逃 げ 水

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   ◆逃 げ 水◆

隊士の間で密かにつぶやかれている言葉がある。
『鬼の副長』『青き血』
そう、多摩時代の土方歳三を知らぬ者らの陰口である。

土方歳三は武州日野の豪農の三男として生まれた。
勿論、農家でも嫡男以外は嫡男のもとで小作人として一生涯を終えるのか、
養子に出るか、選択はそれぞれである。
土方家は、歳三がこの世に出る前に父が他界したために子に引き継がれる。
だが嫡男である長男が盲目の為、次男が引継ぎ、
歳三は、お約束どおりに丁稚奉公に出された。
兄は歳三に自立を望んだのである。
結果的には二度奉公に出ているのだが、
奉公人としての才は歳三には見出されなかった。
歳三は短気である。そのうえ理不尽が嫌いである。
下につく者は、上からの理不尽も抑えねばならぬ。
勿論、歳三も分かっているが、歳三は商家の丁稚での生涯を終えたくは無かった。
しかし歳三に望みがあった訳ではない。そう、夢中で模索していたのである。
土方家秘伝の薬、石田散薬の行商をしながら。
歳三は二度の奉公を駄目にした為、肩身が狭く、歳三を幼少から可愛がって
くれている姉のぶの嫁ぎ先、佐藤彦五郎の世話になっていた。
そして歳三の運命を定める出会いが訪れるのである。

  その年も暑い盛りだった。
「あんたが歳三さんか、噂はかねがね聞いている。」
そう言ってからりと笑った男の歯が、日に焼けた顔の中でそこだけ白く光って
いたのを、歳三は奇妙なほどにはっきりと覚えている。
 今、歳三とその男は、佐藤屋敷の井戸端に立っている。
歳三が薬売りの仕事から戻って背中の荷をおろし井戸の水でもかぶろうかと
思ってきた時と、その男が同じ屋敷の離れにある剣術道場でひと汗かいて、
それを洗い流そうとやってきた時が、ほとんど同時だったのだ。
「どうせ、ろくな噂じゃねえだろうよ。」
歳三は悪びれた口ぶりでぼそりと答えた。
初対面の、それも男に対しては必要以上に無愛想なのは、自分の短所だと承知
しているふしはあるのだが、それを直そうとはしない。俺は俺だ、敵か味方か
わからねえやつに、愛想なんか振り撒けるもんか、というひねた根性を持っている。
 だがその男は歳三の憎まれ口を意に介さなかったようで、
「いや、俺からみりゃ武勇伝だ。」
と、冗談とも本気ともつかぬ声で言った。
 この多摩近辺で、日野の大名主の義弟、または石田村の「大尽」
(農村で使われた通称、屋号のようなもの)の末っ子が噂になった最も
有名な話といえば、十一で奉公先を飛び出し、夜道を歩き通して
実家まで逃げ帰ったことと、十七で奉公先の女と懇ろになって
しまったのがばれて、即座にクビになったこと、の二つに決まっている。
それをこの男は「武勇伝」だと言ったのだ。
「嫌味か」
 歳三は、癖のある目つきでじろりと男の顔を見返した。その視線に、わずかな
悪意がある。
「いや、どっちも俺には出来ねえだろうからさ。」
生真面目な返答だ。
 男、といってもまだ完成されたものではなく、歳三の一つ年長というだけの若者
であったが、印象としては、男そのものという、まるで夏草の匂いがむっとたち
のぼるような、奇妙に生々しい生き物が一匹、紺の稽古着を着てそこに立っている
感じだった。
 やや傾いたとはいっても、ほこりっぽい土からの照り返しが陽炎を作るほどに、
田舎屋敷に注ぐ日差しが熱い。一刻も早く冷たい井戸水を使いたいのは二人とも
同じだった。
 だがそのやりとりの直後に、若者は何気なく先に釣瓶をとって、井戸の水を桶いっ
ぱいに汲み上げた。そして歳三には挨拶もなく、両手で水をつかむようにして勢い
よく顔を洗っている。しぶきが歳三の足の甲にはねた。
「………。」
 まあ、確かにそちらは客だし、自分はこの家の居候だから譲るのが当然かも
しれないが、
(お先に、くらいは言うのが筋だろう)
 歳三は、後年にその性癖が色濃く出た通り、物事の順序や筋を守るということに
関して厳しい。冷水を心地よさげに使う相手の様子を横目にして待ちながら、つい、
その油断した後頭部を拳で殴ってやりたい、という空想を浮かべた。
 ところが、彼は若い犬が毛を震わせるようにぶるぶるっと顔面の水滴を
はらったあと、再び桶一杯に、力強く井戸水を汲み上げて地面に置くと、
「お先ですまなかった。さあ、どうぞ。」
と歳三に示して笑みを見せたのである。
 歳三はなぜか、あっ、とみぞおちに拳を当てられたかのように感じて、次の瞬間、
目の覚めるような思いでそいつの姿をまじまじと見た。
 角ばった輪郭に鋭く切れ込んだような精悍な瞳。身のうちから溢れ出る力を漲ら
せた、強い骨柄。惚れた、というのが正解かもしれない。
 それが後年近藤勇と呼ばれた、生涯無二の宿縁を持つ男と歳三との出会いであった。
 それからどのようにして、この多摩育ちの青年二人の仲が良くなっていったのか、
歳三にはあまり記憶がない。たぶん、外見とは反対に人懐こい勇のほうが、これも
外見に合わず頑なな歳三に会う度に親しみを寄せてきて、いつの間にか親友、という
ほどになっていたのではなかったか。
 まあ、気がついたら一緒にいた、というのが感想である。
 勇は妙に物堅い若者で、ことに近藤道場の後継ぎ、ということになってからは、
武ばかりではなく文の修行にも勤めた。幸い、多摩には佐藤彦五郎の他にも、
近在に響いたほどの蔵書家、小野路の小島鹿之助ら、学者肌の名主、豪農たちが
いて、その伝手をたどることで、勉強の機会は求めれば容易に得られた。
 勇にも、ゆくゆくは天然理心流宗家として、世間からただの百姓剣術屋とは
呼ばせない、という若い気負いがあったのだろう。
 歳三は、どうやら勇の学問熱に触発された形で、書だの俳句だのという、文字の
楽しみに目覚めたという点はある。勇ほど熱心にはなれなかったが、一通りの
ところまではやったと思う。 何しろ、根が負けず嫌いなのだ。
 ただし、勇のほうがからっきし弱かった部分については、歳三が教えた。
 彦五郎や、実家の長兄にねだった小遣いを握って、出稽古に来た勇を待ち受け、
府中の女郎屋に初めて連れていってやったのが歳三だった。下戸の勇が武者震いを
押さえるために、猪口一杯の酒をあおって、真っ赤な顔で薄暗い階段を登って
いった時、歳三は帳場で遣り手と顔を見合わせてくっくっと笑っていたことを
覚えている。
「歳さん、今夜のことは、誰にも内緒だぞ」
夜明けに近い畦道の上で、勇がくそ真面目な顔で念を押した時に、
「おうよ」
歳三はひとり余裕のある返事をして、女郎にもらった手拭いを振ってみせた
ものだ。その約束は、ずっと守り続けている。
 歳三が、勇への対抗心で黙々と撃剣修行を続けながら、肝心の天然理心流への
正式入門が遅くなったのも、
(あいつの後から同じもんを習ってたんじゃ、そうやすやすと追いつけっこねえ)
という気持ちがあったからである。
他流試合を禁じた門下生の一人になるよりも、薬売りの稼業を幸い、あちこちの
道場に足を運んでは、その長所を取り入れることを好んだ。
 一つ事を執念深く追っていくよりも、多種多様の中から自分に合った手法を
選び出す才能に、歳三は確実に勇よりも長けていた。
「歳、いつまでも根無し草じゃ埒があくめえ。意地はってねえで、ちゃんとした
弟子になりな」
 勇の養父、近藤周斎の鶴の一声がなかったら、二十代も半ばになって入門という
形をとったかどうか、わからない。
 剣技と位では、ずっと年下の内弟子である沖田総司(幼名惣次郎)にはかなわな
かったが、
(何、喧嘩は勝ちゃいいんだ。今に見ろ)
とひそかな自信を持っていたところがある。
 歳三の剣術行脚の経験がなかったら、やはり後年に、多種多様の流派の長所を
とりこんだ、新選組独特の戦法が生まれたかどうか、も、わからない。
 ともあれ、勇が無事に四代目宗家となり、弟分の沖田が塾頭になっても、歳三は
相変わらず、どこか流れ者のような自由な孤独の中にいた。
 とりわけ、勇に初子が生まれて、それが女の子だったためもあり、近藤家に華やいだ
気分が訪れていた時に、歳三はどこか、さめた目でその顛末を見ていた。
 乳臭い赤ん坊をあやして、目尻を下げている勇の顔を見るのは、どうにも嫌だった。
「俺は冷たいのかね」
 試衛館の同室で布団を並べていた総司に、ふとそう言ったことがある。
 隣の総司は、え?というとこちらへ眠そうな顔を向けてくれた。
「人よりも血が冷てえんじゃねえか、と思ってさ」
「まさか」
総司は、くすくすと笑い出した。
「何がおかしい」
「そんなんじゃありませんよ。勇先生に赤ん坊が生まれて、土方さんがあまり、
おめでたがっていられないのはね……」
「む。」
「苦手なんでしょう。そういうのが」
総司は訳知り顔で言葉少なく言った。
 解説すると、歳三には生まれた時から父がなく、母のこともろくに知らない。
両親と幼子、という愛情の形に対して無知である。だから、父となった勇を見ても
理解が出来ないから、どことなく敬遠するのだろう、ということらしい。
 歳三の兄や姉に子が出来た時は物の順番通りだと思っていても、勇は歳三と長く
肩を並べてきた男である。そんなことも理由のひとつにあるかもしれない、という
ような事を総司は言った。
「あるいは焼餅かなあ……」
「馬鹿野郎。」
「だって、勇先生がおタマちゃんばかり可愛がるのが、面白くないんでしょう。
それは焼餅かもしれない」
「乳飲み子に焼餅焼いてどうするよ、第一、男どうしで気色の悪い」
「男でも女でも、好きな人の目がよそへ向くのはちょっとやけるもんですよ。」
「お前はおタマちゃんを見て、手放しで喜んでるじゃねえか」
と、歳三は言った。同じ親なしで育って勇が好きでも、という意味である。
「ああ、そりゃ私はやさしいから」
総司はくっくっと笑っている。この笑いが出るとくせもので、話は本題からそれて
いくことが多い。
「やめた。」
馬鹿馬鹿しい、という顔で、歳三は布団をかぶりなおした。
横の総司が、
「土方さんは冷たくなんかありませんよ」
と、欠伸を交えながら言った。
「ん?」
「熱くてやけどしそうなくらいです。」
「………。」
「ただし、皮のほうも厚いから、よほど近づいてみなけりゃわからない。」
「面の皮か。」
「………。」
返事の代わりに、寝息が聞こえてきた。
 

(焼餅、か?)
 京の新選組屯所の副長室で、常備の鉄瓶から湯を注ぎ、一服の茶に懐の暖をとり
ながら、歳三はふと、今までの古い回想と、雑然と重ねられた各種の書状に目を通す
作業をやめて視点を室内の別の場所に移した。
 床の間には、ごく小ぶりな楓の盆栽が、葉を濃紅色に染めている。それだけがこの
部屋の中でわずかに華やいだ色彩と言ってもよく、あとは男の部屋らしく殺風景な
ものである。
 歳三は昔、一人だけ赤い面紐を用いるのを好んだくらい、本当は華やかな原色を
好んでいる。ただしそれも見せ方へのこだわりがあり、総体として地味な中に、
ぱっと一点、目を引き寄せるように鮮やかな使われ方を洒落心として好む。
 新選組隊旗の赤、についてもそうした歳三の好みに合っている。
 表だって派手さを表現するのは特に江戸では野暮だ、と呉服屋に奉公した頃に
手代から教えられたことが、頭のどこかに染み付いているのかもしれない。
 それに対して、局長室の同じ場所には、紅葉の枝の他に、白と黄の菊や千両の
枝葉など、秋のとりどりの色合いが美しく盛り込まれた花瓶が置かれているはずだ。
 近藤は朴訥な性質をもちながら、意外なところでは華やかな趣味を好む。
 たとえば、江戸の渋好みを教えられてきた歳三が、真っ赤な京友禅の振袖に
びらびらの花かんざしを差して歩く京娘の姿に眉をひそめたりしても、近藤は
それを「いやあ。歳、見ろ。綺麗だな。」と無邪気に目を細めていたりする。
 今の屯所の中には心のきいた小者がいて、時々は二人の好みを考慮した床の間の
装飾を、掃除のついでにちゃんと配置してくれている。こうした気配りは、やはり
都ふうの雅びに慣れた地元の者には誰しも及ばない。近藤と歳三の趣向の違いを
きっちり見抜いているところなどは流石なものだ、と感心する。
(女遊びでも追い越されたからな。)
 若い頃には逆立ちしてもその方面では歳三には追いつかなかった近藤が、京の都に
のぼってからの「急成長」ぶりには、歳三自身苦笑したものである。
しかも、そこそこに金のかかった、都の水に磨きぬかれた「出来上がった女」を
手元に収集することに熱心なのである。地味な女房から解放されている近藤が
次々に花街の太夫だ芸妓だ、という女たちに手を染めたり囲っていくのを見ても、
近頃の歳三は何とも思わない。趣味趣向が違うのだ。
(とすると、俺は勇さんに焼餅を焼いているわけじゃない)
 彼は彼、俺は俺なのだ、と思うようになっている。何をやいたところで
始まらない。もっと若い頃に、所帯持ちとなった勇に複雑な心境で接したほど
今はやわらかい心ではない。
 紅葉の枝に障子越しの光が差し込んで、小さな葉の剣先の一つずつが影を作った。
その陰影を見ながら、こと新選組にあって近藤勇と土方歳三は、光と影、
陽と陰であってよいのだ、と歳三は自らの考えに相槌を打った。組織の中で
局長と副長がことごとに張り合っていたら、隊の統制は成り立たない。常に
光を浴びるのは近藤であり、影としてそれを押し上げてゆくのは歳三でよい。
所詮は追いつけぬ、と焦った頃の未熟な対抗意識はとうに消えている。
その時、
「副長。」
と、思案を破る呼びかけが廊下から聞こえて、歳三は書状をひとまとめに
手文庫にしまってから、「入れ」と低い声で答えた。
 会計方の岸島芳太郎が礼をして入ってくる。
「お申し付け頂いた件ですが……」
と、これも低い声でのひそやかな相談ごとがしばらく続いた後、岸島はふと、
「この件、早速に局長へお伺いを立てたほうがよろしいでしょうか。」
と窺うような目を向けた。
「いや、それには及ばん。」
 歳三は、
「俺がどうにかする。ご苦労でした。」
と言って、やや安堵した顔の担当者を引き取らせてから、つい机に頬杖をつき、
「……三十三両二分、か。さてどうするかな。」
独り言を漏らした。こんな金繰りの事など、副長の自分が采配すればすむ
雑事なのである。今の新選組にとっては、右から左は無理にしても、頭領に
聞かなければ動かせないような金額ではない。
(あと一分でキリよく三つ並びが揃ったのに。)
と代金の明細を見ながら、歳三は数字の並び方に小さな不服を持った。こんな
中途半端な請求をされる位なら三十両、三十五両、ときっぱり突きつけられた
方が、貰って小気味が良い。もっとも、高い方で支払う気などはさらさらないが。
(俺は気が細かい。)
 ふと、年上の丁稚から頭をひっぱたかれながら算盤を弾いた日の事を思い出して
苦笑しながら、近藤はこんな細かい事には気づきもしないだろうな、と
凝った首を一回りさせて、歳三は再び手文庫の蓋を開いていた。

 それから十日ほども過ぎた頃、近藤勇は黒谷へ向かう支度を整えて羽織の紐を
結びながら、その場にいた歳三一人に向かって、
「歳、そういや平戸屋のあれ、どうなった。」
と、まさに今思い出したという顔で聞いた。
 歳三は一瞬きょとんとしてから、
「ああ、あれか。済ませておきましたよ。」
とさりげなく答えた。近藤は眉をしかめて続けた。
「そうか、やっぱりお前さんのところに回っていたんだな。」
払いの請求が、である。
「結構高くついたろう、いくらだった?」
と、近藤はキュッ、と扇子を絹の帯にはさむ衣擦れの音をさせながら聞いてくる。
「三十三両二分、と言ってきたよ。」
「そんなにか!」
近藤は正直に驚いた顔をして、
「そりゃあちょっと高いな。うん、思ったより高い。京は諸色高騰とは聞いているが、
三十三とは高すぎる。」
「と、二分だ。」
歳三は、わずかにからかった。
「尚更だ。」
近藤はむっと口をへの字に結んでから、
「平戸屋め、店ではまけると言っておきながら。くそ、やはり値を聞いて少しは
叩いてやればよかった。」
悔しそうな顔をした。
「新選組局長近藤勇が、商人の店先で金の話や値切りの相談なんかの細かい話をする
のは、あまり見ばのいいもんじゃねえ。あんたも、いや局長も平戸屋も間違っては
いねえと思いますよ。」
「しかし、それにしても迷惑をかけた。」
 近藤はすまなさそうな顔をした。
「局長、俺が三十三両二分、と言われてきっちり払うようなしおらしい奴だと
お思いですかね。」
「え?」
不思議そうな声を出してから一拍置いて、
「なんだ、ではいくら払った。」
「切り餅一つで済ませましたよ。海老屋よりは安い。」
と、いうのは二十五両である。平戸屋は請求より八両二分も損をしたことになる。
「なんと。」
 近藤はぽかんとしてから、弾けるように笑い出した。
 歳三が、外に聞こえるのではないかとちょっと周辺を見渡したほどの高い笑い声
である。案外笑い上戸なのだ。
「それは、平戸屋も災難な。歳よ、おめえは悪人だなあ。」
しみじみと感心するように言って、目尻についた笑いの涙を指でこすっている。
「だから、間違っちゃいねえと言ったでしょう。もっとも、こっちにとっては、
だが。」
歳三もつられて笑いを漏らした。近藤に請求が行っていれば、三十両はまず手堅く
払ったところである。
「うむ。歳さん、色々とつまらん事で手間をかけさせてすまないと思っている。
苦労をかける。」
近藤が歳さん、とさんづけで呼ぶ時は、遥か昔の友達の情にふと戻っていることが
多い。声と一緒に、つい頭を下げた。
「局長がそう簡単に、頭を下げちゃいけませんな。」
 歳三は笑いを消し、渋い声に戻って言った。
 これを人前でも出されると困るのだ。日頃からの意識が肝心なのである。
「そうか。」
と、こちらは頓着がない。
「適材適所というからね。」
 歳三はそう言って首を振ったが、内心、近藤のこういうお人好しなところが一番
好きなのは自分なのだ。もっとも、それが男の義だと思っていて、好き嫌いだとは
意識すらしていないが。
 歳三は、近藤を玄関の式台まで送るために、共に部屋を出た。床の間の花はまた
少し冬らしい趣に変わっている。
 

 ところが、こうした内々のやりとりでは済まない事件が一つ、新選組に起こった。
それが後々、土方歳三について、「もしや血が青いのではないか」「副長は鬼だ」という
隊士の風評を再燃させることになる。

 
「士道最も不覚悟である。」
 歳三の、聞く者すべてが背中に冷たい水を浴びせられたように感じる声が、
会計方用部屋に響いた時、あたりはしんと静まり返っていた。
 直接にその言葉を聞いた男は顔面の色を失って、唇を震わせていた。
「岸島君、委細はご覧の通りだ。河合君を処断まで禁足しておくように」
そう言って歳三が畳から立ち上がった時、這いながら袴の裾を掴んだ手がある。
会計方の古参隊士、河合耆三郎であった。
 その途端、河合の膝がすぐ前に並べられた現金に当たって、乾いた金属音と
ともに小判が散らばった。
「わっ……わ……私やありません。」
そう言うのがやっとであった。歳三を見上げる幽鬼のような目を見た瞬間、歳三は
右下の瞼をひくり、とひきつらせた。怒りが頂点に達した時の癖である。余程、
そのまま蹴りを入れてやろうかと思った。衆目がなければそうしたかもしれない。
「信じて下さい、金を盗んだのは私やありません。」
「くどい。」
 歳三は片手で河合の腕をぐっと握って引き剥がすと、これも人のものとは思え
ないような強い光芒を持った瞳で、真下の蒼白な顔をにらみ据え、
「せめて今からでも、武士の心になることだ。」
 潔く死ね、という宣告である。岸島や他の監察が我に返って、その場に崩れた
河合の身柄を捕らえる事に気づくまでには、なお数秒の時間を要した。


(金を盗ったか盗られたか、という事を言っているんじゃねえ。)
 ピシリ、と障子の音をたてて自室に篭ったあと、歳三は不機嫌に黙っていた。
 局長の近藤勇が大坂に出張中という時期に、あろうことか会計方でも最も
古くから、最も有能であるとして信頼の置かれていた河合耆三郎が、隊の公金に
五十両の不足がある事を秘匿していた。たまたま、歳三が大坂の近藤に送金の
必要があって河合に高額の出金を命ずることがなければ、またその瞬間に、
商人あがりの河合がさっと色をなして目を伏せることがなければ、
発覚はなおも数日遅れて、或いは違算そのものが見つからなかったかもしれない。
 河合は播磨の裕福な商家の息子で、実家に飛脚を立て、不足の金額をそこからの
送金で埋め戻しておこうと手配していた矢先のことだったのである。それがつい
挙動不振のもととなって、副長に看破される事となった。
 五十両の遺失については、河合は自分には身に覚えがなく、誰かの出納記録が
誤っていたか、盗まれたものに違いない、と主張し、それを表沙汰にすることを
恐れて我から気を配ったのだ、と半ば泣きながら申し立てたのが先ほどの場面で
あった。
 自分に落ち度がなければ、何故それを、真っ先に副長の部屋へ告げて来ない。
上下の規律を無視し、独断で金策を行い、明らかにすべき事実を隠して、目先
だけを誤魔化してあとは知らぬふりを通そうとした。金を盗まれた、という
証拠のない話を申し立て、他人に過誤をなすりつけ、誰かがやったことだから
自分は悪くない、と命乞いをした。その点が武士として覚悟がない、と糾弾
されるに至ったのである。
 勿論、副長の裁断に対して、隊士たちが全く素直に同感したわけではない。
河合はちょっとした手元不如意で困っている者には、こっそり自分の財布から
小遣いを用立ててやったりして、そうでなくとも算盤に関する事はよく出来たし、
ぼんぼんらしい人のよさもあったから、隠れた人気はあった。同情的な見方が
強かったのも勿論である。
 が、歳三は隊内のそうした空気を、いっさい受け付けなかった。
「せめて局長にご相談なさってからでも」
と、同僚の岸島などがこれも生唾を飲みながら伺いを立ててきても、監察が
「本当の下手人を捕らえるか、播磨から不足金が届いた場合には、一命だけでも」
と折衷策を提案しても、ことごとくはねつけた。
 一度上部から発したことを、ああそうか、といってやすやすと翻すことは、
副長の土方歳三に出来る相談ではない。
 周囲が万策尽きて諦め、河合の斬首が執行されたのは慶応二年二月十二日の
ことである。死に様も、あまり武士らしいとは言えなかった。
 遺族が数日遅れで事態を聞き知って、猛烈な抗議に出てきた時も、亡き倅の
冤罪を泣く泣く訴える哀れな父親の言葉にも、歳三は一切耳を貸さなかった。
 

「わしが屯所にいれば、河合は最初から正直に申し出たと思うか。」
 わが子を持つ近藤勇が、ふと歳三に尋ねたことがある。
「いや。」
 歳三は黙って首を振った。過去の処分に、局長の態度が揺らいでよいはずはない。
 たて続けに、近藤の長期出張中であろうとも、歳三は隊士の非違については、
即座に処分を下している。
 広い西本願寺屯所の暗がりで、
「土方副長は鬼やな。あれは、とても人の出来ることやないで」
「ひょっとして、切れたら青い血が流れてるんじゃねえか。」
会計部屋には副長に恨み言を言いながらすすり泣く河合の亡霊が出る、などと
いうまことしやかな噂まで流れたことがあっても、歳三は淡々と、不機嫌な顔で
隊務を続けていた。
「歳、わしのために、そんなに悪人になるな。」
 近藤の人の良さがついぽろりと出て小言になったことがある。
「あんたのため?」
 歳三はつい、いつになく地言葉のまま言い返した。
「そうだろう。お前は昔からいつもそうだ。わしが一緒にひっかぶらなければならん
ような面倒や悪評まで、自分一人が買って出ようとする。気持ちは有り難いが、
それではお前が気の毒だし、わしが心苦しい」
「違う。」
 歳三はにべもなく言った。
「どう違う。」
「あんたのためとか、ひっかぶるとか、そんな生やさしいお為ごかしで仕事をして
いるわけじゃねえ。近藤さん、あんたこそ俺を見くびってもらっては困る。」
「見くびっているつもりはない。しかし……」
 近藤は不快げに黙った。こういう反論をする時の歳三は、煮ても焼いても
食えない事を長年の間に知っている。
「悪人で結構だ。俺はそんな事を言われるのにゃ慣れている。」
「………。」
(あんたは綺麗すぎる。どっかしら他人にやさしい。それは良い。だが甘い。)
と言えば自ら上を批判することになる。だから、歳三はそこから先は言わない。
 

 少し歳月が進んで、伊東甲子太郎一派の分離独立があったり、屯所の移転が
あったりと、ごたごたした雑事が一段落して、歳三が公用の帰りの夕まぐれに、
鴨の川床に涼をとっていた時のことである。
 今日の供は沖田総司一人であった。
 このところ持病が進んだせいで、疲れが出ると数日寝たり起きたりしている事が
多い。さほどでもない用事に総司を連れ出したのは、護衛というよりも気晴らしの
意味合いを兼ねている。
 無論、歳三もそう意識はしないまでも、総司一人が連れのほうが、何かと気が楽
という事でもある。
「いい風だな。」
 ふと、歳三は漆黒の髪を撫でる川風を確かめるように、目を細めた。
 横の総司がえ?という顔をして、それからこくりとうなずいた。
「夕日もいいですよ。」
「ん?」
 言われて初めて、落ちようとする日を見た。なるほど、熟した果実のように朱の玉
となった太陽が、西に沈もうとしている。
「なんで朝夕だけはあんなに赤いのかね。」
 歳三の感想に、総司がぷっと吹き出した。
「なんだ。」
「土方先生らしい言い方だな、と思いまして。」
ちっ、と舌打ちして歳三は流れのほうに目を移した。が、すぐに総司の方へ
振り返って、
「どこが俺らしい。」
「ほら来た。」
総司はまた笑っている。
「笑うな。」
「おかしい時に笑うのは人の常ですよ。」
「生意気を言いやがる。」
と、言っても総司も二十六だ。そういう表現が似合う年でもなくなっている。
「何にでもわけを求めたがるところ。」
総司はそんなふうに言った。
「わけ?」
「或いは、何にでも筋道を立てたがるところかな。私なんか、 朝日や夕日が
赤くたって、ああ、 赤くて綺麗だな、としか思わない。」
「………。」
歳三は憮然としている。ただし総司はそれには構わず、
「もし、お天道様が白っぽいまま沈んでいったら、誰も気づかないだろうな。それじゃ
つまらないから、さあ朝が来るぞ、さあ夜になるぞ、ってはっきりわからせるために、
わざわざ赤く、濃くなるんじゃありませんかね。」
「?」
歳三は首をかしげた。
「日の光がいちいちそんな事を考えるもんかよ。下らん。」
「は、は、は。」
勘にさわる笑い声である。が、歳三は日に一度くらいはこの声を聞かないと一日が
終わったような気がしない。
「そういう下らん事を言うあたり、実にお前らしいよ。」
「ほほう。」
「ただ赤けりゃ綺麗だなんていうところは、近藤さんに似ているがな」
「似てませんよ」
「逆らうな。」
「逆らってもいません。近藤先生は近藤先生、土方さんは土方さん。ついでに
私は私ですから。」
総司の話は、いつも明快なようで何となくつかみどころがない。
「近藤先生はね。」
と、とりとめのない話は続く。
「直参取り立てで、肩書きには差がついたが、自分は、本当は歳のほうがずっと
 働きが大きいと思っている。あいつには今の役名じゃ不足なくらいだ。公儀も
わかってない、とこぼしていらっしゃいましたよ。」
「………。」
「そういうところは近藤先生らしいな。私は直参の何々役だの何々格だの、と
聞いても、ああそうかと思っただけですからね。」
 総司ならそうだろう、と思ったが歳三は黙っている。この若者に尋常な出世欲と
名誉欲があったら、今頃は近藤や歳三の配下にはいなかったかもしれない。
 近藤が池田屋の大成功で些か増上慢になっていた頃、
「自分一人が偉くなったように振舞っている」
と、主要な助勤らから会津藩への不服申し立てがあった時も、隊一番の働き頭で
あった総司はその仲間には加わらず、ただ、この忙しいのに内輪もめにも困ったな、
と口をとがらせただけであった。
「近藤先生にとっては、理屈好きの、喧嘩っぱやい、憎々しい面つきの土方さんは、
きっと誰より大事なお人なんですよ。」
 こういう人を食ったような悟り方が時々気に入らないのではあるが。しかし、
このところの総司の病態を知っている歳三は、言いたいだけ言わせてやるかという
気になっていた。
「土方さんにとっては?」
と、総司は無言の歳三を振り返った。
「え?」
「土方さんにとって、近藤先生はどんなお人ですか?」
 夕日の逆光で総司の顔が暗い。歳三はつい、秀麗な目元を細めて聞き返した。
「俺にとっては、か。」
「はい。土方歳三にとって近藤勇とは。」
 禅問答を楽しむように唇の端に笑みをひそませつつ、総司は眼差しばかりは
真面目に向けて、次の答えを待った。暫くの沈黙があった。
 京を遠くから守る山並を画布に、烏が数羽、黒い点景となって横切ってゆく。
 さて俺にとって近藤勇とは何だろう、これは随分と長い長い自問だったよう
でもあり、今初めて考えたことのようでもある。
 歳三は夕刻で少し手触りの感じられる程になった顎の髭の先へ何とはなしに
触れながら、つい総司がそこにいる事を忘れて黙然と考えた。
「にげみず……」
「え?」
 総司が意表を突かれたという顔で、歳三の言葉に振り返った。
「逃げ水って、あの……多摩のあれですか?」
その歳三は聞き返されて初めて得心したかのように、
「ああ。」
と短く答えて頷いた。
 多摩の夏には、逃げ水と呼ばれる現象がよく現れる。蜃気楼のようなもの、で、
暑い盛りには少し先の風景が揺らいで、まるでそこに水溜りがあるかのように
見える。が、無論実体ではないから、歩けば歩くほどに、その水は先へ先へと
逃げて行ってしまい、決して近づく事は出来ない。
 総司も、多摩の日盛りに出稽古の道をさんざん歩いて、同じ原風景を脳裏に持って
いる男だから、言葉は「あれ」で通じるのである。
「へえ……」
と言ったきり、総司も考え込んでしまった。
 少し遠い眼差しになって、たおやかな京の風情にはあまり見られそうもない、
ひと足踏む事に舞い上がる郷里の土ぼこりと、じりじりと照りつけるような日を
遮るものとてない田舎道と、むっと青臭い河原の草むらや、ひょいと畦道に飛び
出してくる、泥のついた蛙や蝮や虫たち、そんな汗まみれの多摩の夏が、やけに
野暮ったく、それでいてどうしようもない郷愁を伴って瞼の裏に浮かんでくる
ような気がした。
 或いは、歳三と総司はこの時、似たような景色を、まるで同じように、眼前の
幻像として結んでいたかもしれない。
「おかしいかね。」
と、歳三が不意に言った。総司はふっと空想から戻った目をして、
「いえ、今度はおかしくありませんよ。」
と、言って、それでも口元で少し笑った。
「今度は、は余計だな。」
 歳三がそう言った時、仲居が新しい酒肴を運んで来て、同じ床の隣に、どこの
誰それが席を取ると言っている、お忍びのところを構いまへんか、と小声で尋ねた。
紀州や尾張の藩邸に出入りしている豪商の旦那が、芸妓舞妓を二、三人連れてくる
らしい。店の名くらいは歳三も総司も知っている。
 構わぬ、来たら挨拶位はしよう、と答えた時の歳三は、先ほど多摩の面影に一瞬
懐かしく浸っていた「石田村の歳」ではなくて、すでに「新選組副長土方歳三」の
顔つきに戻っていた。
 それを横目に見ながら総司はふと、もう少し深いところまで、この男の心情を
聞いてみたかったな、と思いながら、途切れた会話をそのままにして、今届いた
ばかりで、きんと冷やされた小鉢の物に箸を伸ばした。
歳三が、食の細い総司の為にわざわざ頼んだ白身魚のお造りが入っている。
 川の瀬音まで、石田を流れる浅川よりは少し雅やかで、なよげに聴こえる宵闇の
ことであった。


 逃げ水、は音もなく揺らいで遠ざかっていくものである。
 その言葉を総司と話した事すら、あまりの激務に忘れ去っていた歳三が、ふと
否応なく思い出す事になったのは、同じ京ではなく、関東の地に引き揚げて後の
事であった。
「これじゃ足が鈍るよ」
 江戸に暫く滞在した後、幕命により甲府城を押さえにゆく、という甲陽鎮撫隊の
出発の段になって、近藤勇の乗物を見た歳三は、やや眉間にシワを寄せて無愛想に
言った。
 出陣ともあれば、将は当然騎馬であるべきだ、と歳三は思っていたのだが、意に
反して近藤が用意させたのは、長手引戸のついた、大名張りの立派な塗り駕籠だった
のである。空のままでも容易に持ち上がる代物ではなく数名の担ぎ手が必要になる。
勿論、行軍も駕籠に合わせて歩みの遅いものとなる。全くの巡視旅行、というのなら
この格式でも良いだろうが、東征してくる官軍と、どちらが先に城へ入るか、という
急ぎの旅程に相応しいものではなかろう。
「それとも、馬じゃ無理という位に傷が痛むかね。」
 歳三はそうも聞いた。早春の寒気が、昨年伏見で撃たれた肩の重傷にさわる、
という点を考えればこれはこれで致し方ないか、とも思ったのである。
「違う。」
 案の定、近藤はやや、不快な顔をした。
「歳、若年寄格だ。」
 近藤は、機嫌の良い時は多弁だが、逆の時は言葉少なになる。説明が短いのも
そのためであろう。
 有名な話だが、この時の近藤勇は、すでに幕政を放棄した徳川家から、「若年寄格」
という職名と、「旗本大久保大和」という立派な名を貰っていた。一昔前なら大名なみ
である。もっとも、一昔前なら農民の子の浪士あがりが、数年でその待遇を受ける事
など、てんから考えられないが。
 しかし、近藤はやはり、破格の扱いと感激したのであろう。
 新選組の近藤勇、の公用出張ではなく、徳川家直参・若年寄格大久保大和、が一軍
を率いるのである。それなりの格を支度するのが、この男なりの誠意であるのかも
しれない。
 ちなみに歳三もそれに準じて、寄合席格内藤隼人、というご大層な新名称を貰って
いるが、いずれ混乱期のどさくさの一つ、位に考えたほうが良かろうと思っていて、
近藤ほど素直には喜べない。
 名が何になろうと、土方歳三は一個の土方歳三である、という方がこの男の性分に
合っているのだ。だが、その話を蒸し返すとまた長くなるので、歳三は黙っている。
「………。」
「この所、幕威は日ごとに落ちている。民心に徳川家の恩顧を思い出させるには、
この位の体裁は必要だ。」
「長手の駕籠だからといって有難がるほど、民百姓も馬鹿ではねえと思うよ。」
「多摩を通るんだぞ。」
「そりゃ通るとも。甲州街道は多摩を通るに決まっている。」
「近藤勇が、腕をつったみっともねえざまで、郷里の人々の前に行列が出来るか。」
 そっちが本音だろう、と歳三は思った。近藤の傷は戦傷とはいえない。不意打ちの
銃撃をくらって一命をとりとめ、肝心の開戦時には後方の大坂でほぞを噛んでいた
のである。だからこそ、久々の戦列復帰に、更なる見栄えを求めたのかもしれない。
「馬も引いていこう。急ぐとなった時には、駕籠は乗り捨てていただく。」
 結局は、歳三が折れた。
 近藤の中にある武士としての自尊心を傷つけるのは避けたかった。伏見の惨敗を
目の当たりに体験した歳三の中には、武士の体面よりさらに大きなもの、が芽生え
つつあったが、近藤にそれを捨て去れ、という事は出来まい。捨てれば近藤勇は
近藤勇を保ってゆくことすら出来なくなるのではないか、という一抹の怖れ、が
つい、歳三に手心を加えさせた。
 

 懸念は悪い方向で当たった。
 多摩の各所で人集めを兼ねた挨拶回りに近い道程や、途中の与瀬という
山道の辺りで時ならぬ大雪に見舞われ、甲陽鎮撫隊の足並みが乱れに乱れている
間に、官軍は先に甲府城へ入り、接収を終えてしまったのである。
 この報には、流石の近藤勇も色を失った。幕命で城を押さえよ、と言われた直参
若年寄格の大久保大和としては、あり得べからざる失態、といってよい。
「歳、どうする。」
 近藤の四角い顔が眉間の皺で一層険しくなっているのを見て、歳三はちっ、と
舌打ちしそうになるのを危うくこらえながら、
「どうするもこうするも……」
と、仕立てたばかりの洋装の上着をひっつかんでいた。
「どこへ行くんだ」
「城攻めとなったら、この人数じゃどうにもならんだろうさ。援軍を呼んでくる。」
 まずは神奈川菜っ葉隊、と言いながら、気の早いこの男はもう、隊士を呼んで
馬に鞍をつけさせる事を命じていた。
(わしを置いてゆくのか。)
と、口にこそ出さね、近藤が不安な表情をしたのを、見て見ぬふりをしながら、
歳三は考えられる限りの持ちこたえ作戦を示してから、あとは頼む、と馬上の人に
なった。
 銃砲戦の経験者であり、文字通りの片腕である土方歳三を戦列から離すことは
近藤にとって大きな打撃であった事は間違いないが、かといって急場の人や武器を
寄越せ、という難交渉も、代理を走らせてかたの付く話ではあるまい。
 歳三は、残雪を蹴って駆けに駆けた。
(近藤なら、あるいは)
 案外俺よりも立派に、戦場の指揮をこなすかもしれない。どこかに期待をこめて、
歳三は朋友の無事と戦傷を天に祈願した。風が刺すように冷たい。
 しかし、必死の説得も奔走も空しく、土方歳三が数日をかけて戻った時には、
自軍の姿は跡形もなく、得たものは地元の茶店の親父による、
「戦ならもう終わったずら。直参の大将は土佐もんの鉄砲に負けて、お江戸へ
逃げ帰ったちゅう話だよ」
という苦笑を交えた証言だけだったのである。
 江戸へ戻り、わずか一日の戦闘で古傷の破れをもらっただけ、の近藤に再会
した時、
「おお……歳か、ご苦労だったな。」
と、座ったまま見上げた時の近藤の顔を、歳三は忘れることが出来ない。
(別人か。)
と思わず目を疑った程の、生気のない顔色だったのである。
「すまん。」
甲州、武州、相州と、かけずり回ったのみで何の力にもなれず、空手で戻った自分を
恥じた。
「しかたねえさ、勝負は時の運だ。」
近藤はやや大きな口元を開いて笑って見せたが、負けん気だけは人一倍で不屈と
いわれた歳三とは違い、初めての近代戦の敗北で、剣客近藤勇が受けた衝撃は
予想以上に大きかったらしい。
 

 それから少し過ぎた日の午後のことである。
「歳よ。」
 集合場所となった江戸旗本屋敷の縁側に座って、丹精された前栽を眺めながら、
あの時の雪中行軍は何だったのだ、という嘘のようなうららかな日差しに武骨な
手をかざして、空気の暖かみを確かめながら、近藤は言った。
 歳三はフランス製の懐中時計の鎖が少し黒ずんでいるのを気にして指でぬぐって
いたが、声のほうへ目線を移した。近藤は微笑している。
「お前が依田殿の前で、これからの戦は刀や槍じゃあ出来ません、というのを
聞いていた時にな。」
「うん。」
「俺は、理屈の上じゃあそうだろう、と思いながら、その一方じゃあ、まるっきり
そんな事もあるめえよ、とどっかで思っていたんだ。」
「………。」
「鉄砲なんて、異人のこけおどしに過ぎねえ。あんなものは歩兵や足軽が、三日も
いじっていりゃあ使えるようになる代物だ。武士の魂である刀が、良く出来た
おもちゃの前になすすべもねえ、という事はあるめえ、とな。」
「そりゃあ……そうだろうな。」
 歳三は近藤の言葉に頷きながら、その表情を注視した。
「しかし、歳よ。」
独り言のような、聞いて欲しがっているような、近藤の呟きは続く。
「下手な鉄砲も、数撃ちゃ手だれも名人をも負かす、というのは遅まきながら
身にしみてわかったよ。」
微笑は苦笑に変わった。
「よせよ、近藤さん。」
「いや、お前が江戸に戻ってから、鉄砲だ洋式装備だ、と走り回ったわけがわかった
という事さ。やっぱりお前は流石なもんだという事だ。」
「俺はあんたを勝たせる為に動いている。甲州のは、その鉄砲を数撃つ人間が
こっちに少なすぎたというだけのことさ。あんたの虎徹が負けたわけじゃない。」
「お前は諸事、割り切りがいい。」
「そう割り切ったもんでもねえ。」
「ん?」
「俺は俺で、死ぬまで刀を離すことはねえと思っているからね。」
「………。」
 近藤はしばらく黙ったあと、
「わしもそうだろうな。」
と短く言った。
 剣のみで一身を立ててきた男である。近藤から刀を奪ってなお生きよ、とは
誰にも言えないかもしれない。
 歳三のように、柔軟な頭の切り替えはできぬ剛直さが近藤勇の持ち味であり、
その不器用なまでの真面目さが、多くの人間を率いさせてきたのだ。
 しかし、その真面目さが裏目に出る時もある。逆境の時だ。不遇に落ちた時に、
さっと古いものを切り捨てる事は、近藤は苦手であった。
 目の前の庭木の上を、ひらひらと蝶が行きすぎている。黄色い蝶であった。
「歳、蝶だ。」
「ああ。」
「お前なら句が出来そうか。」
「下手は承知だ。発句するほどのんびりしていたのは昔の話さ。」
「お前は春の句が好きだったな。」
 近藤は蝶の飛ぶさまを目で追いながら、
「もう春だな。世の中は……」
と、老成した隠居のような声音で言った。日々確実に、気温が上がっていくのは
誰しも感じていた。
「夏になりゃまた、関東も暑いかね。」
「京の蒸し暑さにはかなうまいが、暑いだろうさ。江戸も日野も、上石原もな。」
答えながら歳三の手はまた、懐中時計の汚れ取りの作業に戻っている。
「今年も逃げ水が出るかな。」
 近藤の声を聞いた時に、ふと歳三の手が止まった。
「子供の頃はあれが不思議で、どこまでも追っかけていったもんだ。」
「あんたもか。」
長いつきあいではあるが、歳三は今初めてその話を近藤の口から聞いたような
気がした。
「ああ。あんなもんは幻だから、どこまで追ったってつかまらねえよ、と兄貴から
聞いて、がっかりしてやめたさ。」
「……くっ。」
 歳三は返事の代わりに頷いて笑った。多摩の子供らは似たような体験を持つ者が
多かろう。
「府中の在で、逃げ水を追いかけていったきり、迷子になって戻らねえのが
いたってな。」
「ああ。狐にさらわれた、って話だろう。」
 それも幼い頃に聞かされた話のひとつである。年上の者が語る妖怪変化の話を
せがんで、あげくに夜中の厠へ立てなくなった、という経験も、多くの者が持つ
かもしれない。
「わしも……」
と言いかけて近藤は口をつぐんだ。言えば歳三が怒る、と思ったようである。ふと
異なものを感じて、歳三は顔を上げた。それが何だったかはよくわからない。
「夏には会津かもしれんぜ、近藤さん。」
 これから夜にかけて、その為の「軍議」がある。新選組の同志、永倉新八や原田左
之助らがこの屋敷に来る手はずになっていて、歳三も近藤もそれを待っているのだ。
「昔ばなしは程々にしよう。まだでっけえいくさが残っている。」
 甲州から江戸へ戻ってからずっと、歳三には頭の片隅にひっかかるものがあって、
それが消えずにいる。近藤の気力の衰え、と言ってもいい。京都で威勢を誇った頃の
覇気がない。
「武州の逃げ水はお預けか。」
 近藤は笑った。なぜ笑ったのか、も、この時の歳三にはわからない。わからない
からこそひっかかるのかもしれなかった。
「ああ。今度江戸や多摩に戻る時は、勝って堂々凱旋、といくことだ。」
「池田屋の時は愉快だったな。あれは夏だ。」
少し進んだが、近藤の昔がたりは変わらなかった。
「総司がぶっ倒れて、そのくせやせ我慢をして歩いて帰りやがった。」
「………。」
 今日は止めようがないようだった。永倉たちが集まる時刻までには、近藤の
やる気を取り戻させねばなるまい、と思いながら、歳三はひとつ嘆息した。
「戻ったら真っ先に、総司に会いに行ってやらなきゃならんなあ。」
 元気一杯で池田屋の先陣を切った沖田総司も、今は療養のために少し離れた
千駄ヶ谷で病身をかこっている。体がもちこたえていれば、伏見にも甲州にも、
必ず近藤の側にいて剣を振るったであろう男だが、それは出来ない相談になって
いた。近藤の寂しさは、常に傍らにいた総司が離れて苦しんでいる、という事も
ひとつの原因かもしれない。
「あいつに三万石、持って帰ってやりたかったよ。」
 無論、常識的にはあり得ない事ではあるが、
首尾よく甲州百万石を抑えた暁には、新選組幹部は近藤土方のみならず、万石以上
の大名並の待遇を受けられるかもしれない、という景気のいい話まで、甲府行きの
前には口の端にのぼったことがあるのだ。
「もうよせよ、近藤さん。」
 さっきより歳三の声に険が混じった。
 過ぎた日の繰言は、再軍備を控えた今に相応しくはない。たとえ、身を削って
尽くした総司に、千駄ヶ谷の納屋などではなく、もっと報いてやりたかったという
心が言わせたことにしても、である。
「わかった、すまん。」
 近藤はそう言って、ゆらりと立ち上がった。そして歳三に、皆が集まる時刻まで、
少し外を歩いて来る、と言って廊下を去っていった。
 その背中に、白い靄のようなものがかかっているかと目を疑った時、姿は角を
折れて、歳三の視界からは見えなくなった。
 

「俺は、近藤さんの家来になった覚えはねえ!」
 この衝撃的な台詞を叩き付けたのはその夜の永倉新八だった。
 今後のあり方を巡って、甲州の敗戦このかた、散らばった同志たちに呼びかけ、
さんざっぱら奔走してきて、ある程度の形を作って近藤勇をその中に迎え入れようと
してきた永倉と、親友の原田左之助に対し、近藤は近藤で、
「わしにも考えがある。局長であり君らを采配するべきわしに無断での決め事は、
それは私議である。臣が君に黙って城外の者へはかりごとを巡らすようなものだ。」
と、つい剣呑な表現ではねつけた。それに対する永倉の怒りがこの言葉だった。
「あんた、いつから俺達の主君になった。長といい配下というも、あくまで同志と
しての事だ。俺はあんたに、いっぺんだって臣下の礼をとったことはねえ。一人で
大名を気取るのもいい加減にしやがれ!」
直情な江戸っ子で、それゆえに愛すべき人柄でもあって許されてきた事が多かった
というものの、今、臣が君に、ということが比喩だとわかるほど、繊細な永倉では
なかった。そもそも、京都の頃から「近藤は増長している」と告発した前歴まで
ある。不満が一気に口を突いて出て来たのはこの場合当然のことであった。
 互いに、疲れてもいた。
 敗戦につぐ敗戦、のあとの建て直しである。京都の厳格な体制下にある時の、
水も漏らさぬ指揮系統はすでに壊れていた。つまり、普通ではなかった。
 歳三は、止めなかった。
 原田左之助も、止めなかった。
 そしてまた、古い同志たちが去っていった。
 近藤はその晩、灯火の前で黙然と考え込んでから、ぽつりと言った。
「歳よ。」
苦いものを吐き捨てるような声音だった。
「人とは、変われば変わるものだな。」
殿様ほどの恩義を感じろとはいわないが、名も金も身分もない脱藩の若僧の頃
から、住まいを与え、布団を貸し、飯を食わせてやったのは俺じゃないか。と、
近藤がさらに言うつもりなら言えただろう。そこへ遡って恩に着せなかっただけ
でも、近藤勇の人のよさはどこかに残っていた。
 歳三はちょっと首をかしげてから、
「人が変わるんじゃねえ。時が変わるだけさ」
と、言った。
「時勢か。」
近藤が答えた後、歳三はひとつ深呼吸をしてから、静かに言った。
「あんたには俺がいる。」
 近藤は今更驚いてしみじみと古女房を見直した亭主のような顔で、髷を切って
様変わりはしたものの、昔と変わらず憎らしいほど落ち着き払った面構えの歳三
を眺めてから、
「そうか。……歳がいたな。」
と、呟いた。
 その点は何ら変わらないな、という顔をして近藤は少し笑った。
 山南敬助、井上源三郎、藤堂平助が死に、沖田総司が病に伏し、永倉新八と原田
左之助が去っても、土方歳三だけは、近藤勇のそばにいた。誰が来て誰が去ろうと、
最初から、この二人の組み合わせだけは、車の両輪のように変わることがなかった。
 

 しかし、その歳三と、近藤勇が離れる時は、案外に早くやってきた。
 慶応四年四月。
 下総流山に屯営中の陣所で、官軍から隊長の出頭を求められた時である。周辺の
地には薩摩の有馬藤太ら、多くの敵が包囲して、抵抗すれば一戦もあるかと、嵐の
前の静けさを保っている。
 日当たりの良い一室に余人を寄せず、歳三と近藤は二人きりで、存外に長く
話した。
「俺が行くよ。」
という言葉は、どちらからも出た。
 敵に囲まれた時、まずは大将を無事に落とすのが当然だ、という意味のことを
歳三は主張した。
「近藤勇さえいれば、新選組は生きる。」
 官軍が、流山陣地を率いる「幕臣大久保大和」が「新選組局長近藤勇」だと
把握しているとは限らない。まずは会津に先発して地固めを行っている斎藤一ら、
そしてここに屯集した多くの兵たちとともに、近藤の身柄をここから脱出させ、
戦える場に就かせることが副将である自分の役目だ、と思った。
 無論、出来得る限り、薩長のにわか官軍の前になど、のこのこと顔を出さずに
全員が切り抜ける策があればそれに越したことはない。
 歳三は、こんな田舎の一局面で事を終えるつもりはなかった。
 武器はある。兵もいる。金もある。
 会津への北行の道が伸びている。
 官軍の連中と戦い、新選組が自らの生の可能性を求めるためには、無傷の
一大拠点である会津若松を目指すのが最も確実であった。その目的の為の出発を
矢先にした頓挫は、まだ力尽きぬままの火を抱えている歳三には耐えられない。
「まだやれる。」
 それが、戊辰正月三日以来、歳三の頭の中でつきあげるように響いてきた言葉で
あった。伏見、淀、大坂、甲州、五兵衛新田、そして流山。まだまだやれる。
生きる力は尽きることを知らずに五体のすみに宿っているのだ。
 そして、歳三がおのれの精魂を傾けて作り続けてきた新選組も、目の前の近藤勇
がいる限り、確実に生きている。まだやれる、という内なる叫びは、まだ生きる、
ということと同意義でもあった。
 しかし、その目の前にいる近藤の考えは、やはり歳三とは別種のいきものとして、
若干の違いを見せていた。
「……いや。」
近藤は、静かにかぶりをふった。
「やはり、わしが行く。」
顔色はやや青ざめていたが、近藤は微笑さえした。
「向こうはわしに来いと言い、わしは行くと言った。代人を出すとは言っていない。」
「近藤さん。」
 歳三は幾分責めるような声を出して、近藤の顔を見た。近藤がなおも言った。
「わしは、武士だ。」
一度笑みが消えた。鉋で削ったような角張った頬の上で、 引き締まった縦の筋が
陰を作った。
「………。」 
 静かだが、常に自分の前に立ってきた男の威厳が、そこには含まれていた。歳三は
沈黙した。
 近藤は再び口元を開いた。
「武士に二言があってはなるまい?」
 人がよすぎる、という言葉を喉の奥に封じ込めて、歳三は唾を飲んだ。こう、と
いう信条を抱いた時の近藤に何を言っても、容易には覆さないことを知っている。
 近藤は近藤で、一軍の長である。
 つまりは大将である自分が、部下を成果のわからぬその場しのぎの使いに出して、
おめおめと嘘をついて逃げた、という評の立つことは武士である自分の尊厳が許さ
ないのかもしれない。
 現に、それを甲州で一度やった。そして、惨めに負けて逃げ帰った。その事が、
長年苦労して養ってきた食客の永倉、原田にさえ侮られる結果を作った。
 あんたの家来じゃない、ただの仲間だ、膝を屈してまで偉そうな命令に従う
つもりはない、と。
 常に誰かしら人の下にあって、それを逆手にとってしぶとく生き続けてきた土方
歳三と、少年の頃から、お前はいずれ人の上に立つんだよ、と育て上げられた近藤
勇との、根っこの違いが出た、というべきはこの瞬間であった。
 武士、は四民の長たる立場である。
 だからこそ、味方にも、敵である官軍参謀にも、自らが一人出向くことで、
長としての義、武士としての節を体現しようとした。
 ………と、みることが出来る。 
 近藤が、昨年以来の不運の連続に疲れを感じていなければ、この判断はあるいは
少し違っていたのかもしれないが。
 

 歳三はついに、近藤の決断を翻意させることは出来なかった。いや、しなかった。
新選組の副長が、局長の意に従うのは、考えてみれば当たり前すぎることでも
あった。
 飲み込んでみせながら、歳三の頭にはめまぐるしく次の策が浮かんではいたが、
それは今、口に出すことを自らに禁じていた。言えば近藤の誇りはまた鋭く
傷つけられることになる。
 近藤が武士であることを貫くなら、歳三は武士にあるまじき命乞い、の仕事を
辞さぬつもりでいた。
 が、この時の近藤にはわからない。
「なんてえツラだ、ええ?顔でも洗ってから発ちなよ。」
 この先の懸念をぬぐいきれずに、眉をしかめて口をとがらせ、まるですねた小僧
のような表情になっている歳三を見て、ふっと吹き出してから、近藤は草履を
履いて庭へ降りた。
 歳三は黙って、沓脱ぎから縁側に立てかけてある黒光りした長靴に足を入れ、
やはりがらんとした名主屋敷の裏庭へ出た。
 晩春の日差しが、場面にそぐわぬほどに明るい。
 近藤は井戸のそばへ行き、空の桶を中へ落とした。水の音が反響ではねかえ
って、空気の出口から上へ、すぽん、と抜けるように聞こえてくる。やや腰を
落として、水を汲み上げた。釣瓶を手繰る時に、わずかに目のはじを歪めたのは、
肩の傷に痛みが走ったせいだろう。歳三は、それをわかっていながら、近藤のする
動きに手を貸さなかった。
 足元にいくつかの水玉を跳ねさせて、近藤は桶を置いた。丸い水面が陽光で
きらきらと光っている。
「ほら。」
 近藤に促されて、歳三は前かがみになった。両手のひらを寄せて、冷たく澄んだ
水を一杯にすくった。朝からの調練で、関東の埃にまみれた顔を勢いよく洗った。
ばしゃばしゃという音と共に飛沫が散っている。
 おそらく、頭の上のほうで近藤の白い歯が笑っているだろう。
 もう、何年になるか数えきれぬほど以前から眼に焼きついたあの白い歯だ。
見なくてもわかる。近藤勇はこういう時に、歳三を眺めて無邪気に笑うのだ。
 歳三は、自分も少年の日に帰ったように、一心に顔を洗う作業に熱中した。
いつもなら二、三べんで済ませるはずのところを、水温の冷たさで何とか平静を
蘇らせるように努力しながら、何度も桶の中に両手を突っ込んだ。そうして
いないと、何故か涙が出そうな気がしたのである。
 どういうわけか、この一杯の桶の水が、下戸の近藤からの餞別になりそうな、
嫌な勘が働いてならなかった。
(まさか。)
 物事を前もって悪いほうに考えるのは俺の癖だ。その都度に手を打っているから
こそ、どんな修羅場も切り抜けてきている。そちらのほうに頼るべきで、悪い
予感はこの場に相応しくない。歳三は、以前にみた近藤の周辺に揺らぐような
不確かなもの、と共通の、得体の知れぬものを振り払いながら顔を上げた。
 汲み上げた水が大分減って、残りをざっと地面に流してしまってから、それが
沁み込むのを見送って、近藤が言った。
「歳。おめえはわしのことを、逃げ水だと言ったそうだな。」
 歳三は、次に自分が桶を井戸の底に投げ入れようと釣瓶をつかみかけていたが、
はっと体の動きを止めて近藤の顔を見た。
 この時の言葉を、歳三はいつまでも覚えていることになる。
「わしにとっちゃあ、おめえが逃げ水だったよ。」
「………。」
 何が楽しいのか、近藤は随分と力が抜けたような面つきで懐かしげに肩を
揺すった。目尻に少し皺が刻まれたことの他は、やっぱりあの夏の日と同じ
ように、奇妙なほど眩しい歯を見せて近藤は笑っていた。

 

 歳三の勘は、今度も嫌なほうに当たって、流山から後を追って潜入した江戸
での、勝海舟への助命嘆願も、結局は官軍と旧幕府との軋轢の中にすり潰されて
しまい、近藤が武士の扱いすら受けず両腕を後ろに縛られて、浮浪の賊として
斬首、首を運ばれて京の河原に晒されたことを、会津若松の城下で知った時、
歳三は一瞬だが、おのれの気が狂うかと思った。
―――勝を斬れば良かった。
 最後の顛末まで見届けずに、妖怪のような勝の指示に従って江戸を出、会津へ
の戦線に旅立ってしまった事を、歳三はいつまでも悔いた。みずからの間抜けさ
を呪った。
 大久保大和が近藤勇と露見している事、を知った時、歳三は近藤の救出が
難しいことは察していたが、せめて大名並の幕臣若年寄格の名のもとに、
或いは、京都在職中は警察組織としての職に誠実に従ったまでの事を理由に、
武士としての堂々たる評定を受け、最悪の場合でも礼にのっとった切腹である
はずだ、と思っていたのである。

―――これが武士か。え、近藤さん。……これが、あんたの望んだ武士の
最期かよ。

 近藤が、すべての理不尽にも服して介錯の刃の前に無言で頭を垂れたさまも、
首が目の前の穴にどさりと落ちる音まで、幻影というにはむごいほど、まざまざと
浮かぶような気がして、歳三は宇都宮戦で受けた足の鉄砲傷が膿んだ高熱と
ともに苦しんだ。
「最後の一兵になっても戦うべし、」
と言ったのは大坂を逃げ出す前の徳川慶喜の言葉だったが、歳三は熱にうかされ
ながら、京にいた頃の一橋慶喜をも、斬ってやればよかったと思った。頭が
良すぎて、喧嘩馬鹿にはなれなかった政治家慶喜が将軍でなければ、伏見以来、
幾多のむくろとなってきた新選組隊士たちも、犬死に同然の目にされなくて
すんだであろう。
 理由はどうあれ、将が、戦ってきた兵を見捨てたのである。本来なら腹を
切って責を負うはずの総大将慶喜の助命を優先に、近藤勇はまともな裁きを
受けることもなく、斬首の罪人にされ、浮浪という札をつけて、笑いものに
されたのだ。
 歳三がこのまま薩長土ほかの「官軍」への恭順に屈してしまえば、近藤は、井上
は、山崎は、それから平隊士の誰と誰、自分が掌握してきた新選組の一人一人は、
一体何のために戦い、血を流し、ろくに葬られることもないまま生命を消滅
させてきたのかということになる。
 有言不実行の将軍に対する仮の君臣として発する忠誠心は、もはや歳三の中
にはなかった。あるのは、今は自分に与えられるすべての軍事力と固有の才を
使い尽くし、生きて、生き抜いて、官軍の連中に勝つ、生きる地が世にある限り、
本当に最後の一兵になるまで、やってみせてやる、という生への執念であった。
 

 歳三は、戊辰の年を文字通り戦続きの中で明け暮れた。
 相次ぐ戦死と離脱とで、壬生草創の頃の新選組を知る者はついに歳三一人に
なったが、敵の姿を追い求めるように常に前線にいながら、この男だけは死ぬ
ことはなかった。
 中には、近藤勇亡き後、相応しい死に場所を求めて彷徨っている、などという
穿った見方をする者もいたが、それは見当違いも良いところで、常に生の可能性
を求める土方歳三の部隊には、逆に兵士の活気が生まれていた。
「土方さんの下にいれば勝つ。」
「あのセンセイの側にいりゃ、生き残れる。」
 冷血な死神とばかり怖れられた新選組在京時代とは逆の評価が、人びとの間
には広まっていった。 京都の頃を知るわずかな古参隊士の島田魁や安富才助、
伏見の戦の前に応募して歳三の小姓になった市村鉄之助などは、その意外な逆転を
喜んで、忠実に付き従ってきた。
 歳三自身が変わったわけではない。
 考えてみれば、歳三は物心ついた頃から、常に何かを追いかけてはつかもうと
してきた。自分の視線の先にある正体のないものを探り続け、つかもうとしては
消える、その繰り返しであった。
 近藤勇という宿命の友に出会った日に始まった剣への夢、真の武士になろうと
した新選組の夢は、近藤の死という残酷な結末をもってついえたが、入れ替わる
ようにして、新たに軍を率い、榎本武揚ら新しい時代の息吹をたたえた者たちに
協力する事で、今までの日本には有り得なかった「国」、つまり蝦夷共和国を一から
つくりあげる、という思いがけぬ夢まで、追うことになった。
 今度も見果てぬ夢か、とは、歳三は思いたくなかった。
 はたから見れば実現は困難なほどに、蝦夷地の旧幕脱走軍は次第に逆境に陥り
つつあったが、持ち前の負けず嫌いは、この結末を見切らぬうちに諦めることを
許さなかった。 
 父も母もない。妻も子もない。伝えるべき家名も土地も財も、歳三には是が非
でも守らねばならぬ、というものは、終始一貫して何もなかった。
 死のうと思えば惜しむものは皆無といってもよく、自分が処断を下してきた者
たちのように、自らの腹をさばけばよい。
 近藤はそれすら選ばせてもらえなかったが、農民の子の新選組でも、腹を切って
死ぬ事くらいは出来る、と見せ付けてやることならいつでも出来た。いつでも
出来るからこそ、歳三はそれを選ぶことはしなかったのだ。
 手元にあるのは自分一個の命だけである。
 徒手空拳の歳三は、だからこそ常に、しぶとく我が身を生かしながら、次の
選択肢を探しては、北の果てまできたのである。

 その生命の火焔は、明治二年の五月十一日まで燃えつづけた。
 官軍の箱館総攻撃の日も、歳三は手勢を連れて出陣した。
 戦況はことごとく不利であったが、歳三は座して死を待つことを自分自身に
許さなかった。敵だらけの町に、抜刀して突き進んでいく。
 前へ。
 一歩でも前へ。
 それが生きるという事だ。
「退く者は俺が斬るぞ!」
それはまるで、歳三が自分自身にかけた号令のようでもあった。
 その時。 
 砲声と馬の足音と怒号の中を縫って、一発の銃声が乾いた空気を裂き、歳三を
めがけて真っ直ぐに向かってきた。
 体の中に熱い火箸を突き入れられたような衝撃と共に、馬上から転げ落ちた
とき、数名の兵が駆け寄って叫ぶ声を聞きながら、歳三はその熱い場所に、
右手を当ててみた。ぬめるように、驚くほどの鮮やかさで銃創からの血が鼓動と
共に流れ出していた。指の間がぐっしょりと濡れている。
(……あかい……)
 新選組の誠の旗と同じ、真っ赤な血だ。いのちの色だった。
 見ろ、俺の血が青いもんか、と歳三は薄れていく意識の中で、わずかに笑って
やりたいような気がした。
 歳三の血があかあかと箱館の地面を伝っていく時、遠くに光りながら、揺らいで
いる逃げ水を見た。
 そして、俺が追ってきたものは何だったのだろう、という答えを明らかにする
前に、土方歳三という男のいのちは、北の大地の上に、漸くゆっくりと
尽きていった。


                            (終)
<2008/4/2(水) 22:33 沖田総司>

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まろやかリレー小説 Ver1.20a

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