八木源之丞邸

京都市中京区梛ノ宮町二四、市バスで四条大宮下車徒歩10分




 
新選組屯所の一つ。文久三年浪士隊に参加して上洛した芹沢鴨、近藤勇ら十三名が宿舎
とし、前川邸を屯所としてからも隊士が寝泊りする事が多かった。長い敷石道を通って
玄関前を入った右側奥十畳間が芹沢鴨がお梅と共に暗殺された部屋で、屋内の鴨居には
生々しい刀傷が残っている。当時の当主は十代八木源之丞応迅で、子母澤寛の「壬生ば
なし」に登場する為三郎翁はその次男であった。現八木家当主は十五代にあたり当時の
家屋を保存し、期間により一般来訪者にも公開している。門前には子孫経営の鶴屋があ
り、壬生菜と上品な餡を使った「屯所餅」は絶品で京都の手土産としても好適である。

旧前川邸

京都市中京区壬生賀陽御所町四九 市バスで四条大宮下車徒歩10分八木邸斜め前




新選組の壬生郷士屋敷分宿時代の屯所の一つ。綾小路通坊城角に当時のたたずまいを残
す長屋門のある建物で、現在は株式会社田野製袋所のある所。母屋には昔、式台付きの
玄関や馬四頭が駆け込める勝手口があった。前川邸は文久三年三月に浪士組残留の近藤
らが守護職預りとなって以来屯所に使われ、裏庭では隊士が大砲撃ちの訓練をしたとい
う。建物内部にはあちこちに刀傷が残っている。門に向かって右の出窓のある部屋で野
口健司が切腹。山南敬助が切腹したといわれる部屋の出窓は現在は取り払われているが、
坊城通りに面してあった。古高俊太郎を取り調べた土蔵もそのままに残っている。慶応
元年に新選組が西本願寺へ屯所を移転した際、それまでの部屋代として前川家には十両
の礼金を置いていったと言われている。


壬生寺

京都市中京区梛ノ宮町三一 市バスで四条大宮下車徒歩10分八木邸隣接




地蔵院、宝幢三昧院とも称した。壬生寺は勅願寺であり、律宗の別格本山で奈良唐招提
寺に属す。新選組の在京中、境内で沖田総司が近在の子供たちと鬼ごっこなどをして遊
んだという。新選組はこの勅願寺で兵法訓練も行い、月に六度四と九の日は馬を乗り入
れぬ事、大砲などは使用しない事という条件は守られるはずもなく、大砲の響きで堂宇
も損傷し、近隣や参詣人も多大な迷惑を受け、朝廷に請願書を出している。昔も今も、
二月の節分会や四月の壬生念仏狂言は市民の楽しみとなっており、壬生塚や近藤勇の胸
像など新選組を記念したものもあり、祇園祭宵山の毎年七月十六日には隊士の慰霊法要
が行われている。


新徳寺

京都市中京区賀陽御所町四八 市バスで四条大宮下車徒歩10分




臨済宗永源寺の末寺。文久三年二月二十三日に京に入った浪士隊が三月十三日に江戸へ出
立するまで本陣となった。浪士隊取締役十九人、五番隊・六番隊と共に清河八郎が宿泊し
た。京へ着いたその晩に清河は浪士組全員を新徳寺の本堂へ集め、尊攘建白書提出の大演
説を行ったといい、その本堂は当時のまま残されている。


光縁寺

京都市下京区綾小路通大宮西入四条大宮町三七 市バスで四条大宮下車徒歩10分




浄土宗満月山普照院光縁寺と称し、天正年間に創建された。本堂と山門は、まさに当時
のままである。墓地には文久三年十二年二十七日に切腹した野口健司を筆頭に山南敬助
松原忠司、谷三十郎らの新選組隊士の墓石と隊士ではないが大石造酒蔵の墓、そして、
昭和五十一年に建立された沖田氏縁者の女性の墓石が並んでいる。墓地は現在よりも、
北に広がっていて、今日、京福電鉄が通っている場所に墓はあったという。
伊東甲子太郎ら高台寺党の遺骸も当初は光縁寺に埋葬されたが、のち戒光院へ改装された。



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