牧野忠恭
まきのただゆき

越後長岡藩、牧野家十一代当主。
 
文政7年9月1日、三河西尾藩主松平乗寛の第三子として江戸に生まれる。母は側室仙松院。
 
幼名を壮之助。天保9年12月、第10代長岡藩主牧野忠雅の養子となり、同11年12月従五位
 
下玄蕃頭に叙任され、名を忠恭と改める。嘉永3年10月、帝鑑の間詰として出勤。安政2年
 
6月、藩財政の整理のため藩主の命により初帰国した。
 
 越後長岡7万4千石の牧野家は、室町期の末に三河・牛久保に城を構えた今川家与力を
 
発祥に、徳川家康に服してからは「徳川17将」の1人に加えられ、元和年間に越後長岡の
 
領地を賜って徳川治世の二百数十年の間一度も転封がなかったという異例の譜代藩である。
 
この長岡牧野家を本家とし、信州小諸、越後三根山、常陸笠間にそれぞれの分家が譜代藩
 
主となっている。
 
長岡は越後平野のほぼ中心に位置して経済・交通の要衝にあり、飛び地や幕府直轄領に阻
 
害される事なくまとまっており、幕末には表高の倍近い石高を蓄え得たという。また、藩
 
風は「三河以来」の質実剛健を尊び、古典的な精神的規範である「参州(三河)牛久保の
 
壁書」は「常在戦場」の4字に始まり、礼儀廉恥、貧は士の常である事等を掲げており、
 
これを藩の憲法に位置付けて事ある毎に藩士に徹底させた。また「侍の恥辱十七条」を尊
 
重させ、初代藩主忠成の書幅「忠孝御拝」を元旦には全藩士に礼拝させる等、総じて三河
 
武士の誇りを繰り返し受け継いで来たという士風があった。10代忠雅の頃には、幕府の次
 
席老中として外交担当の海防掛の役職にあり、開国策を進め、藩政についても広く家臣に
 
具申させ、河井継之助の意見書を取り上げて御目付格に抜擢した経緯があり、小林虎三郎
 
(米百俵の逸話で有名)や鵜殿団次郎等、多くの逸材を輩出していた。
 
安政5年、養父忠雅の死により、忠恭は10月25日に家督を相続し、11月に備前守となる。
 
忠恭の時代はまさに時勢の回天に重なるものがあった。忠恭は就任直後から、先代同様に
 
広く人材登用の必要を痛感し、かつて門閥に阻まれ先代藩主の抜擢を生かせずに終わった
 
家督相続間もない河井継之助を外様吟味役に任命、以来、忠恭の幕府における地位と軌を
 
同じくして、河井を長岡藩政に重用、次々の累進と藩内改革を許した。
 
万延元年6月奏者番となり、文久2年3月、寺社奉行加役を命じられ、4月には朝鮮信使
 
用掛を拝命。同4月に薩摩の島津久光が兵を率いて入京、伏見寺田屋騒動、5月に東禅寺
 
の英国水兵殺傷事件、8月生麦事件、等、忠恭は幕府閣僚として各種問題の対応に多忙を
 
極める。8月24日、更に京都所司代に任じられ京都に赴任。尊攘派浪士の横行する京では
 
所司代の他に京都守護職が新設され、会津松平容保が拝命、12月に着任した。翌文久3年
 
正月には一橋慶喜が上洛、3月4日に将軍家茂が入京。次いで天皇の賀茂・石清水行幸が
 
あり、忠恭はこれらの接待、警備などに忙殺される。同年6月には、「東北辺境の一小藩
 
主重責に耐え得ず」として所司代を辞し、江戸へ帰ったが、9月12日には幕府は忠恭の公
 
武間周旋の功績を認め老中に迎え、外国御用掛を命じたために、翌元治元年8月の英仏米
 
蘭連合艦隊の下関砲撃事件の処理に苦しむことになる。慶応元年、幕府は長州再征を企て
 
5月16日の進発を布達するが、このままでは幕府に使われるうちに長岡一国が危難を被る
 
と考えた河井の進言により、病気を理由に4月19日老中職を辞した。幕府からは忠恭辞任
 
を慰留する使者として牧野分家の笠間藩主を赴かせたが、面前で河井が激しく反論して受
 
け入れさせず、大名へ不敬の罪で一時辞職となるが、忠恭はこの後も河井を埋もれさせる
 
事なく再度登用し念願である国元の近代化改革を驚く程短期間で断行させている。慶応2
 
年7月には、藩士出身で幕臣となった鵜殿団次郎の建言を容れ、藩兵をフランス式兵制に
 
改め八大隊編制をして訓練させた。
 
翌3年7月、忠恭は養子で24歳の12代忠訓に家督を譲り、隠居して名を雪堂と改めたが、
 
その後も老公として実権を握ったままであった。同年中の大政奉還に際しては新藩主忠訓
 
と河井が徳川討伐反対の周旋の為上洛して建言したが容れられず、翌4年1月鳥羽伏見に
 
於いて開戦。長岡では、河井が江戸藩邸の財物を売却処分して武器を増強し、藩主以下が
 
急ぎ帰国して事態に備え、会津や東北諸藩との黙契の元、戦争回避の方向で中立したが、
 
藩論は新政府恭順か佐幕を支持しての抗戦かで紛糾した。時に執政河井継之助の暗殺まで
 
が画策されるという不穏な動静を察知した老公の忠恭自ら、4月23日に恭順派の主魁であ
 
る本富寛居、大瀬紀利を別邸に招いて説諭する。恭順派が「これでは長岡に戦争を呼び込
 
むようなものだ」と諫言すると、忠恭は「河井継之助を信頼し、一藩こぞってこの難事に
 
あたるように」と諭したという。こうした主君歴代の懐の深い理解があってこそ、小国長
 
岡が東軍方諸藩では群を抜いた先進政策と軍事化を実現し、全国に永く勇名を轟かせるに
 
至ったのである。
 
小千谷会談の交渉決裂の後、遂に北越戦争に突入し、長岡藩士は縦横無尽に奮戦して一時
 
は新政府軍の存続を危ぶむ世評が出る程に脅かしたが、藩祖以来の長岡城は炎上、敵味方
 
の争奪を繰り返し、国土は戦禍に見舞われた。忠恭ら藩主家族は最初の落城により、城東
 
の森立峠を越えて会津藩に逃れていたが、主将の河井継之助重傷とその後の落命、次第に
 
相次ぐ母国敗報を迎える事になる。
 
会津藩降伏後、忠恭は長岡へ帰って謹慎し、明治2年9月に許され、同6年3月、神祗官
 
少教生の職に就くが、1年で辞す。明治8年2月2日、13代当主となっていた4男忠毅が
 
病気引退のため、忠恭が14代として家督を再承するが、明治11年9月1日東京で病没した。
 
享年55歳。
 
■ 御 家 紋 ■
 

The music produced byふみふみさん
MIDI ON / OFF


佐幕人名鑑に戻る


このページは幕末維新新選組の著作物です。全てのページにおいて転載転用を禁じます。
Copyright©All Rights Reserved by Bakumatuisin Sinsengumi