真木和泉 
 まき いずみ 

筑後久留米神官
 
  文化10年3月7日、筑後久留米城下瀬下町水天宮に生まれる。  

  父真木旋臣は水天宮第二十一代神職で、後久留米藩から年六十俵給付  

  され、中小姓格となる。真木和泉はその長男。名は保臣、号は紫灘。  

  大宮司、従五位下和泉守の官位を有するため通称和泉と呼ばれる。  

  11歳で父を亡くし、19歳の時に妻睦子を迎え二男一女をもうける。  

  三島神社神職宮崎阿波守信敦に国学、和歌を学び、国史、神道、有職故実  

  にわたる広い教養を身に付け、藩校明善堂考課においても「格別出精  

  上達」の分に入れられたという。  

  弘化元年、初めて江戸へむかい、在府中に水戸に赴き、「正論」の会沢  

  正志斎に学び、尊皇攘夷思想を啓発された。帰国後、水戸遊学経験のある  

  村上守太郎、木村三郎らと久留米天保学連を結成し、藩主有馬頼永の  

  もと藩政刷新を図り、天下の雛型と心得て政務を行い国士の持主たる  

  朝廷に心を尽くすべしという建白書を提出した。  

  しかし、弘化3年頼永の死後、守旧派の巻き返し、天保学連の分裂に  

  よって改革は挫折する。  

  嘉永5年、同志とともに罪を得て、弟大鳥居信臣が神職をつとめる水田  

  天満宮のもとに蟄居を命ぜられる。翌年、天満宮の傍らに山梔窩(くちな  

  しのや)を建て、独居自炊生活をはじめたが、陪臣、医師、神職、村役人層  

  の青年が従学してきた。後に真木が討幕運動に挺身すると、これらの者  

  達が彼に従い、自害、処刑された者もでている。  

  蟄居中、「大夢記」「義挙三策」などを著し、全国討幕運動の理論的指導者  

  となる。  

  文久2年2月、平野国臣、田中河内介、清河八郎らのすすめにより、二男  

  菊四郎、門人二名を伴い山梔窩を脱出し鹿児島に走り、島津久光の上京に  

  加わろうとするがこれを嫌う薩摩藩によって拘留一ヶ月あまりに及ぶ。  

  4月に上京するが、寺田屋の変に関わり捕われ、久留米藩に引き渡され  

  7月に藩地送還収獄された。一時処刑されかけたが、尊攘派公卿、長州藩  

  の梃入れで助けられ、再度上京した。  

  京では学習院出仕となり三条実美の信任を得、長州藩を足がかりに大和  

  行幸、攘夷親征を名目とする倒幕決行をめざすが、文久3年8月18日の  

  政変で挫折。三条実美ら七卿とともに長州へ撤去した。  

  幕府また、公武合体派の手中にある朝廷奪還のためには武力によるしか  

  ないと主張し、元治元年7月、浪士隊を率いて長州藩尊攘派の重鎮として  

  藩兵とともに上京し禁門の変を指導するが、かえって朝廷の追訴を受け、  

  7月21日、天王山山頂に諸藩出身浪士十六名とともに自刃した。  

  享年51歳。  

  福岡県久留米市水天宮内には真木神社がある。  




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