清河八郎
きよかわ はちろう

尊皇攘夷思想家
 
文政13年10月10日、出羽庄内清川村の酒造りで大庄屋格の斎藤豪寿の子として生まれる。
 
教育熱心な祖父昌義は、孫の八郎につき「この子、大芳を遺さずんば、必ず大臭を遺さん」
 
と評していたという。初めは斎藤元司と名乗っていたが、一家を起こして清河八郎と称した。
 
生地清川の「川」では小さいと「河」の大きさを採ったといい、八郎の大望が現れている。
 
14歳で庄内藩給人畑田維憲について学問の眼を開き、論語、孟子をはじめ、易経、詩経、
 
文選にまで達し、我が物にする様は、あたかも砂地が水を吸収する如くであったという。
 
弘化4年、18歳で江戸に出て古学の東条一堂に入門し、たちまち一堂門の三傑の一人とな
 
る。ついで朱子学の安積良斎塾に転じ、さらに最高峰の昌平黌へも入る。この時は既に、
 
習学よりも広く天下に同志を求めるのが目的だったという。一方で北辰一刀流千葉周作の
 
玄武館に入門、剣術練磨にも励んだ。一堂塾と玄武館は隣り合っていて、志あるものは殆
 
どが両者に学び、文武を修めたのである。
 
八郎はやがて文武修行の廻国を行い、西は長崎に赴いてオランダ商館、商船を視察し、異
 
国の風を実感、北は蝦夷に渡って寒天に星を仰ぎ、南下するロシアの足音に海防の実態を
 
探り、動乱間近の京都にも四ヶ月程滞在した。
 
安政元年には江戸の神田三崎町に塾を開く。看板には「経学・文章・書・剣術指南」と書
 
かれてあったが、既に幕府体制の行きづまりと崩壊を察し、尊皇攘夷の運動をもって日本
 
刷新を考えていた。殊に万延元年の桜田門外の変には強い衝撃を受けた。翌文久元年春、
 
八郎の主唱により「虎尾ノ会」、別名「英雄の会」を結成、清河塾を中心にした尊皇攘夷
 
の会であり、発起人は八郎ほか、幕臣山岡鉄太郎、伊牟田尚平、益満休之助、石坂周造ら
 
15人であった。八郎は同年秋、会の急進派と共に、横浜の外人街を襲い戦功を上奏して、
 
朝廷から錦旗を戴き、一挙に倒幕軍を起こそうと企てた。幕府ではこの計画を察知し、八
 
郎を捕らえようとしたが、日本橋甚右衛門町路上で、町人に化けた捕吏が立ち向かったと
 
ころ、北辰一刀流練達の八郎に敵うはずもなく、抜き打ちでその首を刎ねた。首は勢いよ
 
く向かいの瀬戸物屋の店先まですっ飛んだという。しかし、幕吏を斬った罪人として追わ
 
れる身となった八郎の企ては頓挫し、同志数人ほか、妾の蓮(おれん)が捕まり、八郎自
 
身は潜伏活動を余儀なくされた。
 
この後は京都の田中河内介と謀り九州を遊説して廻り、挙兵入京を説く。筑前の平野国臣、
 
筑後の真木和泉、肥後の松村大成、薩摩の有馬新七らがこれに応じた。伝え聞いた諸国の
 
有志も感奮し京都へと馳せ参じる。八郎の言動には、教祖的な強い響きがあったのであろ
 
う。しかしこれらの動きは文久2年、薩摩藩の上意による同士討ち寺田屋事件となって、
 
またも頓挫する。
 
しかし、不屈の人である八郎は次いで越前藩主松平春嶽に「急務三策」を献言して「一に
 
攘夷、二に大赦、三に天下の英才を集める」事を説く。攘夷の為には前非を許し、埋もれ
 
ている有為の人材を採用すべきである、という主旨は立派であるが、主目的は幕府の為な
 
どではなく、入獄した同志の釈放と八郎自身の殺人罪を帳消しにしてもらう、という一挙
 
両得にあったのは云うまでもない。八郎は浪士徴募の大仕事に動き出し、当時講武所出役
 
の松平上総介忠敏を通じ、春嶽に献策したものだが、一方では「浪人は集めておいて取締
 
るに限る」という幕府の内心に適ったため、直ちに賛同を得、来たる将軍上洛に備えて警
 
護の浪士募集の沙汰が下った。翌文久3年2月、小石川伝通院で新徴浪士の会合があり、
 
総員234名の編成を終え、8日に京へ向かって出立したが、八郎は取扱方の連名から辞退し
 
ている。無論、本意は別にあったからである。
 
京へ到着した夜、壬生新徳寺に浪士を集合させた八郎は得意の弁を堂々と発した。「我ら
 
京へ参ったのは、上洛する将軍家守護ではなく、尊皇攘夷の魁たらんとす」というもので
 
天聴に達すべく既に草した上書を読み聞かせた。幕府の召しには応じたが我々は浪人、禄
 
を貰ったわけではなく行動は自由である、これからは天皇の兵として働くのだ、との趣旨
 
であり、幕府の資金により浪士徴募に利用していながら、将軍は差し置き、集まった人数
 
を尊皇攘夷の私軍として動かそうというのである。八郎の策略にしてやられた幕府は怒り、
 
別命を与えて浪士隊を江戸へ引き揚げさせる事になるが、八郎の弁説に不満、反発を覚え
 
た武骨朴強の士13名は京都に残る。近藤勇、芹沢鴨らで、これが京都守護職会津藩の預か
 
り壬生浪士組となり、すなわち後日の新選組の母体となって最も佐幕に精勤した雄となる
 
のであるから、八郎の目算外の皮肉な巡り合わせであった。
 
江戸に戻った八郎は、その年4月13日の夕刻、麻布一ノ橋の出羽上ノ山藩へ知人を訪ねた
 
帰りの赤羽橋辺で幕府が差し向けた刺客、佐々木只三郎、速見又四郎の二人に斬りつけら
 
れて果てる。八郎が剣の遣い手である事は充分にわかっており、旧知の彼らはまず、被っ
 
ていた笠を脱ぐ仕草をもって、挨拶の礼をとろうとした。八郎もこれに対し、自らの笠の
 
紐を解こうと指をかけたところを斬殺されたという。策士である八郎が、ふとした油断か
 
ら相手の策に落ち短命に終わる結末となったが、自ら文武習得に励み、国を憂え、藩閥を
 
持たぬ身一つで動きながら己の才で多くの者を惹き付け動かすという魅力があった点は否
 
めない。
 
魁けて
またさきがけん
死出の山
迷ひはせまじ
すめらぎの道
 
■ 御 家 紋 ■
 
■ 剣 客 剣 豪 ■

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