。周助から見 れば歳三などまだ尻の青い小僧に思えているのだろう。 「たとえ何年年季をつんだって、おあきさんみてえな女には手を出さねえさ。」 横に寝る女は、やはりどこか、綺麗と思える存在であってほしい。そう思う分、歳三は 周助の見立てどおり、まだうわべにこだわっているのかもしれない。 宗次郎は難しいことは勿論わからないが、 「面食いなんだな、歳三さんは。私は、周助先生のほうが正しい気がする。」 と素直に言った。 「十より上の女の手をにぎったこともねえ子供に言われたかねえや。」 「ふうん。」 そんなものかな、という顔をしている宗次郎に、歳三は反撃した。 「知ってるぞ。おめえ、八百屋のお徳に言い寄られて、赤くなって逃げたそうだな。」 「えっ。」 今度は宗次郎がぎょっとなった。試衛館が買出し先にしている町筋の八百屋に、お徳とい う一人娘がいて、宗次郎の一つ下だというのに、商人の子らしく物慣れていて愛想がよく、 顔立ちも末が楽しみと噂されるほどに色白で目が丸く愛らしい。一人っ子なら婿をとって 跡継ぎにするだろうが、芸者や花魁に出せばさぞや人気が出るだろう、などという。いわ ば横丁の豆小町娘であった。そのお徳が、近所の仲間うちの悪童たちには目もくれず、時 々使いに来る試衛館道場の浪人の子、にご執心だというのだった。 「言い寄られたなんて………。」 宗次郎は急に勢いが弱まった。 「本当らしい。」 「あの娘がませてるんですよ。」 「宗次郎ちゃん、大きくなったらあたいをおかみさんにして、か。それで、おめえはなん て答えたんだ。」 「何も……そんなこと、考えられっこないもの。」 「なんだ、だらしがねえ。」 歳三は意地悪く、くっくっと笑った。 「道場のひとつも立てて迎えにくるよと言ってやりゃあいいのによ。」 しかし、黙って言われている子供でもない。 「おかみさんをもらうのは、歳三さんの方が先でしょう。」 年齢順からいえば当然そうである。しかし当節、生業も立たない次男以下が簡単に嫁取り が出来るほど世の中は甘くはない。江戸にも多摩の農村にも、妻帯できぬ男はぞろぞろと 列を成している。 「へ……嫌なこった。一人の女にしばりつけられるなんざ、真っ平さ。あんなものは、他 にあてがねえ男か、色恋に飽きた奴がもらうもんさ。」 「そうかなあ。」 「おめえは、十年たったって女遊びなんざできねえツラだよ。そういう男はさっさと所帯 でも持って落ちつくがいいのさ。」 「私が嫁さんをもらうなんて、考えもつかないなあ。」 「そりゃあ、そうだろう。」 とりとめのない会話がそこで途切れた。宗次郎は、亡父の沖田家からは嫡男の生まれであ る。しかし娘二人が続いて、男児出生を諦めていた病弱の両親が、先に井上林太郎を養子 に迎え、長女お光の婿として家督を約束した。ゆえに、お光は一度他家に養女に出された 形をとって、改めて沖田林太郎の妻になっている。つまり、今の沖田家では林太郎が籍の 上では長男であり当主である。本来の嫡男である宗次郎が成長して無事に妻をめとり、再 び家系を直系男子に戻すためには、また相応の段階が必要になるはずだが、そんな事はま だ遠い未来の話であって、物心ついた頃には兄がいた、という当の宗次郎が、家督だ妻帯 うんぬん、などという責任にまで、まだ思いが及ぶはずもない。 |
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気がつくと、餡子をまぶした最後の団子ひと串を手に持った宗次郎の足元に、一匹の白 黒ぶちの猫が近づいてきて、ふくらはぎの辺りに体を擦り付けてきた。 「おや。」 宗次郎は笑った。この茶店の小女が言うには、店先にいついている猫だという。客のおあ まりを分けてもらいたくて寄ってくるのだそうだ。猫ぎらいのお客はしっしっと追い払う ものだそうだが、宗次郎は生き物が嫌いではない。 にゃあう、と細い声を上げて、猫は宗次郎の手元を見つめている。腰掛けに飛び乗って こずにいるところ、猫も自主的にお預けの習慣を学んでいるらしい。 「餡子が欲しいのかな。」 「まさか。」 歳三が一笑に付した。鰹節や煮干の匂いに惹かれるならともかく、餡子ずきの猫など、聞 いた事もない。 猫が、まるでおいでをする時の格好で、右手を宗次郎の膝の前に浮かせた。宗次郎が好 奇心で、餡子をひとつまみ、指でぬぐって鼻先に差し出してやると、なんと猫はその指を ざらりとした舌できれいになめとっている。 「あはは。やっぱり!」 宗次郎はひどく面白がって、皿にくっついた餡子を次々に指でとっては猫になめさせてや った。猫はお代わりをせがむように、今度は両手を宗次郎の袴の膝に立てかけて、体をの ばして一心にぺろぺろとやっている。どうも、茶店の猫らしく誰か同じように興味本位の 客が試しに餡子をやってみてから、味を覚えてしまったらしい。 「こんどはお茶が欲しい、なんていうんじゃないだろうね。」 さすがに、せっかく歳三におごってもらった団子そのものを猫に食べさせたりはせず、宗 次郎は最後のひとくちをほおばってから、わずかの間でなついてしまった猫の頭をなでて やっている。 歳三は呆れて見ていたが、ふと小声で、 「おい。」 「はい?」 猫の毛並みをいじりながら、宗次郎が振り返った。 「お前の家は、たしか……奥州白河だったな。」 話題が突然飛ぶのは歳三の癖でもあるのだが、宗次郎も何気なく、 「はい。父が。」 と答えた。病弱の亡父から義兄の林太郎が家督は継いだが、もともと微録で、歴々の家中 というには程遠い。浪人して籍を離れて日野にひっこんでも大事にならぬ程度のつながり であり、幼い宗次郎には、白河藩に対しての記憶も感慨もない。 しかし、歳三の次の言を聞いて少し話が変わった。 「そこの侍も、白河だとさ。」 「え。」 宗次郎は何気なく、一つおきの腰掛けに座った二人連れを見た。中年の武士が一人、若い のが一人。中年のほうが手甲をつけた旅装をしている。若いほうは見送りなのか、平時の 服装であった。 歳三はさらに、 「しかも、年かさの方は阿部様お抱えの剣術指南役だそうだぜ。」 「へえ……。」 宗次郎ははじめて興味を抱いて、その中年武士の姿を見守った。年は、四十代半ばといっ たところだろう。眉が濃く、色が白く、あまり強そうには見えないが、いかにも奥州の人 間らしい骨柄をしている。なるほど白河の人というのはこんな顔をしているのか、それと もやはり人によって全く違うのか。そもそも宗次郎の父は白河の本国にいたとは聞いた事 がない。その武士もあまり奥羽なまりは聞こえてこない。江戸藩邸詰めの人なのだろうか。 「お前の父と同じくらいか。」 「え。」 宗次郎は、心中を言い当てられたようにどきりとした。 「ええ……たぶん。」 少し間をおいてから、宗次郎ははにかんだように笑った。自身は親の顔すら覚えてはいな いが、生きていたら丁度同じ年代かもしれない。 と、その時に当の武士がちらりとこちらを見た。宗次郎はあわてて視線を外した。 「どうやら、あの若いのとは別れて、甲州街道を下るらしい。この先、道筋が一緒だな。」 「盗み聞きなんて、悪いですよ。」 「聞こえたんだ。あんな声で、剣術の御前試合うんぬんの自慢話をしてりゃあ、いやでも 耳につく。」 「はあ。」 宗次郎が猫にかまけている間、耳ざとい歳三は他の席の会話を聞くともなしに聞いていた らしい。それが、同行の宗次郎の家と関わる奥州白河の家中の話題であったために、偶然 の不思議さで教えてやった、に過ぎない。 「行くか。」 「はい。」 宗次郎と歳三は、席を立った。 それからの歩みも順調で、二時間ほどは休みなしに歩いた。午前に団子を食べさせても らって良かった、と改めて思いながら、遅い昼食は河原に下りて、試衛館で持たせてもら った握り飯を食べた。おあきが急いで握ってくれたものだが、多少いつもより奮発して海 苔が巻きつけてあり、塩の加減が疲れにほどよく効いて来る。 髪を撫でてゆく川風が心地よくて、ここらで昼寝でもしたいぐらいのところだが、ここ から先を急がなければならない。宗次郎が先に立って街道へ戻った。連れの歳三は、歩き 慣れたものだし日が暮れたら暮れたで寄る場所も持っている、からさほどに案じてはいな いらしかったが。 道に出て歩くと、意外なものを見た。 「あ……あれ。」 宗次郎がふと見た先を歳三も見る。 「さっきの茶屋にいた人じゃありませんか。」 なるほど、笠をかぶってはいるが、背格好、茶色のぶっさき羽織にやや緑を帯びた袴に 手甲脚半の草鞋がけ、大小蝋色の刀を下げて一人の中年侍が歩いていく。先ほどの茶屋で 見かけた「白河藩剣術指南」を吹聴していた武士に違いなかった。 男の足も、さほどに速いとはいえない。宗次郎が気がせいて歩けば、なぜか近づく前に 男もやや歩みを速める。狭い一本道のことなので、無理に追い越すまでもないため、前が 歩みを遅くすれば宗次郎たちもあまりせかない。何やら、知らぬ男の後ろ姿を見ながら、 等間隔を保ったままついていく格好になった。 そのまましばらく行くと、人けのない林道に入った時、その武士が急に振り返った。 「そこの者。」 歳三と宗次郎は、立ち止まった。 「なんでしょう。」 歳三のほうが答えた。 「このわしに、何用あってあとをつけまわす。」 「つけまわす?」 「先刻の茶屋以来、わしの様子をうかがっておるではないか。」 武士の言葉にとげがある。歳三と宗次郎は、顔を見合わせた。 「それは違いますな。あの茶屋はこちらが先に出た。途中、弁当をつかっていてあなたに 追い越された、その後にまた道がご一緒になったというだけです。」 歳三は、かちんと来ると常よりも言葉が丁寧になるという妙な癖がある。言われてみれ ばその通り、なのだが、武士にはまた別の懸念があるらしい。 「しかし、そこの子供。わしの顔をじろじろ見ていた。」 宗次郎のほうを指さした。 「それは……。」 宗次郎は恥ずかしくなった。確かに、歳三が見るともなく自然に様子をうかがったのに対 して、自分はぶしつけなほど長く見つめていたかもしれない。 「それも誤解でしょう。この子は、奥州白河のご家中の出だ。旧主の名前が漏れ聞こえた ので、つい、振り向いたに過ぎぬ。」 「何。同じ家中だと……。」 今度は男がややたじろいだ表情を浮かべた。 「はい。」 宗次郎は顔を上げて、さっぱりとうなずいた。自分が招いた誤解なら自分が答えるべきだ ろう。 「そなた、いや……父親の名はなんという。」 「沖田勝次郎です。」 やや期待をこめて、父の名を口にした。しかしにべもなく、 「知らぬな。」 「父は、江戸定府でした。」 「わしも、江戸へ来て長い。しかし、沖田勝次郎などという者の名は聞いたことがない。」 「父は十年も前に亡くなりました。義兄が跡をつぎましたが、今は浪人ですから。」 「兄の名は。」 「沖田林太郎。」 「それも、知らぬ。軽輩か。」 「二十二俵二人扶持だったそうです。」 「微録だな、そんな下っ端では知らぬはずだ。」 知人でありようはずがない、とわかった時に、男の顔に明らかに軽侮の色が浮かんだ。宗 次郎はそれを敏感にさとって、口をつぐんだ。 「もういいだろう。あんた、いくらお武家といったって礼のねえ。」 代わりに歳三が言葉をはさんだ。先ほどとは打って変わった口調に、男が気色ばんだ。 「何。貴様、町人の分際で。」 「町人だろうと百姓だろうと、浪人の子だろうとさ。てめえの名も名乗らずに、他人を問 い詰めて知らぬと突っぱねてすむ法があるかい。素性が知れねえのはそっちじゃねえか。」 「うぬ。」 「阿部様の剣術指南だなどと茶店で吹聴していたが、あやしいもんさ。見たところ、とて も殿様の教授を勤めるほどの使い手にゃ思えねえ。奥羽の武士は口は重いが節義に厚く、 剛毅なものだと聞いている。江戸者ならば親切で子供相手にゃ小ざっぱりしたもんさ。あ んたはどちらの男気も持ってねえ。」 「無礼な。そこへなおれっ。」 武士が青筋を立てた。声が裏返っている。 「おもしれえ。」 歳三は手にぺっとつばきを吹いた。既にやる気になっている。 「歳三さん。」 宗次郎が割って袖をつかみ、歳三の前に入った。 「子供、さがっておれ。」 「そうはいきません。もともと私のせいですから。」 「こしゃくな。」 「それに……。」 宗次郎は、歳三の腕を放して、武士の前にまっすぐ立ち、ひたと目を見た。 「あなたは、私の父兄を馬鹿になさいました。やはり喧嘩は私が買うべきだと思います。」 凛と落ち着いた声であった。 「な……。」 「おい、宗次郎。」 大人二人が、ぽかんとしている。 「子供のくせに、喧嘩を買うだと。」 「はい。子供の喧嘩に親が出るというけれど、今日は、大人の喧嘩に子供が出ることにし ます。」 あまりにあっけらかんとした啖呵に、武士は嘲笑した。 「わっはっは。こわっぱめ、それでどうする。」 「私と、勝負していただきます。」 「勝負。」 笑いだした。この細身の、自分の肩までしか背丈のない少年が勝負をしろと言っている。 「宗次郎。」 歳三の方があわてている。 「あなたは、阿部様の剣術指南役なのでしょう。まさか、私に見せられぬような腕前では ないはずです。一本、教えていただきます。」 「面白い小僧だ。しかし、剣術は子供の遊びではないぞ。」 武士が、刀の柄に手をかける。歳三の声が飛んだ。 「待った。」 「なんだ。かわるがわる邪魔をするな。」 ちっと舌打ちをして、柄を握った手を止めた。 「あんたも、子供相手に真剣を抜くこたあねえだろう。」 「む。」 歳三は、まわりを囲んだ林の中から手頃な木を探して、自らの脇差で枝を落とし、適当 な長さの棒切れを二本、作った。憎々しいほど落ち着いている。 「俺が、立会人をする。」 歳三は覚悟を決めたらしく、傍らにすっと腰を据えた。宗次郎は、即席の木刀の一本を を武士に差し出した。 「どうぞ。」 あろうことか、宗次郎は、にこっと笑った。 武士は、面食らったようにその木刀を受け取った。宗次郎はすい、とさがり、くるくる と下げ緒を解いてたすきがけをした。袴の股立ちを取り、いっぱしの大人の勝負姿のよう に身構えた。 「お願いします。いざ。」 「む。……いざ。」 双方、木刀を構えて対峙した。武士は大上段。宗次郎は、後年特徴的といわれたやや癖 のある右寄りの平晴眼の構えである。腰に力を据え、足裏は地にぐっと吸いつくようで、 それでいて一瞬に動へ切り替える、天然理心流には後のスポーツ剣道ではない実戦の「人 を斬る剣法」としての凄味がある。たとえ自分が肉を斬られても相手の骨ごと斬る、とい う度胸が何よりも肝心とされた。宗次郎には気負いはない。が、目は鋭い。 武士も、子供と思って侮っていたのが、宗次郎の構えを見て驚いたらしい。容易に打ち 込む隙がないのである。 (おもしれえ。) 歳三は固唾を飲んで、というよりは興味津々で見守っている。 (どうみても互角……いや、宗次郎の方が押しているじゃねえか。) 仮にも、一藩の剣術指南役を自称した男である。その大の男が、十二才の宗次郎の気迫 に押されている。長い間があった。 「きええいっ」 ついに、武士が木刀を振り下ろした。その刹那、宗次郎の体が飛んで、男の懐に入った。 と、男の手から木刀が宙に舞い上がり、宗次郎の切っ先が、あと一寸で男の喉笛を貫ける 位置でぴたりと止まっている。 「………。」 歳三は、思わず口をぽかんと開けた。男の木刀が地に音を立てて落ちるまで、ほんの一 瞬のできごとである。武士も、驚愕して棒立ちになっていたが、やがて表情をゆがめ、 「ふ、不覚……。」 と、苦しげにつぶやいた。 宗次郎は、 「わあ。」 ぱっと白い歯を見せて笑い、 「まぐれです。手加減なさったでしょう?」 と言って、からりと自分の木刀を投げ捨てた。たった今、人の体に肉迫した先鋭な武器が、 途端にまたただの棒切れに戻って、林の中の枝葉に混じった。 「ありがとうございました。それでは、お先に失礼します。」 宗次郎はぺこりと頭を下げ、歳三の方にちょこまかと駆け寄ってきた。 「歳三さん、行きましょう。」 「あ、ああ……。」 宗次郎は、唖然としている歳三の袖を引っ張り、武士の方を振り返って、 「さようなら。」 と、手まで振ってみせた。武士は、狐につままれたように呆然と突っ立っている。 宗次郎は、とっとっ、と武士の姿が見えなくなるところまで急ぎ足で歩き、やっと足を 止めて、ひざに手を置き、はあっ、と前かがみに息を吐いた。 「ああ、よかった……ほっとした。」 「おめえは……驚いた奴だな。」 「歳三さんが悪いんですよ。けしかけるようなことを言うから……。」 宗次郎は口をとがらせて、めっ、とでもにらむような顔をしてみせた。 「しかし、見事だった。」 正直に感嘆した。自分ならああも綺麗に、双方怪我ひとつなく納められたのかわからない。 「本当にまぐれですよ。大人を相手に、あんなにうまくいくはずがないもの。ああ暑い。 汗をかいちゃった。」 宗次郎はごしごしと額をぬぐって、照れくさそうに笑っている。 (こいつ……本当に、とんでもねえ天才か。) 歳三は、先へ行く宗次郎の小さな背中を見ながら、ぶるっと身震いした。しかし宗次郎 はふと子供らしい声に戻って、 「だけど……。」 と、少し歩いてからつぶやいた。 「ん。」 「なんだか、ちょっとがっかりしたな。」 「何が。」 「だって……もし、父が生きていたらあの人が私の師匠だったかもしれないんでしょう。」 「おお。」 「いやだな。」 宗次郎は、こつんと石を蹴った。 「きっと、尊敬できそうもない。私は浪人の家の子で……周助先生に教えていただいて、 よかった。人間、何が幸いするかわからないもんですね。」 「………。生意気だな」 歳三は、にやっと笑った。 「そう真に受けることもねえ。あいつが本当に白河の指南役なんかかどうか、わからねえ よ。話そのものがカタリかもしれねえんだ。でなきゃ、江戸の屋敷で何やらかしてほっぽ り出された道中かもしれねえよ。だから追っ手じゃねえのか、知り合いじゃねえかとあれ ほど気にやんだのさ」 「ひどいな。私に、白河の人だって吹き込んだのは歳三さんですよ。」 「お蔭でいい腕試しが出来たろうよ。」 正直、歳三にとっても予想外の展開だったのだが。あのまま無難に穏便にと頭を下げて しまえば、宗次郎の父や兄を侮蔑されいたずらに少年の心を傷つけたままに終わるところ だった。歳三は神経質なほどに、肩書きだけで上から人を小馬鹿にするような男を許せな い面がある。本当は自ら、どんな手を使ってでも叩きのめすつもりだった。 しかし宗次郎は、緊張と躍動と解放の中で、そんなことを忘れてしまったらしい。 「でも……周助先生に叱られるな。歳三さん、いまの喧嘩のこと、内緒ですよ。」 「勝ったのにか。」 「だって、師匠の許しも得ずに、他流試合をしたんですから。破門になったら困るもの。」 歳三は呆れた。周助なら呵呵大笑して祝杯の一つもあげるだろう。 「古流を守る、か。宗次郎、これからはそう頑固なことも言ってられねえよ。」 「え?」 「周助先生の時代まではそれでいいだろうさ。しかし、勝太さんが流儀を継ぐ頃にゃあ、 今までのようなほそぼそとしたやり方じゃ、他の大きい流儀に食われちまう。もっとあち こちの道場と交わって、若い優れた門人をこっちへ引っ張りこむくらいの気概がねえと駄 目さ。」 天然理心流の良さは、頑固一徹なまでの実戦重視と朴訥な稽古にある。また、多摩とい う強力な支援がそれを良しとしていわば身内意識で後ろを固めてくれている強さがある。 しかし、江戸を始めとしてほうぼうを歩き耳目を広げている歳三からすれば、今の剣術の 潮流がもっと新しく広く門戸を開き成功しつつある事も知っている。若い勝太への世代交 代とともに新風を入れ、発展していかなければやがて先細りになるのではないか。 「そうかなあ。私は、竹刀でぽんぽんと打ち合うような軽い剣術は嫌いだな。」 「俺もそうさ。しかし、勝太さんの名を高めるためには、狭い井戸の中に閉じこもってち ゃいけねえというのさ。江戸の三大流儀があれほど隆盛を極めるのには、やはり人が学ぶ のに優れた点があるはずだ。そういうところを盗むべきだと言っている。」 歳三のいう事にも一理あるのかもしれない、と思いながら、宗次郎はふと、老師の言葉 を思い出していた。 「桜の木……。」 と、つぶやいた。 「桜の木?何だそりゃ。」 「ええ。以前、周助先生がおっしゃってました。勝太先生がまっすぐに伸びる杉の木なら、 歳三さんは、あっちこっちに曲がる松の木で、江戸で流行っている流派は、派手な桜の木 だって。見た目は華やかだけど、木の値打ちは外側じゃわからない、って。」 宗次郎は、天然理心流しかまだ本当には知らない。純粋培養の秘蔵っ子だけに、師の教 えを素直に受け止めている。 「ほう。お前は。」 「え。」 「先生のことだ。お前のことも何の木だとか言ったろう。」 歳三は意地悪く聞き返した。宗次郎は、 「檜……。」 と、言った。 「ちぇっ。」 案の定、歳三は、ちょっとふてくされている。 「……に、なれるかもしれない、とおっしゃっただけですよ。」 「どうも得心がいかねえ。おめえが最上の檜で、俺がそんじょそこらの曲がり松か。」 「松だっていろんな風に当たって、面白くなるんだそうですよ。」 「ふん。」 歳三は、苦い顔をして歩いている。 |
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日野宿の名主佐藤家の広壮な門をくぐり、歳三と宗次郎が着いた時には、目当ての当主 彦五郎は留守で、妻であり歳三の姉のおのぶが出迎えた。 「あら、まあ……珍しい取り合わせ。」 宗次郎が会ったのは試衛館へ入門の時だったが、それ以来に見るおのぶはひと回り肥えた ようである。もっとも、多くの小作や奉公人を使う大名主の妻らしい貫禄ぶとりというと ころで肌にもツヤがあり、老け込んだというのではないが、歳三と四つしか違わないよう には見えなかった。 「沖田さんのところの宗次郎さんでしたね。まあまあ、ずいぶんと大きく……いえ、ご立 派になったこと。ここを出ていった時は、まだ子供らしくてお小さかったのにねえ。」 おのぶのほうも、宗次郎の成長ぶりに驚いたようでころりと笑っている。 「まだ子供には変わりねえさ。」 歳三が口をはさむと、 「何言ってんの。あんたはかわりばえしないけど、宗次郎さんは、ずんと大人びて男らし くおなりですよ。」 と、重ねて誉めてくれた。 「彦五郎は、ちょっと寄り合いで留守にしてますけど、夕方には戻ってきますから、あが ってお茶でもどうぞ。おいしい羊羹がありますよ。」 「有難うございます。でも、どうぞおかまいなく。」 宗次郎が恐縮してぺこりと頭を下げると、おのぶはさもおかしそうに、 「ほんとに、立派になっちゃって。」 「姉さん、俺にも茶をくれ。熱いやつ。」 草鞋を脱ぎながら歳三が催促した。 「まあ、どうだろうね、厚かましい。こないだあたしから借りていった二分、返してから 人並みなことをお言いよ。」 「出世払いだって言ったじゃねえか。」 おのぶは笑いながら行ってしまった。どうやら口の悪いのは血筋かもしれない。 宗次郎一人が客間に待たされて、おのぶの勧めで厚切りの羊羹と茶をいただいてしまっ てから、彦五郎は、日の落ちる前に戻ってきた。これも妻同様に貫禄があり、日頃から剣 術を修め村人にも奨励しているほどの人物だから、こわいほどに気骨に満ちた顔つきをし ている。しかし一方では風流人で、人当たりは誰にも増してやわらかい。宗次郎がかしこ まって正座している部屋へ入るなり、あたたかい声をかけた。 「やあ、お使者どの。お待たせして申し訳ない。」 「いえ。こちらこそ、お邪魔しております。御馳走になりました。」 宗次郎はかしこまって、周助から託された封書を丁寧に差し出した。 「近藤先生からのお文です。ご返事をいただきたいとのことでした。」 「はて、何だろう。では失礼して、この場で拝読しますよ。」 彦五郎は書状を広げて読んだ。やがて、笑みをたたえた。 「なるほど……周助先生らしい。」 「?」 宗次郎は内容を知らないので、黙って待っている。 「宗次郎さん。周助先生がご所望の書物一巻をあなたに渡して返してほしいとの事だ。確 かにご用意しますよ。しかし、あれは私もまだ読んでいるところでしてね。筆写をしてか らお渡ししますから、三日……いや、五日ほど日にちをいただきたいが、よろしいかな。」 彦五郎はゆったりと書面をたたんだが、日々多忙なことは聞き知っている。師匠の周助が 本を借りたいという用件は意外だったが、今日来て今日渡せと言われても断られるのは仕 方のないところであろう。 「五日ですか……。」 宗次郎はちょっと困った顔をしたが、すぐに笑みを浮かべ、 「わかりました。では、戻ってそうお伝えして……五日の間をおいてまたお伺いします。」 と、さっぱりと答えた。ところが、 「なんと、生真面目なお人だ。」 彦五郎が膝を打って笑いだしたのである。 「は?」 「宗次郎さん。遠慮はいらないから、お光姉さんのところへ泊まっておいきなさい。お里 でゆっくりと羽を伸ばしてくるといい。」 「そうはいきません。」 宗次郎はあわてた。師匠が返事を急いでいる以上、出来る限り早くそのことを伝えなけれ ばならない。 彦五郎はさもおかしそうに、 「なんの。この文に、そう書いてあります。」 と、書状を指差した。 「えっ。」 「わかりませんかな。ちょっと遅いが、あなたの藪入りですよ。」 「藪入り……あっ。」 宗次郎もいまは町の子だから、薮入りという言葉は知っている。 「そう。周助先生は、宗次郎さんに里帰りをさせるために、わざわざ用事を言いつけたん ですよ。面と向かって姉さんに甘えてこい、などと言うのはお互いに照れくさいからと書 いてあります。私のほうでは本が用意でき次第でよい、と。」 読書家の彦五郎が、三日もあれば必要な書写が出来る書物を五日と延ばしたのも、周助の 意をくんで多めにとってあげたことなのだ。 「そうでしたか。」 宗次郎は、ぱっと喜色を浮かべた。 「もちろん、この家にいていただいても構いませんよ。道場もあるし、少しは年の近い子 供たちもいる。歳三も、二、三日はいるつもりでしょう。」 と、彦五郎は喜んで広い宅内の居室を与えるつもりでもあることを示したが、 「は、はい。でも……こちらもご迷惑でしょうから、姉の家に泊まります。昼間に稽古を しにまいります。」 彦五郎はうなずいて、 「そうなさい。」 と微笑した。 「はい。ありがとうございます!」 宗次郎は、飛ぶようにして沖田の実家へ戻った。 日野宿でも少し外れた位置にある沖田家まで、走ればさほどの時間ではない。あたりは もう日が暮れなずんで、カヤぶきの屋根は茜色から闇の色に染まりつつあったが、素朴な 竹垣を編んだだけで申し訳程度に庭と敷地外を隔てた中には、簡単な井戸があり、お光が 丹精した小さな野菜の畑や、草花や、これも慎ましい丈の桜や楓の木が変わらずにそこに ある。縁側の敷石の形や、古びた戸口の板目までが何もかも懐かしい。 「姉上!」 宗次郎は土間から上がる寸暇も惜しく、弾んだ声を出した。 「まあ……宗次郎!」 出てきたお光を見て、宗次郎はちょっと面食らった。お光は、昨年子供を生んで眉を剃 り落としている。結婚してお歯黒、出産して青眉に整えるのは女の本元服という証だが、 形の良い眉を見覚えていた宗次郎には一瞬、別人のように見えた。 「あの……ただいま。」 大きな声を立てて戻ってきたのが急に照れ臭くなったように、宗次郎は急いでつけ加えた。 「どうしたのですか。江戸で、何か?」 「いいえ。周助先生のお使いで、彦五郎さんの家へ来たんです。それと、四五日、休みを いただきました。」 「まあ、本当に?」 姉の顔がほころんだ。 「あの……泊まっても、いいですか。」 「当たり前じゃありませんか。」 お光は笑った。実家に戻って何の遠慮があるだろう。宗次郎もほっとして、 「よかった。ああ、これ……おのぶさんからのいただき物です。姉上に料理してもらえっ て。」 思い出して、土間におろした籠を指差した。まだ水の滴りそうな茄子や芋や青菜などの野 菜が一杯に詰められ置いてある。 「え。まあ、ま。」 お光は驚き、 「あなたが、担いできたのですか。」 「はい。重かった。」 それはそうだろう。近い道のりとはいっても、子供の肩に楽な量ではない。 「でも、こんなにたくさん……いただいていいのかしら。」 名主宅からの思わぬ贈り物にお光は面食らった。しかしこれで数日分は確実に食卓にのぼ る品数の足しとして助かる。沖田家に林太郎を婿でもらったが肝心の禄から離されてしま い、浪人となってからは逆に林太郎の親類筋からの援助で暮らしている。それが家付き娘 のお光にとっては大いに有り難くもあり申し訳ないようなところでもあった。 「私も、遠慮したんです。そうしたら、江戸で歳三をおもりしてくれているお礼だから、 持っていけって。」 「おもり?まさか。逆でしょう。」 お光は笑った。 「いやあ、歳三さんはあれで駄々っ子だから。当たらずと言えど遠からず、っていうとこ ろですよ。」 宗次郎は大人たちの口ぶりが知らぬ間にうつっているから、そんなふうに言った。お光は 名主の弟、歳三を勿論見知ってはいるが、宗次郎と日頃どんなふうに接しているのかまで 詳しくは知らない。 「生意気なことを言うようになったものですね。 少したしなめるように言ったのだが、宗次郎はもう安心して、身を乗り出している。 「朝から歩いて、腹がへりました。姉上、焼き茄子でも作って下さい。」 「はいはい。」 その時、奥で赤ん坊の泣き声がする。 「あれっ。」 初めて聞く異質なもののように宗次郎はぴくん、と顔をふりむけた。 「ああ、芳次郎ですよ。」 「そうだった。」 生まれた、とは聞いたものの、勿論周助たち大人が祝い事を送ってくれたのを知るのみで 宗次郎はまだ赤子の顔も見たことがない。奥の障子を開けてみた。赤ん坊が目を覚まして 母を求めて泣いている。お光は入っていって、胸に抱き上げた。手で股のほうを探ってい る。おしめが濡れたらしい。 「あなたの甥ですよ。宗次郎は、叔父さん。」 「私が?」 道場でも老師にからかわれた事だが、姉の口から出た言葉で改めて驚いた。知らぬ間にこ の世に生まれて今泣き声をあげているこの小さなものが、自分の血につながる初めての甥、 だという事に。宗次郎は目下の身内を持ったのは初めてのことである。 お光は笑って、新しいおむつを手早く用意しながら、 「そうですよ。」 「ピンと来ないなあ……。」 「十一しか違わないんですもの。」 芳次郎のおむつをとりかえる。ぱらり、と取り除かれた布から男の子であるしるしがあら われた。宗次郎は感嘆の声をあげた。 「うわあ……ちっちゃいけど、ちゃんとついてる。」 お光が吹き出した。 「あなただって、おんなじでしたよ。」 宗次郎は赤くなった。そうだ、この姉にはこんな頃からありのままを見られて世話をされ てきたのである。 「そうですか。」 「おきんが、同じ事を言ったものですよ。ちっちゃいけど、ついてるって。」 お光は思い出して、くすくす笑っている。その当時はお光もまだ少女だった。おきんは子 供で、宗次郎が赤ん坊だった。当たり前の事だが、月日が流れ、末の弟はこうして大きく 成長し、遠路を歩いて家に戻り、重い荷を担いでこられるほどになって、今度は自分の腹 を痛めた子を珍しげに眺めている。長いようであっという間の推移だったようにも思われ る。 宗次郎は、ふと別の疑問が沸いたらしい。 「なぜ、長男なのに……芳次郎なのですか。芳太郎でよかったのに。」 この子の父の名が林太郎、である。その初子であるから太郎を継いでも不思議ではない。 「そうは行きませんよ。」 「なぜです。」 「だって、沖田の家には宗次郎がいるんですもの。あなたをさしおいて、太郎とつけるわ けにはいきません。」 「私?」 「ええ。父上は、先に養子と決めた林太郎殿に遠慮して、あなたを宗次郎とつけましたけ れど……やはり、沖田の血筋の嫡男はあなたなのですからね。宗次郎が成人して妻を迎え たら、あなたが家名を残していくのです。」 直系男子がいる以上はそちらが優先されるのが本来である。 「私なんか、気にしなくていいのに。」 「いいえ。宗という字は、父上があなたに血筋を伝える意味をこめておつけになったので すよ。」 お光は少し遠い思い出を偲ぶような表情になった。あきらめていた男児が最後に産み落 とされ、父はしみじみと一晩、養子の林太郎と二人で話しながら、この子のゆくすえを考 えてから決めたのである。名前だけは武士とはいえど、継いでも多摩の千人同心や富農の 家ほど楽な暮らしが出来るはずもない沖田家の微録を、嫌な顔ひとつせずお光の夫となる ことも弟妹の養育も覚悟して引き受けてくれた若い林太郎の篤実な人物を、寿命の短い父 はどれほど頼みにし、父の顔も覚えられぬまま別れる息子を思ったことだろう。 「この子に、次郎をつけたのは林太郎殿です。承知の上ですよ。」 お光がそう言うと、 「でも……もし私が大人になって、家を継がなかったら、この赤ん坊が跡継ぎになるので すね。」 宗次郎は、容易ならぬことを悪気もなくさらりと言った。 「めったなことを、言うものではありません。」 「だって……。ひょっとしたら、姉上よりずっと美人の娘に好かれて、ぜひ婿に来てくれ といわれるかもしれないでしょう?そうしたら芳次郎にまかせていけますから安心だ。」 「まあ!」 お光はにらんで見せながら、その時はその時ですよ、と答えた。確かに、宗次郎が成人し た時にどのような才能と方向性が生まれてくるかはわからない。ことに剣術の世界では、 当主の実子が才に恵まれない場合は力量の見込まれる養子を迎えることも珍しくはなかっ た。宗次郎が今後、どのような縁を望まれても、実家の沖田家には血を残す芳次郎がいる。 自分のことはそんなに心配しないで、という慰めがつい冗談となって出たものであろう。 宗次郎が将来を見越していたわけではあるまいが、事実、沖田の家系はお光の子らが残し てゆくこととなる。 夜になって、林太郎が外出から戻ってきた。 「宗次郎!」 「義兄上。お邪魔しております。」 きちんと手をついて頭を下げた。林太郎は相好を崩して、 「いやあ……大きくなったなあ。これはもう、おんぶも出来んな。」 「はは。」 宗次郎は頭を掻いた。弟子入りの前にこの義兄と遊びに出かけて、焼酎を間違って飲んで しまい、眠りこけておぶって帰ってもらった事がある。人の背におんぶをしたのは、あれ が最後であった。ゆらゆらと温かくて、気持ちよかった。今となっては照れ臭い。 「どうだ、試衛館は。」 林太郎は、両こぶしを前に重ねて、剣を握る手まねをした。 「はい。楽しくやっています。」 「楽しい、か。好きこそ物の上手なれと言うからな。強くなったか。」 「さあ……自分ではわかりません。」 義兄のほうが剣歴は長い。はい強くなりました、といえるほど宗次郎は天狗ではない。 「では、明日にでも一緒に稽古をしようか。」 「はい。彦五郎さんの道場にお伺いしようと思っています。」 林太郎は笑った。 「たまの休みにも怠けないところをみると、本当に好きらしい。お前が試衛館の塾頭にで もなったら、芳次郎の手ほどきをしてもらうかな。」 ニコニコしている。宗次郎は内弟子といっても明らかに最年少だ。 「そんなの……いつになるかわかりませんよ。」 想像もつかなかった。 「いや。案外早いかもしれんぞ。」 林太郎は首を振った。 「周助先生も還暦を越しておられる。あと十年もしないうちに勝太さんが襲名して、次の ご当主になるだろう。そうすりゃ、塾頭には気心の知れた若い者を置きたくなるだろう。 となれば、内弟子の宗次郎が最適じゃないか。」 「でも。」 「一流儀の塾頭ともなれば、好きな道で食っていけるわけだ。そうしたら、早いところ可 愛い嫁さんでももらわなくちゃな。」 「冗談……」 「でもないぞ。そうしたらやはり、江戸に家を持つことになるだろう。沖田家は代々江戸 住みだったのだし、将来に道場を持つとしてもその方がいい。何といっても江戸だ。うむ、 最初は小さくても良い。いい嫁さんをもらって強い子をもうけてだな。いずれは千葉道場 にも負けぬ門弟三千、天然理心流に沖田先生ありというんで諸国から入門希望が押し寄せ てくる。その頃にはもう、わしとお光は楽隠居だな。」 「いやだなあ義兄上まで。そういうの、とらぬ狸の皮算用っていうんですよ。」 宗次郎が勘弁してくれ、という顔をすると、林太郎も笑い出した。 |