野村望東尼 
 のむら もとに 

 
 
  文化3年9月6日、三百石の福岡藩士浦野重右衛門の三女として生まれる。  

  名をモトといい、17歳で20歳も年上の知行五百石の郡利貫に嫁ぐが、半年  

  で破局をむかえ実家に戻る。その後、九州で著名であった二川相近に和歌  

  や書道を学び、この師のとりなしで24歳の時に同門であった福岡藩  

  馬廻役野村貞貫の妻となる。夫には、先妻との間に17歳を頭に三人の  

  男子がいた。またモトも四人の女子を産むが皆早世してしまったという。  

  しかし、夫婦仲は良く、ともに歌道を極めようと学んだ。  

  夫の死後出家し、望東尼と称し、現在の福岡市中央区平尾にあった隠居所  

  平尾山荘と町家とを行き来し、学問芸術に親しんでいたという。望東尼  

  40歳の時である。この山荘には多くの志士が出入りし、ことに高杉晋作  

  とは親交が厚かった。  

  元治元年11月中旬、望東尼がこの平尾山荘に住んで20年近くたった頃  

  高杉晋作は藩の佐幕派である俗論党に追われて谷梅之助の偽名を使って  

  長州を逃れた。高杉は討幕の九州連合を作ることによる外部からの長州の  

  改革を企てていたが、筑前も依然佐幕派の力が強く、博多に身を潜めるのも  

  危険になり、多くの志士たちが頼りにしていると聞く望東尼を頼りに平尾山  

  荘を訪れたのだった。高杉はこの山荘で約10日間を過ごし、多くの志士と  

  会い、また薩摩の西郷ともはじめてであったとも言われているが真偽はさだ  

  かではない。  

  高杉は長州を外部から改革することは難しいと悟り、内部の改革を目指して  

  長州へ戻る。1ヵ月後長州藩内の同士と謀り、高杉は俗論党を倒し藩の主導権  

  を握ることとなる。この山荘では、他にも平野国臣、月照など多くの人々が世話  

  になっているが、高杉をかくまった翌年、望東尼は志士たちの隠匿の罪により、  

  福岡藩にとがめられ、老齢60歳の身で玄海灘の姫島に流罪となった。  

  荒格子だけの四畳牢で吹きさらしの中、食べ物を運んでくれる島民を支えに  

  10ヶ月を過ごす。「冬の夜の嵐にも漕ぐ釣り舟を 見ればひとやの我ぞ安けき」  

  という碑が流刑の地にたてられているという。  

  この流刑地の望東尼を高杉はあんじていたが、小倉戦争後病になった高杉は  

  自らの身体がいうことを聞かず、信頼する者に救出に向わせる。慶応2年9月  

  17日望東尼は下関の白石正一郎のもとに身を寄せた。望東尼は病で倒れた  

  高杉を看病する愛人おうのを助けたという。また、高杉の正妻雅子が訪れて  

  からも、その場を和らげる役をかっていたと思われる。  

  死の床で高杉が「おもしろきこともなき世をおもしろく」と詠じて力尽きた時、  

   「すみなすものはこころなりけり」と下の句を続けて読んだことは有名である。  

  慶応3年4月14日高杉は29歳の生涯を終える。その後望東尼は下関を  

  去り、山口に出てやがて薩長同盟がなり両藩の軍艦が集結する三田尻に行く。  

  防府天満宮に7日間こもり、断食潔斎して勝利を祈った。満願を遂げるがその  

  ために身体を壊し病床につく。しかし病床に届いた大政奉還がなり王政復古  

  が実現した知らせに望東尼は満足していたといわれている。  

  慶応3年11月6日、この地で没する。  

  辞世の「冬籠こらへ堪えて一時に 花咲きみてる春は来るらし」という句は  

  明るささえ感じさせる。 墓は、福岡市明光寺にある。  




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