ひと息の…

[ 屯所入口 ] [ 小説入口 ]


(総司、身体の具合はもう大丈夫なのか?)
 青白い総司の顔を見ると、ちっとも良くなっていないように思えるのだが気丈に振舞う総司にそう問い掛けることは躊躇われた。
  もっとも、問い掛けたところで、総司が答えをはぐらかすことはわかっている。大丈夫ですよ、土方さんより私の方がよっぽど元気です、などと。で、歳三もこの話題は迂闊に切り出せないのだ。
 しかし医者にだけはきっちり通わせたほうがいいに決まっている。行け、と言われて素直にきくようなら苦労はないのだが、
(ああ言えばこう言う坊やだからな。)
歳三がちょっと難しい顔をした時、逆に総司の方が話しかけて来た。
「土方さん、大丈夫ですか?」
「は?」
虚を突かれて歳三が目を上げた。
「忙しすぎるんじゃありませんか。」
真顔なのか冗談なのかわからない。歳三は眉をしかめて、
「俺が忙しくしてなきゃ、新選組は三日で潰れるよ」
「は、は、は。」
総司は弾けるように笑った。
「北野に通うのも、新選組のためですか?」
「何?」
北野、というのは上七軒の遊里で、そこには歳三が馴染みにしている君鶴という芸妓がいる。歳三はちょうど昨夜、勤めの合間に、たまの夜遊びをしてきたばかりなのだ。
「馬鹿、何を言い出すかと思えば。」
「別に、とがめだてする気はありませんよ。鬼の副長殿にも、息抜きが必要なことくらい承知しています。」
総司は生意気な口をきいて、なおかつ歳三の拳が飛んできたらすぐにかわせるよう、半身を引いている。
「でも危ないな、夜道のひとり歩きは」
「む。」
「いくらお忍びでも物騒ですよ。何なら、私に言って下さればちゃんと警護を引き受けたのに。」
「女遊びに行くのに、いちいちお前みたいな賑やかな奴を連れて、雁首揃えて歩けるか、みっともねえ。」
「ご挨拶ですねえ」
総司は口をとがらせて、
「人が心配して言ってるのに」
「心配だと。」
 歳三は、また先を越されたためにむっとした顔をして、
「人の心配どころじゃないだろう。」
と、つい小言を言った。
(お前こそ、いつかの医者の娘とはどうしたんだ。)
と、切りかえしてやろうかと思ったが、さすがにそれは子供の喧嘩じみていて口にしなかった。
(こいつ……)
ひょっとしたら総司は、体を気遣うような歳三の表情を察して、先手を打ってはぐらかしたのではないかとも思った。昔から、そういう気配りだけは妙に大人びたところがあったのだ。


 歳三の記憶は、総司がまだ前髪を残していた頃に戻る。
「凧上げでもしましょうよ。」
 正月気分も少し抜けた頃だというのに、江戸・試衛館に数日泊まっていた歳三の片袖をつまむようにして、総司、当時の惣次郎少年は誘ったものだ。
「馬鹿らしい」
 歳三はもう、いっぱしに憎体の男の面構えになっていた。町なかで凧上げ、などということが滑稽な外見になっている。惣次郎にしても、凧上げに興じる、という遊びがそろそろ子供じみて見える年頃だった。
「そう言わないで、ね、行きましょうよ。今日の風は絶好ですよ」
絶好、などという単語とその遊びが似合わないのである。
「一人で行きゃあいいだろう」
 歳三が面倒くさそうに答えると、惣次郎はまだ幼さの残る口をとがらせて、
「だって、一人でやったってつまらない。」
と、実に何とも言えぬ愛嬌をこめて、こちらを見返すのである。
「………」
 歳三がしぶしぶ、といった形で重い腰を上げ、数刻後には、いつしか凧の高さを二人で競り合っていたことは言うまでもない。
 その凧上げから、とんでもなく後になって、歳三はふと苦笑いをしたことがある。
(そういや、あの頃だったな。)
その時、試衛館に逗留したことの原因が、歳三が何度目かの女にふられて仕方なく柳町に宿を変えただけだった、と思い当たったのだ。
 よく、歳三は昔から女にもてた、などと言われるが、本当にもてていたわけではない。金も仕事も「ちゃんと」していない若者に、女のしたたかな目は案外に厳しい。その場限り、ゆきずりに近い形の色事しかなかったと言っても、遠くはずれてはいないだろう。
「あたしと続けたいんなら、少しちゃんとしておくれよ」
 そう言われて、別れること自体には惜しくもない女だったが、歳三がその後数日、面白くない顔をしていたことは確かだった。
(あのガキ……)
 むろん、当時の惣次郎が歳三の事情などわかっているはずもないが、わからないまま、ちょっと小難しい歳三の気分を変えてやろうとしたに違いない。
 歳三がとりとめもない回想からふと現在の視界に目を戻すと、総司は道の少し先を歩いていた。振り返った。
「土方さん」
そして、相変わらず正体のわからないほど明るい目を細めて、
「置いていっちゃいますよ?」
笑っている。その長身の向こうで、夕日が色濃くなっていた。

 置いて行く、だと?
 歳三はむっと口を閉じて、相変わらずの仏頂面で歩き始めた。総司の後追いをする格好になりながら、その背中を見ていた。昔の歳三なら、むきになって追い越そうとしたかもしれないが、今は少し違う心境になっている。
(お前が、俺を置いて行けるもんかよ。)
 そう、悪態をついてやりたい気がした。歳三の頭の中には、わずかだが詩的な感傷が混じっている。そううまくは言えないが、総司はゆうゆうと一人で歩いているような顔をしながら、歳三を、また近藤を、今のすべてを置いてどこへも行くはずがない。行けるはずがないのだ、というような感想である。
 それを哀しい、とは感じない。そういうやつなのだ、と歳三はあたりまえのように思っている。
 
 清水から、三年坂、二年坂と祇園のほうへ下る。
 坂の中途には、清水寺参拝の客を相手に様々な店が所狭しと軒を並べている。風が吹くと軒先の赤い風車や銅製の風鈴がさらさらと涼しげな音を立てた。夕刻最後の賑わいを終えて、人々もすでに店じまいの様子。
 総司は忙しなく動き回る街の様子をにこにこ眺めながら、羽織の紐をぷらぷらさせて先を歩いていく。
「寄っていくか、総司?」
 歳三は前を行く総司の背中に声をかけた。右前方に櫛やら簪を取り扱った小間物屋が軒を連ねている。
「たまにはみつさんに京の櫛でも買って送ってやったらどうだ」
 振り向いて総司は足を止めた。丁度小間物屋の前である。ちょっと考え込むように目をしばたかせて、それから鼻をひくひくさせた。
「・・・雨の匂いがしますよ。土方さん」
困ったように首をかしげている。
「店に寄っていくのもよいけれど、祇園を廻って帰ったら濡れ鼠になっちゃいますね」
 確かに、と歳三も気づいた。初夏の暑気の中に、肌にまとわりつくような湿った風を感じる。常より蒸し暑く汗ばんでいるのも、一雨来るからだろう。
「買い物ついでに傘でも借りていくか?」
「いえ。先を急ぎましょう……雨が降ると、どうもこう、具合が悪くなるんです」
総司は名残惜しげに小間物屋を見て、それから土方に向き直った。
「今度来たときに、あの赤い櫛、土方さんに買ってもらおう」
「何言ってやがる」
「だって、土方さんがいいだしっぺですよ。いいじゃありませんか」
約束ですよ、と総司は無邪気な笑顔になった。歳三は仏丁面を装ってはいたが内心ほっとした。
 一瞬総司の目に、何とも言えぬ淋しげな色が閃いたからだ。
 たまには俺のほうが気遣ってやってもいいだろう。歳三はそんな気分になっている。

 日が沈む頃祇園の会所についた。
「あっ……、お疲れ様です」
まだ前髪が取れたてだというような頼りない風情の新参隊士が、慌てて駆け寄ってくる。
「うむ。ご苦労」
 歳三の後ろからゆらりと入ってきた総司が羽織を脱いだので、彼はしわにならないように細心の注意を払って受け取った。
「異常はないようですね。ご苦労様。」
目を合わせて、総司はにこりと笑う。いつもと変わりない笑顔だったが、心なしか顔が蒼い。
「少し休んでいくか。」
 大丈夫か、とは聞かず歳三は腰を下ろした。羽織を持ったままの隊士が一瞬「え?」という顔をしたが気づかない振りをした。副長と大幹部に居すわられては、新参平隊士として気が休まらないのだろう。
「茶を一服くれ」
歳三も羽織を脱いだ。隊士がはじかれたように奥へ駆けていく。
「私には白湯を」
その背中に声をかけて、総司は額の汗を拭いた。
「暑いなぁ……一雨きたら涼しくなるかなぁ」
「さあな。このままどんどん暑くなって、夏になるかもな」
二人で並んで腰を下ろして、開けたままの入り口から外の様子をうかがっている。入り込んでくる風が心なしか冷たくて、張付いていた汗も乾いていくような気がした。本格的に雲行きは怪しくなっていた。
「急ぎましょうよ、土方さん。暗くなってから雨に降られるのは嫌ですよ」
 総司が外を見たままぽつりと言った。茶と白湯が運ばれてきた。馬鹿やろう、と歳三は思ったが、黙って茶を一口すすった。入れるのが下手なのか必要以上に苦かった。もともと険しい顔が、さらに苦虫を噛み潰したようになる。 具合が悪い時の、総司の常套手段だった。無理をしてでも早く帰って、気を遣わせる前に自室に引き取りたいのだ。相当気分が悪いのだろう、と思ったが、歳三は一気に茶を飲み干すと立ちあがった。
「雨が降る前に帰るぞ」
むっつりとした顔で羽織を着る。総司も後に続いた。
 歳三はこんな時、どうしようもなく腹立たしくなるのだった。無用な気遣いしやがって、だとか、この見栄坊が、といった言葉が頭の中を渦巻いている。しかし、歳三にまで気を遣ってしまうのが総司の性分だということも分かっている。分かっているから腹が立つのだ。
 外に出ると、空は泣き出す前のように重くかすんでいる。しばらく屯所のほうに向かって無言で歩いた。いくつか辻を曲がり、やがて鴨川に差し掛かったところで総司がため息をついた。
「五人……ですか」
「足音はな」
 歳三は前を向いたまま、無表情に言った。対する総司も前を向いたままである。つけられていた。
「今朝の人の仲間でしょうね」
「今朝の人?誰か斬ったのか?」
総司は無言である。
「なぜ報告しなかった」
「土方さん。怒ってますか?」
「……いろいろな」
「私は……弱いものいじめは嫌いです」
 総司はぽつりと言って目を伏せる。
 おそらくは、と歳三には察しがついた。どこぞの界隈で浪士が町民にからんでいたのだろう。総司は正義感の強い青年だ。ことによっては、思わず刀を抜いて斬ってしまっても不思議はない。話したがらないということは、いい思いはしなかった、ということだろう。無論、感謝されたくてやったわけではないが、怯えられたか、それとも「壬生狼」と罵られたか……。
「どうする。会所に戻るか?それとも走るか?」
歳三はそれ以上は追及せず、短く聞いた。
「迎え討ちましょう」
総司は一言強く言った。
「どちらにしろ、逃げれば挟み込まれる可能性もあります。もっと仲間も居るかも
しれません。この先は暗くて狭い小路です。先手をうてば二対五でも挟まれることはないでしょう。」
言葉を切って唇を舐める。
「騒がれる前に殺りましょう」
いいだろう、と歳三もうなずいた。
「どこの奴らだ?足音だけでは分からない」
「土佐者です。多分」
言いながら二人は走り出した。丁度橋を渡り終わっていた。あ、と気づいた浪士達がばらばらと追ってくる足音が続く。角を曲がると目の前は狭い小路だった。
 歳三はそのまま小路に駆け込む。総司は角のところにあった天水桶の陰に風のように身をすべり込ませた。複数の足音がばらばらと続く。歳三は足を止めた。
「何の用ですかな?」
 狭い小路に朗々とした声音が響く。その声にひるんだように、追手達の足跡も順に止まった。いち、にい、さん……やはり五人か、と歳三は足音と気配を数えた。暗闇に目をならすため目は閉じたままだ。走り出した時点で提灯は投げ捨ててあった。提灯がなくなっただけでも暗いが、軒が低く差し掛かった小路の中は更に暗い。もともと提灯など持たずにつけてきていた浪士達も目の前が暗んで、とっさには事態を把握できていないようだった。
「新選組副長、土方歳三である。そちらも名乗られよ。」
闇に響く誰何の声。新選組副長と聞いて相手は多少動じたようだったが、逃げ出そうとはしなかった。
 歳三は静かに目を開けた。六間ほど先、小路の入り口で一塊にうごめく人影があった。暗闇の中に踏み込みむのをためらってるのか、その境界で踏みとどまっているせいで、薄い逆光を浴びてぼんやりと輪郭が浮かび上がっている。 馬鹿が……丸見えだ。歳三は目を細めた。相手もこちらをうかがうために、必死で目をそばめている様子である。やがて、先頭にいた男がうなるような声を発した。
「そちらの連れに用事がある」
「連れ?」
 歳三はおかしそうに片眉を上げてみせた。そうしたところで、向こうからは見えないだろう。
 その時、あっ、と声があがった。
 立て続けに、後ろの方に立っていた浪士が二人倒れた。
総司である。が、歳三にも何が起こったのか良く見えなかった。さっと何かがよぎり、鈍い光がちらりと走ったと思ったら、もう二人倒れていたのだ。どさっ、という音と、うぅ……と言葉にならないうめきに、浪士達がはじかれたように散る。
 散る、といっても小路の中に逃げるしかない。小路に踏み込んで、暗闇の中で思い出したように背中合わせになるところを、混乱に乗じて歳三が斬った。肉を押し斬るというより、骨を割ったような確かな手応えが手の内に伝わり、また一人、今度は脇の家にもたれかかるようにして倒れる。
「これで五分……」
 ささやくような歳三の声に、背中合わせの二人が震えたように見えた。
歳三の顔からは表情が消え、まるで能面のようになっている。その静けさがかえって「鬼の副長」と呼ばれる冷酷さを感じさせ、浪士達の背筋を冷たくしていた。
「今朝の人のお知り合いですか?」
対する総司はのん気な声を出して間合いを狭めてくる。こちらは道端で天気を聞いてくるような気安さである。のんびりと刀を振って血のりを拭っている様は、およそ斬り合いの最中の行動とは思えず、これはこれで名状しがたい威圧感を与えていた。
「私に用があるんでしょう?具合が悪いので早くしてください」
総司は珍しく苛立ったような声で言い捨てると、ゆっくりと青眼に構えた。すっと表情が変わる。周囲の空気が一段冷えるようなその変貌に、ごくり、と唾を飲む音が聞こえたような気がした。
 
 歳三は、およそ剣技で沖田総司にかなうと思った事はない。総司があの表情をした時は、鬼も近寄らぬのではないか、と感じさせる不思議な力がある。身体から薄青い焔を発するように気合を溜めて、やがてそれは一閃の光芒となって敵の正面に放たれた。気圧されて数歩後方に逃げるのが精一杯だった相手は、総司の足さばきがススス、と近づいたと見る間もなく、見事に心の臓へ一撃を受けて、悲鳴も漏らす事なく、その場へ紙人形のようにくず折れた。最後のひと呼吸と共に、生命が抜け落ちていくようであった。
 替わりに詰めていた総司の呼吸がはあっ、と戻って来た。それを見届けた歳三は、亡霊のように腰を抜かしている残る一人にずっ、と近づき、「おい」と言った。
 歳三は歳三で、性根の座り方が違っている。
 相手は痴呆のようになっていて、返答を思いつくはずもない。歳三は素早くその刀を、自分の刀で打ち落とすと、峰を返してびしり、と首筋を打った。がく、と膝を落とした相手に脱いだ羽織を頭からかぶせて、さらにみぞおちを打った。きゅう、ともグウ、ともつかぬ声を発して、男は気絶したようである。「総司。」
と声をかけると、自分のと総司の下げ緒を使って、手足を縛り上げ、路地奥のそこへ転がした。
 歳三は、常に実務最優先の男である。大勢が決した以上、全員を殺すことはない。
「やはり、突きにしたのか。」
 歳三は器用に結び目をくくりながら、総司が最後に仕留めた相手の話をした。
「ええ。袈裟懸けだと……」
力が要って疲れるから、と言いたかったのだろうが、かがんで歳三の作業を手伝っていた総司が、ふと、立ち上がった拍子に激しく咳き込み始めた。
「大丈夫か。」
こういう時、我ながら当たり前の言葉しか出てこないものである。総司は返事の替わりに、口元を押さえていない方の片手を左右に振って、側へ来ないで下さい、という意思表示をした。当時といえども、労咳が空気で伝染するらしい位の事は皆が知っている。
「馬鹿どものお陰で、急いだのが無駄になったな」
 歳三は舌打ちして、死体の側の路上にぺっ、と溜まった唾を吐いた。健康な自分でさえ、何度嗅いでも血の生臭さを快いと思った事はない。体の辛い総司には尚更、胸がむかつくことだろう。
 会所に戻るのは今更面倒だったが、このままに捨ておくほど無法な真似も出来ない。歳三は幸い、この近くに出入りの葉茶屋がある事を思い出して、そこへ総司を伴った。
 京うぢ茶、という文字の書かれた看板の下で、やや性急に板戸を叩いた。
「おい。開けてくれ、御用の筋である。」
「へ、へえどちらさんで」
「本願寺の土方だ。」
 新選組、と言わず屯所の所在を告げたのは近所の耳を憚ったせいである。この店では、西本願寺に屯所を持つ新選組の土方歳三、は「お西はんの土方様」という名で通用している。
「お静かに。へえ、今開けますし。」
 もう店の表を閉めていた葉茶屋の店では、時ならぬ珍客にやや戸惑いを感じながらも、そこは京者だからくぐり戸を開いて丁重に迎え入れた。この京で新選組副長を怒らせては、明日から商売が出来るという保証がないのだ。
「すまんな。」
 歳三は如才がないから取り合えずそう言ったが、入って来た二人連れが、行灯の灯りに照らして見れば、揃って着衣をまだ新しい返り血で濡らしているのである。客として接待する時とは違い、ぎょっとするのも迷惑なのも当然だろう。この家の女子供は、震え上がって早々に奥へ逃げ込んでしまったらしい。店先には、四十前後の当主と番頭、それに手代が二人、困ったものだという顔で出迎え、二人の座る場所を作って、遠巻きに囲んでいる。
 いや、婦人も一人いた。
「あの……こちらさんは、お加減が?」
と、若御寮ンさん、と呼ばれているこの家の嫁が、おずおずと総司を見てそう言った。若いといっても三十は越しているだろう。自分より年下の総司の顔が、この暑いのに、夜目にも真っ青に見えるほど血の気を失っているのに気がついたらしい。
「え。」
 総司が店に入って初めて、ふと声を出しつつその女のほうに振り返った。歳三がすかさず、
「ああ、そいつは風邪気味で、無理に動いたのがこたえていてな。」
と返事をしてやった。
「汗で冷えておいやすのやろか」
女は頷いて、一度奥に入ってゆくと、少しして茶を二つ、総司と歳三の為に運んできて、
「どうぞ。暑い時に熱いもんで、すんまへんけど。」
先ほどより幾分やわらかい声音で茶碗を差し出した。普段どおりに茶をいれている作業の間に彼女も落ち着いたのかもしれない。
 総司は、
「ああ、すみません」
と頭を下げて、程良い温度に保たれた煎茶をこくり、と一口含んだ。次の瞬間、
「うまい。」
驚いたような声をあげた。葉茶屋だから、茶がうまいのは当然のようでもあるが、正直な若者だから正直に感動したのだろう。
「そうどすか?おおきに。」
つられて若女将もふ、と笑った。
 その頃まで歳三は店の男達に色々と指図をして、屯所や会所、町役人など、必要な場所への使い等を手短に依頼していたのだが、総司がその話の一段落する間合いを見計らって声をかけた。
「土方さん、お茶をいただいたらいかがですか。うまいですよ。」
 歳三は一瞬きょとん、としたがそれもそうだ、と思い返して、
「では、すまんが頼む。しばらくここで待たせてもらう」
男たちにそう言うと、総司の横に腰掛けて茶を一服、同じように飲んだ。
 ふわり、と舌先に甘味を感じるほど、まろやかな感触と豊かな茶の芳香が広がった。
「……なるほど。うまいな。」
「ね?」
総司は、自分が言われたかのように微笑した。若女将は少し離れてつつましく座っているが、つい、誉められて嬉しそうな顔をした。
「ほなお代わりを持って参じまひょ」
と言って女が奥に入ると、総司が、隣の歳三に言った。
「会所の人を、ここのおかみさんの所へ修行に来させなくてはいけませんね。」 先程の、お世辞にも上手とは言えなかった茶のいれ方の事である。
「馬鹿。会所とここじゃ、使っている葉が違う。」
 歳三はごく当然の事を言った。もともと商売で扱っている上に、新選組という事で特に上物の茶を選んで出したに相違ない。町役場的な会所で、日常そんな高い茶葉が使えるはずがないのだ。
「いや……きっと、心のこめ方が違うんですよ」
総司はそんなふうに言った。たった一杯の茶でも、具合の悪い総司に気づいていれてくれた、その細やかな心配りが味に出ている、と言いたいのだろう。
「そうかね。」
と歳三は逆らわずにおいて、
「しかし、もともとこの店の茶はうまいのだ。だから俺が用足しをしている。」自慢にもならぬことを言った。歳三は酒にこだわるより、普段使いの出来る煎茶のほうにうるさく、時折ここで求めた宇治茶の葉を進物などに使っている。そのお陰で、こうして急場の用事に上がりこめたわけでもあるのだが。
「そうですか。」
 先刻よりずっと落ち着いたとはいえ、まだ顔色の悪い総司も、今日はいつものように逆らわない。
「では私も……真似をする事にしようかな。」
呟いた。
「ああ、お光さんに贈ってやるといい」
「そうします。」
 その時に先程のおかみが戻って来て、また男たちとの話で席を離れた歳三を抜きにして、総司と世間話を始めていたらしい。
 
 
 思わぬごたごたで、屯所からの出迎えと共に帰した総司より遅れて、歳三が新選組の屯所に戻った時刻には、総司は着替えて、疲れきった体を布団に横たえていた。が、眠ってはいなかったらしい。
 歳三が障子をあけて覗き込むと、お帰りなさい、という声が暗がりから発せられた。起きているなら、と歳三は部屋の中に入った。
「雨に降られませんでしたか?」
「いや、やんでから帰った。かえって、少し涼しくなっていい。今は月が出ている。」
「それは良かった。」
 総司はほっとしたらしい。あの葉茶屋にいる間にぽつぽつと落ち始めた雨が、ひとしきりさあっという音が室内にまで聞こえるほど、本降りになった時間があったのである。
「私のせいで、申し訳ありませんでした。」
「いや、役人に任せて来たから片付いたよ。それはいい。」
 捕らえた一人の処理も含めて、歳三の事だからうまく事を進めたのだろう。総司は頷いて、
「はい、有難うございました。」
と、素直に礼を述べた。歳三は灯りをつけてからその側に胡座をかくと、少し厳しい顔をした。
「今朝の人、についてまだ聞いていないな。」
「ああ……」
総司は体を起こした。
「斬ったなら斬ったでいいが、一言言っておいてもらわねば困る」
 新選組が路上で人を斬れば、隊務に関わる事にもなるからである。この点、副長の土方歳三が隊ではもっとも口やかましい、といってもいい。
 だが、答えは予測したものとは少し違っていた。
「斬ってはいないんですよ。」
「そうか。」
「今朝……ちょっと散歩に出かけた先で、物売りの子供をいじめている人がいましてね。」
とは、行商の仕事をしている子のことであろう。この京にも、有名な大原女(おはらめ)や白川女のみならず、担ぎ売りで往来を行き来している職の者は多い。事の起こった町の名を聞いて、歳三は、総司の言う「散歩」は気晴らしではなく、薬をもらいに通っている医者への道である事を悟っている。そうか、こっそりとでも通っていたのだな、と逆に安堵したくらいなのだが。
「土佐浪士か。」
「ええ。気の毒に、難癖をつけて、代金を踏み倒そうとしていたものだから。」「なるほど。」
「かわりに払ってやったって良かったんですけど……」
 総司はそこで一息ついたあと、
「喧嘩しちゃいました。すみません。」
と言って、照れたように笑った。
「鼻か腕の一本でもへし折ってやったか?」
「さあ……怪我の具合はわかりません。」
 総司は頭を掻いた。多少手荒な真似をしたらしい。昔は短気で近隣に名を馳せた青年である。
「その時に、新選組の沖田だと?」
「ええ、まあ。」
 益々恐縮したような顔をした。黙っているのも癪に障るほど、相手に無礼な言動があったのかもしれない。
「土佐の高知の、と大声で歌いながら、陰に回れば子供相手に小銭をかすめるような真似をするのがそちらのお国柄か。同じ浪士でも、新選組にはそこまで卑怯な奴はいませんよ、とまあ……はは、これじゃあやっぱり、喧嘩を売ったようなものですね。」
「ふむ。」
 そうでなくても、土佐者は新選組に仲間を斬られて憎しみを抱いている連中が多い。新選組の沖田総司と聞いて、相手が気色ばんだのは当然であろう。
「まあ、法度にてらすほどの事ではなさそうだな。」
 歳三はひとつ、ふん、と息をついて、
「そんな事で四人も死ぬとは馬鹿な奴らだ。」
と、苦々しい顔で言った。仲間を辱められたと思ったにしても、義侠心の使いどころが間違っている。歳三自体、間違ったことは大のつくほどに嫌いなのだ。
「良かった。おとがめ無しで。」
 総司はいつもの軽口に戻っている。
「事情はわかった。寝ろ。」
 歳三もいつもの切り口上で言うと、立ち上がりかけ、ふと廊下に出る一歩手前で振り返り、
「総司。……お前、休息所を持たんか。」
と、思いついたように言った。
「ええ?」
 姿勢を直して布団に横たわっていた総司が驚いて声をあげた。
「何ですか、薮から棒に。」
 くっくっと笑って、ついでに軽く咳をした。
「女手が必要なら、俺が見繕ってやる。」
「ははは。土方さんが冗談とは珍しいな。」
「冗談ではねえ、真面目な話だ。」
「私は別に、土方さんみたいに、北野や島原の綺麗どころになんか、近寄りたくないんですよ。」
「何も玄人じゃなくてもいい。女手と言ったからって、若い女じゃなくても構わん。」
「え?」
 総司はそこまで聞いて、ははあ、と思い当たったような顔で黙った。しかし、またいつものように微笑してから、
「ご遠慮しておきますよ。私はね、屯所にいるほうが落ち着くんです。」
「本当かね。」
「ええ、本当ですよ。」
 再び闇に戻った部屋の中で、総司の声だけが明るい。
 歳三は少し黙ってから、
「……なら、いい。寝ろ。」
と無愛想に言って、障子を閉めた。おやすみなさい、という声が、ごく弱い月を受けてほの白く光る障子を通して聞こえてきた。やがて咳が静まり、寝息だけが聞こえてくるようになるだろう。
 歳三がなぜ唐突に、女っ気のない総司に、他の幹部が妻や妾を住まわせている「休息所」などを勧めたか、については理由がある。先刻の葉茶屋で、若女将と話している時の総司に、ふと郷里で姉のお光といた時のと同じ種類の表情を見いだしたからである。
 医者の帰りに、珍しく気が荒くなり、行きずりの浪士を打ちのめしたらしい事。
 その医者の家に好きな娘がいるらしいのに、その事は隠し立てて、先に何の縁もつなごうとは考えていないらしい事。
 体の不調で帰路を急いでいたのに阻まれた時の、激しい怒りにも似た剣の裁き。
 そして、その後で垣間見た、人の、ことに姉にも似た年頃の女性から受けたやさしさに、ほっと気を許した時の顔。
 この点と線を結んだからこそ、総司には、心きいた看病の女手を置いた、文字通りの「休息所」を持たせたらどうか、と思ったのだ。色ごとの相手を見つけてやる、といってもその方面ではからっきしの総司は、きっと裸足で逃げ出すだろう。
――― 忙しすぎるんじゃありませんか?……人が心配して言ってるのに。
――― 雨が降ると、どうもこう、具合が悪くなるんです。
――― 私はね、屯所にいるほうが落ち着くんです。
 いちいち本当の事なのだろう。総司はそうやって、けろりと笑っていたり、長い病と付き合ったり、自分の事を後回しにしながら、明日からも新選組の中で日々を暮らしていくのだ。
(ここがあいつの居場所なのかもしれんな。)
 歳三はふと、夜更けの空間に浮かび上がる西本願寺の楼を斜めに見上げながら、そんなふうに思った。
 そして、俺も今日は少しゆっくりと茶でも飲んで、書き掛けた書状の残りを仕上げてしまおう、と、数度瞬きをしてから、自室に戻っていった。


                          (了)
<2008/4/2(水) 21:39 幕末維新新選組>

小説入口

屯所入口
まろやかリレー小説 Ver1.20a

この小説は幕末維新新選組の著作物です。全てのページにおいて転載転用を禁じます。
Copyright©All Rights Reserved by Bakumatuisin Sinsengumi