第 3 回

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序 章   若  気

                                       1  ▼
(三)

─── 女中部屋。おなみが泣きじゃくっている。

おなみ  ひどい。ひどい……。
女中1  まあまあ、おなみちゃん。よかったじゃないか、あんな男にひっかからなくて
     さあ。
女中2  そうさ。嫁入り前のあんたまで、おもちゃにされたら大変なとこだったよ。
おなみ  あたし、あたし……厠に立って、歳三さんの部屋の方をじっと見ていたんです
     よ。ひょっと、あの人も用足しに来やしないかと思って………そうしたら、本
     当に出てきて……こっそりと納戸に入っていくじゃありませんか。
女中1  うんうん。
おなみ  それで、二人きりで話ができる、と思って……納戸の前に行ったら、女の、お
     藤さんの声が、いえ、声なんてもんじゃない。いやらしい、ため息みたいなの
     が……。あんまりですよう。
─── おなみ、おいおい泣いている。


─── 奥の部屋。番頭、手代、それに歳三、お藤。
番頭   二人とも、私の言いたいことはわかっているな。
歳三   ………。
手代   歳三っ。あれほど、固く言ったじゃねえか。俺の顔をつぶすような真似しやが
     って。
番頭   まあまあ、幸吉。……で、どちらから誘った。
歳三   俺です。
番頭   ……本当とは思えんな。お藤、お前はこれで二度目だが、覚悟はできているん
     だろうね。
お藤   ………。
─── お藤、真っ青になって震えている。
番頭   音次の時は、むこうが勝手にお前に入れあげて、手ごめにしようとしたという
     言い分を聞いたが、今度は現場を抑えたのだ。まさか言い訳はするまいね。
お藤   ………。
手代   何とか言え、この盗っ人あまめ。
歳三   お藤さんは悪くありませんっ。俺が……俺が無理に誘ったんです。
番頭   女をかばうなんざ、坊やにしちゃあできた心掛けだ。だが、お前のやったこと
     はほめられないよ。
歳三   嘘じゃありません。
                                     いとま
番頭   旦那様は大層お怒りで、ふしだらな者の顔は見たくないとおっしゃる。暇乞い
     は無用にしておくれ。
お藤   ふしだらなんて、あんまりです。
番頭   お藤。この歳三はな、ご贔屓筋のつてを通して、くれぐれもと頼まれた大事な
     預かり物だ。先のある若者をたぶらかして、お前の罪は重いぞ。
お藤   たぶらかしたなんて、そんなことはございません。あたしは、あたしは行く末
     歳三さんと、所帯を持つまで待つつもりでおりました。
番頭   ほほう。(苦笑する)こんなひよっ子が、女房を持てるようになるまで何年か
     かると思う。お前さん、年はいくつだね。
お藤   番頭さんっ。
番頭   世迷い言もたいがいにするがいい。歳三が三十で家を持てたとして、お前はも
     う四十女じゃないか。子供だって生めやしない。
歳三   し、失礼なことを言うなっ。
番頭   失礼とは恐れ入った。店の中で、あるじや他の奉公人の目を盗んでこそこそと
     乳繰り合っているほど失礼な話があるかね。お武家様のお屋敷なら、お手討ち
     にされても文句は言えませんよ。
歳三   ………。(ぐっとつまる)
─── お藤、意を決したように顔をきっと上げ、
お藤   あたしは、……あたしは本気でした。あたしは今、歳三さんの子を、身ごもっ
     ております。
手代   ええっ。
─── 男三人、驚いている。
手代   と、歳。本当か。
歳三   し……知らねえ。
番頭   お藤、嘘を言うな。嘘を。
お藤   うそじゃありません。ついこの間、つわりが始まったばかり……。歳三さんに
     は、まだ打ち明けておりませんでした。あたしは……じきにお暇をいただいて
     一人で生むつもりでおりました。若い歳三さんに迷惑をかけちゃいけない。も
     しこの子が生まれて、歳三さんが一緒になろうと言ってくれるのなら、この人
     の年季が明けるまで親子で待とう、いやだと言うなら、一人で働いて育てるつ
     もりでおりました。
─── お藤、わっと泣きふす。歳三、呆然としている。
手代   そりゃあ、無茶な話だ。十七、八で父親なんて……。
                はら
番頭    とんでもない。この上、孕んでるだなんて……あんた。一年目の小僧が子供を
     生ませるなんて話は、聞いたことがありませんよ。
─── 番頭、怒り心頭といった顔で立ち上がる。
番頭   もう、面倒はたくさんだ。二人とも、早々に出ていっておくれ。


─── その日のうちに、歳三とお藤はわずかな荷物を持って店を追い出された。と、い
   っても別々である。お藤は長屋の大家が来て、歳三は急なことで郷里への使いが間
   に合わぬというので、同じ江戸市中の近藤周助が引き取りに来ている。裏口から出
   される時、おなみが汚らわしいものでも見るような目でこちらを見ていた。



                                    2 ▼ ▲

─── 牛込柳町、試衛館道場。奥の一室。歳三、出された飯に手もつけず座っている。
周助   ゆうべ、寝てねえんだろ。飯を食ったら布団をしいてやるよ。
歳三   ………。
周助   勝太には何も言ってねえ。あいつは小野路へ行って、留守だ。
─── 歳三、あっと嬉しそうな顔をする。周助にもそうだが、勝太に知られるのはさら
   に恥ずかしい。
周助   しかし……
(くっくっと笑い出す)お前さんも、やるねえ。
歳三   ………。
周助   どうせ長くはもつまいと思ったが、まさか……(笑いが止まらない)女と出来
     て、やめさせられるたあ一人前だぁ。はっはっはっ。しかも、腹に子ができた
     ってえ、すげえおまけつきだ。
歳三   先生。
周助   俺がどうがんばってもできなかったものを、こんな子供がねえ。
─── 周助、しばらく大笑いを続けている。が、ぴたりと真顔になって、
周助   馬鹿もん。素人女に手え出すなんざ、十年早いわ。
歳三   だって。
周助   だってもへちまもあるか。そういうおとなしそうなのが、一番恐ろしいのさ。
     お前さんなんざ、修業が足りねえよ。
歳三   俺だって、……本気だったんだ。
周助   馬鹿言え。十七やそこらで本気になったつもりでいちゃ、たまるもんかい。世
     の中、女はくさるほどいるっていうのによ。
歳三   お藤が、かわいそうだ。
─── 歳三、しゅんとなっている。
周助   女の方は、俺が話をしてきてやる。
歳三   え……。
周助   なあに、慣れたもんさ。
(笑う)しかしおめえ、喜六のほうは俺が言ったって
     とてもおさまらねえぞ。覚悟しておきなよ。



                                    3 ▼ ▲

─── 周助、平川町の、お藤の長屋を訪ねる。
周助   ごめんよ。お藤さんってなあ、いるかい。
お藤   なんですよ、急に……。
─── 今まで床についていたらしい。ちょっと髪のほつれを直して、お藤が出てきた。
周助   (ほう、こりゃあ、いい女だ。)
─── けだるそうに長半天をひっかけたお藤は、からだつきも女盛りのなだらかさを示
   して、周助などが見てもふるいつきたくなるような色気がある。
周助   (何も、あんな子供なんざ相手にしなくてもよさそうなもんだ。)
─── 周助は、歳三の親類のものだと言って中へ入り、女が茶の支度をしている間に部
   屋の中を見渡した。
周助   おっかさんがいなさると聞いたが……
お藤   妹夫婦のところへ行ったきり、帰ってきやしませんよ。孫の世話が忙しいとか
     言って。
周助   ほう。
お藤   出戻りの娘なんざ、可愛くもないんでしょ。なんか、ご用ですか。
周助   は……。
─── 周助、茶を飲む。
周助   (案外、気の強い女だな。)
お藤   お大尽の大事なお坊っちゃまに傷をつけたって、文句のひとつも言いにいらし
     たんじゃないんですか。
周助   いや……。歳三のやつが、あんたに大分、可愛がってもらったそうで。
お藤   いやな言い方。それじゃあたしが、歳さんを誘ったみたいじゃありませんか。
周助   違うのかい。
お藤   熱を上げたのは、あの人のほうですよ。あたしは、何度も別れた方がいいって
     言ったんだから。
周助   (おやおや……)
お藤   歳さんも、若いから辛抱がきかなくってね。あたしもつい、情にほだされちゃ
     って……。
(しんみりと)こっちも独り身の、寂しい身の上ですからね。
周助   (この、女狐め。)
─── 周助は、ごくりと茶を飲み干した。間合いをはかっている。
周助   お藤さん。あんた、子供はもういいだろう。
お藤   え……。
周助   今さら、苦労して一人増やさなくってもさ。平次と、おみよっていう可愛いの
     がいるじゃねえか。
お藤   ………。
─── お藤は、真っ青になった。
お藤   調べたんですか。
周助   歳三が嫁にしてえって女だもの。身元くらいは調べさせてもらうさ。
お藤   ……あたしを、脅かす気ですか。
周助   あんたが、どうして前の亭主のところに、幼い子供を置いて出てきたか。それ
     も聞かせてもらったよ。まあ、しかたがねえなあ。
お藤   ………。
周助   お藤さん。男好きはけっこうだが、てめえのケツも拭けねえような、年端のい
     かねえ子供をいたぶるのはおよし。もっと、わけのわかった懐の大きなのをさ
     がすんだね。あんたなら、まだまだいけるさ。
お藤   いたぶるなんて……そんな。あたしは、歳さんとのことは本気でした。そりゃ
     あ、あたしは男でしくじってます。若い娘でもない。まわりがどう思うかはわ
     かっていたけど……そんなこと、どうでもいい。あたしは、あの人が好きだっ
     た。いいえ、今でも好きです。それは嘘じゃありません。本当にあの人が可愛
     くて、こんなあたしを、好いてくれたのが嬉しくって……今度こそ、本当に幸
     せになろうと思ったんです。あの人となら……今度こそ、幸せになれるかもし
     れない、と思ったんです。それがいけないとおっしゃるんですか。あたしがそ
     んなことを望んだらいけないっていうんですか。
─── お藤、泣く。
周助   (よせやい。……俺にはその手はきかねえよ。)
お藤   ……あたしだって、もう自分の幸せを考えても、いいじゃありませんか。ね、
     そうでしょう。
周助   馬鹿だねえ。あんた、幸せになろうったって、そううまくはいかないよ。歳三
     は、今度のことで勘当になるよ。
お藤   え……。
周助   何しろ、いわば部屋住みの厄介者だからね。親はとうに死んで、兄貴夫婦が飯
     を食わせてやっていたわけだが、喧嘩っ早くてさんざん手こずらせてきたんだ
     から。二度も奉公をしくじって、ああよしよし、と迎えてくれるわけがねえ。
     あんたとの所帯を持つんだって、あのけちな兄貴が、びた一文出すはずがねえ
     よ。大百姓で構えは立派だが、内実は火の車だってんだからね。あいつの実家
     はもう頼りにはできないよ。
お藤   ………。
周助   手に職もねえ二十歳前の男が、一人でおっぽり出されて、どうやってあんたと
     子供を食わせてくれると思うんだね。それに、なあ……あんたもわかってると
     思うが、歳は別に、女はあんたが初めてじゃないよ。今に多摩の田舎のほうか
     ら、夫婦約束をしたって娘の二、三人は怒鳴り込んでくるよ。
お藤   嘘でしょう。
周助   嘘かどうか、今にわかるさ。とてもあんた一人でおとなしくしているような男
     にはおさまるまいよ。げんにあの店でだって、おなみという娘ともできていた
     んだぜ。
お藤   えっ。
周助   あんたら二人を手代にさしたのは、おなみだよ。歳三がいつまでもあんたと切
     れねえんで、嫌になった。いっそ二人とも目茶苦茶になりゃあいいってんだか
     ら。あんたにも覚えがあるだろうが、女の嫉妬ってのは、こわいねえ。
お藤   ……やっぱり、あの娘が……。
─── お藤、わなわなと震えている。
周助   まあ、俺も無慈悲なことは言いたくねえ。赤ん坊に泣きわめかれて、おむつを
     取り替え、乳をやりながら好いた男を待つか、女ひとりで身ぎれいにさばさば
     とやり直すか、そりゃああんた次第だが……。ま、若い男の根気なんざ、あま
     りあてにしねえほうがいいよ。
お藤   ………。
周助   まあ、あんたがどうしても、って言うんなら、俺ア歳三の首根っこをひっつか
     んで、祝言だけはあげさせてやってもいいがね。後のこたあ知らないよ。
─── 周助、包みを取り出し、畳の上に置く。
周助   とりあえず、何かと物入りだろうから、使っておくれ。
お藤   ……手切れのつもりですか。
周助   さあね。あんたが考えることだ。
─── 周助が家を出ると、お藤の泣き声が聞こえた。
周助   (へ、狐と狸のばかしあいさ。)
─── 周助の言ったことは、嘘半分、本当半分である。頭ごなしに「切れろ」と言って
   も、女は意地になって承知しないだろう。もちろん、周助は歳三に所帯を持たせる
   気などは、さらさらない。
周助   (遊びも仕事もこれからだってえ時にコブつきになるなんざ、勿体なくて涙が
     でらあ。)



                                     4 ▼ ▲

─── 試衛館。周助、歳三を呼んでいる。
周助   とりあえず、会ってはきたが、あれァとてもとても、お前なんぞの手に負える
     タマじゃねえなあ。
歳三   ……お藤は、なんて。
周助   本当に孕んでいるかどうかも、あやしいもんだぜ。是が非でも生む、とは一言
     も言わなかった。
歳三   まさか。
周助   おめえも、青いなあ。いざお前をものにしたら、子供は流れた、とでも言って
     けろりと二人暮らしを楽しもうとするかもしれねえよ。
歳三   馬鹿な。
周助   馬鹿なもんか。俺ァ女のその手で、ひでえ目にあったことがある。
─── 周助、苦笑している。
歳三   お藤が……そんな悪どい嘘をつくもんか。
周助   ふん。じゃあお前、あの女が二人の子持ちだって、知っていたかい。
歳三   えっ。
周助   言うわけがねえ。年までサバよんでたくらいだからな。あれはもう二十八で、
     前の亭主の所に、九つと六つの子供を置いてきているよ。
歳三   ………。
周助   しかも、男を作っておんだされたのさ。
歳三   嘘だ。亭主のほうが女遊びでひどい目に合わせたって言っていた。お藤が働い
     ている間に女を連れ込んで、しまいには酔って殴るようになって、家に帰れな
     くなったって。泣かされたのはお藤のほうだ。
周助   すっかり、目が曇っちまってるなあ。俺ァこの三日かかって調べたってえのに
     よ。嘘だと思うんなら、鍛冶町の新太郎って男に聞いてみな。そいつがお藤の
     前の亭主だから。確かに新しい嬶ァをもらっちゃいるが、そいつらがどんな苦
     労をしてあの女の子供を食わせているか、見てくりゃあいい。それから上野の
     「あけぼの」ってえ料理屋だ。お藤が仲居づとめをしていて、女房持ちの板前
     と浮気した時の面白い話が聞けらあ。お藤はな、亭主に離縁してもらえねえう
     ちに、勝手に独り暮らしを始めて、二年もの間その板前をひっぱりこんでいた
     っていうぜ。しかも、相手の男が女房となかなか別れねえのに腹を立てて、て
     めえからそいつの女房にぶちまけたそうだ。そりゃあもう、殺すの殺さねえの
     って大騒ぎになったそうだぜ。え、どうだい。お藤はそんな大ごとを、ひとこ
     とでもお前に言ったかい。
歳三   ………。
─── 歳三、呆然としている。
周助   その曇ったまなこで、でれーっと女の顔をながめて暮らしてえっていうんなら
     俺ァ、止めないよ。その代わり、あれでも母親だ。養ってくれる男ができたっ
     てんで、子供を取り返すかもしれねえよ。しばらくして「ほーら、新しいお父
     っつぁんだよ」なんて言ってさ。他人のガキまでしょわされて、二十歳にもな
     らねえ前に三人、四人の子持ちにされてしょぼくれたって、知らんぞ。食うや
     食わずの長屋暮らしでさ、外にゃ若くて可愛い娘がケツふって歩いてんのを、
     じっと指をくわえて見てるんだ。ああ、ばかばかしい。
───歳三、膝の上をつかんでうつむいている。
周助   歳。おめえがそれでもおとなしく、こじんまりとした幸せで満足していられる
     ような男なら、それでもいい。俺から見りゃお藤なんざいけ好かない女だが、
     あの女が言うように、過去にしくじっていようが、誰がどう思おうが、今度こ
     そは幸せになりてえ、してもらいてえって願いがさ、それすらも嘘だとか、い
     けねえって言うんじゃないよ。しかし、お前はきっと、そんな小っちゃい箱に
     はおさまらねえ男だよ。無理にはめても、きっと歪みが出る。俺には見えるの
     さ。いざ一緒になってみた時の、どうしようもねえ白けた顔のお前が。こんな
     はずじゃなかった、俺の一生は、こんなもんで終わるはずじゃなかった。この
     女のために、俺は男の一生を、台無しにしちまった……そんな風にいらいらし
     て、胸がつっかえたように荒れていくお前の顔がさ。あげくの果てには、酒だ
     女だ、博打に喧嘩だ。それに女ってものは、所帯を持つってえと必ずずぶとく
     なるもんだよ。お藤だってそのうち、まだお前には見せたことのねえ、恐ろし
     い棘も角も、出てくるさ。
歳三   ………。
周助   お前、本当にお藤に惚れ抜いて、添い遂げようなんて殊勝な気持ちがあるのか
     い。この先、そういう生き方がしたいのかい。大体、お前なんざ、まだ男とし
     て何ひとつなしとげちゃいねえ若造じゃねえか。え?それなのに何だ、その、
     死んだ魚みてえなどろんとした目はよ。女の色香に毒された体はよ。何だって
     いうんだ。
歳三   
(かっとして)先生っ。
周助   勝太を見ろ。悔しけりゃ、あいつの顔を正面から見てみろ。お前が馬鹿にした
     田舎の棒振り剣客が、どんなに若いきらきらした目をしているか、かっかっと
     燃える心身をしているか、今のお前が、まっすぐに見られるか。
歳三   ………。
周助   明日は勝太が戻ってくるぞ。何も知らず、汗だくで剣の稽古に精進している友
     達に対して、どう顔向けするつもりだ。
歳三   ………。
(泣きそうな顔をしている)
周助   頭を冷やしな。歳。
(やさしく)……な、まだ若えんだ。誰にだって早とちり
     やしくじりはある。今なら、まだ間に合うんだ。
歳三   先生。もし……
周助   ん?
歳三   もしも、お藤が本当に子供を生んだら、どうします。
周助   そん時は、しょうがねえ。俺がもらってやるよ。この家に、勝太のきょうだい
     がいたっていいだろう。
歳三   先生……そこまで、考えていたのか。
周助   おお、いやだいやだ。人の色事の後始末なんざ、柄でもねえ。歳、お前はきっ
     とこの俺に女の事で説教くらった最初で最後の奴だよ。は、は、は。



                                     5 ▼ ▲

─── 翌日、喜六とおのぶが日野宿から飛んで来た。喜六の妻は、絶対にいやだと言っ
   て怒ったために、おのぶが代わりに来たらしい。

喜六   歳のやつぁ、どこですっ。
─── 喜六は青筋を立てている。周助は笑って、
周助   まあ、まあ。ここにはいねえよ。今、俺の知り合いの寺で座禅を組んでいる。
     ひょっとしたら、頭を丸めて帰ってくるかな。ははは。
─── 周助、いきり立っている喜六に、歳三に会わせるのを避けたのである。


─── 周助の居間。喜六とおのぶが手をついている。
喜六   近藤先生。このたびは、とんだご迷惑をおかけして、申し訳のしようもござい
     ません。
おのぶ  本当に……お世話になって。
周助   いや、なあに。若いから、しかたがねえ。俺にも覚えのあることさ。
喜六   あの、馬鹿。絞め殺してやる。
おのぶ  兄さん。
喜六   真っ先に、お店のほうへ伺ったんですがね。中へ入れてももらえませんでした
     よ。しょうがねえから、貸し座敷に番頭、手代を呼んでさんざん、詫びを言い
     ましたがね。いやもう……。
周助   そりゃ、大変だったの。
喜六   俺ァもう、情けなくて……こっぱずかしくて……。
─── 喜六、涙声になっている。
おのぶ  でも、まあ。済んだんだから、いいじゃないの。
喜六   ばかっ。
周助   (ぷっ。)
─── 周助、吹き出しそうになる。


─── 周助、玄関まで喜六とおのぶを送り出す。
喜六   近藤先生。歳のやつ、必ず家へ帰して下さいよ。
周助   うむ。本当に宿屋に泊まるのか。
おのぶ  ……ええ。せっかく江戸へ出てきたんですからね。明日ゆっくり、お土産でも
     買って帰りますよ。
周助   はっはっは。えらい姉様じゃ。


─── 数日後、歳三は禅寺から試衛館に帰ろうとして、こっそりとお藤の長屋へ寄って
   いる。
歳三   (どうかして、もう一度話をしてえ。)
─── 店を出される時、目をうるませて歳三をふり返ったお藤の痛々しい姿が、まだ脳
   裏に残っている。あの女が周助の言うような嘘つきとは、とても信じられない。
歳三   (お藤……。)
─── 突然に断たれた情事だけあって、お藤の、年上のくせに甘えたような囁き声や、
   湿った肌の記憶が生々しくよみがえり、歳三を悩ませた。座禅の最中、何度肩を打
   たれたかわからない。
お藤   (回想)歳さん……好き、好きよ……。
─── 歳三、路地に隠れていたが、はっとして一軒の戸を見つめた。ガタン、と音がし
   て、中から女が姿を見せたのである。
歳三   (お藤。)
─── 女は動くのも大儀そうにゆっくりした動作で、米の研ぎ汁を朝顔の鉢に捨ててい
   る。歳三は身じろぎもできずに見つめている。息がつまるようで、声をかけること
   もできない。ややあって、長屋の中から母親の声が聞こえてきた。
母親(声)何をのろのろしているんだい。そんなことくらい、さっさとおしよ。
お藤   そううるさく言わないでよ。体が辛いんだから、しょうがないじゃないの。
母親(声)何が辛いだよ。みんなてめえのせいじゃないか。この、性悪あま。
お藤   やめてよ、みっともない!
母親(声)みっともないのはどっちだよ、いい年して。あたしゃもう大家の顔が見られな
     いよ。
お藤   やめてったら。
─── お藤、中へ入り、ぴしゃりと戸を閉める。なおもしばらく言い争う声が聞こえて
   来る。
歳三   ………。
─── 歳三、呆然と突っ立っている。きっとなって母親へふり返った時の、お藤のいく
   ぶんやつれた横顔が、それまでに見たこともない女の一面を表していた。
歳三   ………。
─── しばらくすると中からお藤の泣き声が聞こえてきた。母親に責められたらしい。
   歳三はふらふら、と戸口の方へ足を踏み出したが、やがて何を思ったか、いっさん
   にもと来たほうへ駆けだした。


─── 歳三は日の暮れた町を歩いて、柳町の試衛館に戻って来た。と、途中の坂道で勝
   太が手を振って立っている。
勝太   おーい、歳さーん。
歳三   ……勝っちゃん。
─── 勝太は坂道を駆け降り、にこにこしながら寄ってきた。
勝太   お帰り。きょうは戻って来るというのでな、遅いんで見にきた。
歳三   ………。
勝太   聞いたよ。奉公先で番頭をぶんなぐって、やめてきたんだってな。
歳三   え……。
勝太   歳さんらしいや。ははは。おかげでお寺にこもって、みそぎをさせられたんだ
     ってなあ。歳さんの喧嘩好きに、きくのかな。
─── 勝太、愉快そうに笑っている。周助は本当の理由を教えていないらしい。
勝太   腹が減ったろう。早く晩飯を食おう。
歳三   ああ……。
勝太   そうくよくよするなよ。俺もまた、日野へ行く。その時一緒に帰りゃいい。
歳三   おめえが?
勝太   ああ。先生がな、歳のやつ、喜六がおっかなくって帰りづらいだろう。途中で
     ずらかるといけねえから、石田村まで送り届けろってさ。
歳三   ………。
─── 歳三、思わず顔をしかめる。


─── 後日。歳三と勝太、試衛館を発つ。周助はにやにや笑って、
周助   歳。こんどの事は、貸しておくぞ。
歳三   ……はい。
─── 歳三、頭を下げる。歩きだしてしばらく、
歳三   勝っちゃん。
勝太   ん?
歳三   俺ァ、用事を思い出した。寄らなきゃならねえところがある。
勝太   用事?どこだ。
歳三   平川町だ。
勝太   平川町?なんでまた………
歳三   頼む。俺ァこんどはしばらく、江戸へは戻れねえ。こればっかりは、済まして
     おかなきゃならねえ大事なことなんだ。あんたがついて来て、見張っていたっ
     ていい、逃げ出したりはしねえ。
勝太   そりゃあ……いいけどさ。
─── 勝太、笑ってうなずく。


─── 歳三、無言のままお藤の長屋へ急ぐ。
歳三   (俺は、卑怯者だ。大人たちに尻ぬぐいをさせたまま、あんな風に、お藤から
     逃げ出すなんざ、ガキだった。)
─── 勝太が、わけのわからぬままついてくる。
歳三   (お藤に会おう。なじられたって、泣かれたって構いやしねえ。あんたとの事
     は終わりにしてえと、はっきり言おう。)


─── お藤の長屋にほど近い街角。歳三、悲壮な顔をして勝太を振り返る。

歳三   勝っちゃん。ここで、待っててくれ。
勝太   いいよ。
─── 歳三はいつか見た長屋の戸口に立った。叩いたが、中はしんとして、物音がしな
   い。
歳三   お藤さん、俺だ。歳三だ。
─── がらりと開けてみた。
歳三   ………。
─── いない。もぬけのからである。
歳三   お藤……。
─── その時、隣家の女房が、うさん臭そうな顔をして出て来た。
女    
(大声で)お藤さんのところなら、いないよ。引っ越したよ。
歳三   ど、どこへ。
女    さあ、知らないねえ。なんでも、奉公先で不始末をしでかしてさ、大家の手前
     いづらくなったらしいよ。婆さんと二人でさ、挨拶もせずに逃げ出したよ。
歳三   不始末……。
女    へ、へ。同じ店の男と出来て、はらんじまったんだってさ。よくやるよ。
─── 近所の家でも、女房たちが顔をのぞかせて、くすくす笑いあっている。
歳三   腹に……子供を抱えて出て行ったのか。
女    さあねえ。何日か寝込んでたみたいだから、堕ろしたのかもしれないよ。
歳三   堕ろした……。
女    もともと生む気なんかなかったんじゃないの。前に二人も捨てて来てるんだか
     らさ。あれは男狂いだから、また新しいカモを見つけに行ったんだろ。
─── 女たち、あけすけに笑う。
女    あんたも、騙された口かい。気をつけなよ、ああいう女はこわいから。
─── 女たちの声、大きくなる。口々に、「あんたならこっちがお願いするよう」「い
   やだよ、まだ子供だよ」などという言葉が飛び交っている。
歳三   ………。
─── 歳三、こぶしを握りしめ、やっと長屋を後にする。勝太が待っていて、
勝太   なんだ。もう済んだのかい。
歳三   ああ……。
勝太   用事は。
歳三   いいんだ。ちょっと、遅かったよ。
勝太   え?
歳三   いや、なんでもねえんだ。
─── 歳三、ふいと歩きだす。
歳三   (今度は……あんたが逃げ出したのか。)
─── あの長屋で、冷たい目で見られていたお藤を思うと、胸が痛んだ。悔恨で思わず
   涙が出そうになった。


─── 日盛りになった。歳三と勝太、多摩への路を歩いている。
勝太   なあ、歳さん。
歳三   え?
勝太   今度こそ、撃剣をやりなよ。周助先生もそう言ってたぜ。
歳三   ………。
勝太   馬鹿みてえに、汗かいて棒っきれふり回してるのも、悪くないよ。弱いものを
     いじめてみたって、つまらんじゃないか。
歳三   弱いもの?
勝太   あそこの番頭さ。
歳三   ああ……。
勝太   いいぞう、剣は。
─── 勝太、木刀をびゅっ、と振り下ろす。
歳三   ああ。そうだな。
勝太   そのうち、試衛館に内弟子が入るんだ。
歳三   内弟子……。
勝太   まだ九つだか十だが、おっそろしく筋のいい子だとよ。おめえも負けていらん
     ねえよ。
歳三   名前は。
勝太   沖田、宗次郎。


─── 家に戻った歳三は、喜六にぶん殴られ、烈火のごとく怒られたのは間違いない。
   その後は家業の薬売りを手伝いつつ、剣の修業を始めている。ようやく打ち込める
   ものが見つかったのだろう。めきめきと強くなった。さらに十年の月日が流れ、女
   の修業も相当につんだらしく、苦み走ったいい男になっている。その頃、近藤周助
   は隠居して周斎、勝太は天然理心流宗家・近藤勇と名を改め妻子をもうけている。
   ある日、歳三が薬売りの格好で、試衛館に来ている。周斎が縁側でひなたぼっこを
   しながら、歳三の差し出す薬を飲んでいる。奥で赤ん坊の声がする。
周斎   俺も、とうとうジジイになったなあ……。孫ができるようじゃ、もうおしめえ
     だよ。
歳三   跡取りができて、万々歳じゃありませんか。勇さんが、ご隠居はお瓊ちゃんが
                        
こうこうや
     可愛くってしょうがねえらしい、すっかり好々爺だと言っていましたぜ。
周斎   馬鹿言え。まだ珍しいだけさ。
─── 周斎、まずそうに薬を飲みおえ、ふと思い出し笑いをしている。
周斎   ……あん時のガキ、生ませてみりゃあよかったなあ。
歳三   え?
周斎   お前が、大伝馬町の納戸の隅で仕込んだ子だよ。
歳三   う……。
─── 歳三、苦い顔をする。
周斎   あれ以来、その手の話で泣きついてこねえところを見ると、よっぽどうまく遊
     んでやがるらしいな。
歳三   その話は……よして下さいよ。
周斎   うふっ。
─── 周斎、いたずらっぽく笑っている。憎々しく育った歳三だが、いまだに少年の頃
   の話をすると、照れくさそうにするのが可愛いのだ。
周斎   お前には黙っていたけどな。俺は、五年前にあの女をひょいと見かけたぜ。
歳三   えっ。
周斎   根性のある女だよ。うまいことどっかの女房か妾におさまったらしく、すっか
     りいいなりをして女中を連れて歩いていたぜ。ちょっと太ってな。
歳三   へえ……。
周斎   へえ、ってそれだけかい。
(笑う)あんなにオロオロして、のぼせあがってい
     たくせによ。
歳三   ……俺が、子供だったんですよ。
周斎   あれは、面白かったなあ……。勇の奴は、浮いた話の一つもなくてつまらねえ
     よ。
歳三   
(苦笑)面白がってたのは、先生と石翠兄貴だけだ。
周斎   歳よ。また一つ、なんか派手なもめごとでもこさえてくれよ。そうしたら、俺
     がばっさりと片づけてやるからさ。
歳三   ははは……。あいにく、あれほど面倒くさい女には、その後関わってませんの
     でね。
周斎   それはいけねえなあ。女なんてのは、面倒くさいのほど、可愛いもんだぜ。
歳三   また面倒くさいのが出て来たら、先生にお願いしますよ。
周斎   いいとも。まかしとけ。
─── もちろん、お互いに承知の、言葉の遊びである。周斎は年を取ってめっきり弱く
   なっているし、歳三は師匠の手助けなど必要のない、いっぱしの食えない男になっ
   ている。二人とも、そんなやりとりが嬉しいのだ。


─── 沖田宗次郎(のちの総司)が、周斎と茶飲み話の最中。
沖田   聞いた話ですが……
周斎   うん?
沖田   土方さんは、相当ませていたそうですね。なんでも、十七の時に奉公に出て、
     年上の女のひととその……
周斎   うん。……できて、クビになった。
沖田   でもその後、自分一人で女のところへ行って、きっぱりと別れ話をつけてきた
     というじゃないですか。すごいなあ。
周斎   ほ。
─── 周斎、目を見開く。
沖田   女のほうも、「わかりました。あなたはまだまだ、男として先のあるお方です
     から」と土方さんの将来を案じて、子供をおろしてどこかへ身を隠したそうで
     すね。……かわいそうだな。
周斎   ほ、ほ、ほ。
─── 周斎、大笑いをしている。
沖田   何がおかしいんです。悲恋物語じゃありませんか。
周斎   そ、そういうことにしておけ。わっはっはっは。
─── 周斎、おかしくてたまらないというふうに、笑い声を響かせている。





               
序章「若気」 了
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