水野忠徳
みずの ただのり

幕臣
 
文化12年、諏訪頼篤の次男に生まれる。初名は忠篤。通称は甲子二郎。号
 
は、痴雲。文政5年、水野忠長の養嗣子となる。
 
天保7年、部屋住で小姓組に番入りし、同九年、学問吟味に乙科及第した。
 
天保15年、西の丸目付となり、使番、先手鉄砲頭、火附盗賊改めを経て、
 
嘉永5年、浦賀奉行に上り、筑後守を称した。
 
翌嘉永6年、ペリー渡来直前に長崎奉行に転じ、安政元年8月には、全権と
 
して日英和親条約に調印。同年12月、勝手掛勘定奉行に昇進し、五百石に
 
加増された。
 
安政4年4月、長崎奉行を兼帯し、目付岩瀬忠震と長崎に出張して、日蘭、
 
日露追加条約を結んだが、帰府後12月、田安家家老に移された。
 
将軍継嗣問題では、松平春嶽と連携し一橋党に与したが、罰は免れ、安政5
 
年7月、新設された外国奉行に任じられ、日英、日仏両修好通商条約に
 
調印。翌安政6年、神奈川奉行も兼ねた。
 
同年、ロシア士官暗殺事件の責任を問われて、西の丸留守居(勘定奉行、軍
 
艦奉行兼帯)に移されたが、引き続き外国御用を命じられた。
 
文久元年、外国奉行に再任され、翌年にかけて小笠原島開拓準備のため視察
 
したが、文久2年、公武合体対策に反対したため、箱館奉行に左遷され、こ
 
れを機に隠居した。
 
しかし、政界の裏面ではなお活動し、同3年の小笠原長行の率兵上京に同道
 
したため、差控えを命ぜられた。
 
明治元年7月9日、憤激のなか、病死した。享年54歳。
 
 
 

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