小松帯刀
こまつ たてわき

薩摩藩家老
 
天保6年10月14日、鹿児島城下に喜入領主肝付主殿兼善の三男として生ま
 
れた。母は、島津久貫の女。名は清廉、通称尚五郎、帯刀、兼才、香雲斎、
 
号は、観瀾。儒学を横山安容、和歌を八田知紀に学んだ。
 
安政2年、江戸奥詰奥小姓与近習番勤として初出仕する。安政3年、吉利領
 
主小松相馬清猷の養子となり、小松尚五郎と名乗る。同4年、小松帯刀清兼
 
と改名して、島津斉彬の詰衆、当番頭奏者番を兼務し、同5年当番頭となる。
 
文久元年、長崎へ赴き、電気、水雷を研修し、帰藩後は側役衆となり、磯邸
 
で、この実演をする。藩校造士館及び演武館掛、改革方内用掛につき、精忠
 
組を中心とする藩役職体制を作った。
 
文久2年、伊作、加世田の地頭になり、島津久光の上洛に随行し、京では、
 
側詰、側役兼務に任じ、江戸下向にも従う。帰国後、側詰兼務家老を命じら
 
れた。以後、勝手方掛、軍役掛、琉球掛、産物方掛、唐物取締役掛、製薬方
 
掛、蒸気船掛など藩政全般を司っていた。
 
文久3年、久光に従い上洛し、貞姫近衛家入輿用掛をつとめ、薩英戦争後、
 
久光のまねきにより兵庫にて一橋慶喜に会う。
 
元治元年、指宿地頭、禁門の変では久光の名代となり西郷隆盛とともに藩兵
 
を指揮し、御所を守衛した。
 
慶応元年、帰藩する。長崎に出張して長州の伊藤俊輔、井上聞多に会い薩長
 
親善を諮り、井上を伴い帰国し、桂久武、大久保利通、伊地知貞馨に引きあ
 
わせ、西郷隆盛と率兵、上京した。
 
慶応3年、薩長連合に奔走し、坂本龍馬、お龍を伴い帰国。英公使パークス
 
と応接。城代家老として長州藩の処分、開港問題について西郷、大久保と議
 
して大藩諸侯の京都会議を図り、倒幕、王政復古の藩論を内定し、密勅請書
 
を奉呈し、帰国した。
 
明治元年、徴士参与、外国事務掛、総裁局顧問、外国事務局、判事兼務、大
 
坂府在勤、外国官副知事兼務、御東幸御用に任ぜられ、大久保利通らと版籍
 
奉還を画策し、藩政改革案を作成する。
 
明治2年、免職。明治3年7月20日大坂で病死した。享年36歳。
 
墓は、日置郡吉利と大阪市天王寺区夕陽ヶ丘にある。
 
■ 御 家 紋 ■
 

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