永井尚志 
 ながい なおゆき 

若年寄格
 
  文化13年11月3日、三河国奥殿藩主松平主水正の子として国元で生まれ、3歳で父を亡くし、  

  その後を江戸藩邸で過ごしたが、天保元年25歳の時、浜町に本邸を持つ2000石の旗本永井  

  能登守の養子となる。岩之丞、主水正。号を介堂。後に玄蕃頭を称した。弘化4年小姓組  

  番士に登用され、御徒士頭を経て、嘉永6年10月48歳の時に目付に任命、勘定奉行、外国  

  奉行、京都町奉行、大目付、若年寄と旗本重職を歴任する。  

  嘉永6年6月のペリー来航を転機に、幕府では旧弊を破って海防問題や対外事務の多端化  

  の為、新たな才能を投じる必要を生じ、勘定方系統、目付(監察職)系統の職務から有能な  

  人材を外務官僚として抜擢した。永井は後者に属し、岩瀬肥後守忠震、堀織部正利煕らと  

  同様積極的開国派として老中阿部正弘から破格の重用を受け、嘉永7年には海防掛を命ぜ  

  られ、後に第一期の外国奉行となっており、計画当初の遣米使節の候補者にも挙げられた。  

  幕府はオランダ軍艦スンビン号を受けたのを機にオランダ海軍士官を招き、長崎に海軍伝  

  習所を開き、永井はその監督に当たる。勝海舟もその生徒であった。安政3年7月、アメ  

  リカ駐日総領事ハリスが伊豆下田に上陸した折、勘定奉行に転じていた永井もまた、幕府  

  官僚として通商条約締結に臨んだ。しかし尊攘思想の高まる中で急進的な開国策を推す意  

  見はなかなか受け入れられず、永井は川路聖謨と共に徳川斉昭へ条約問題の相談に出向い  

  たところ、「老中堀田正睦と外国奉行岩瀬忠震に切腹させ、ハリスは首をはねよ」と激昂  

  して手がつけられなかったという話が残っている。  

  その後井伊直弼の政権となると永井も他の開明派幕僚同様、将軍継嗣に一橋慶喜擁立を支  

  持していた為、安政6年8月に罷免され、録を奪われ54歳にして隠居、差控の処分を受け  

  る。しかし、万延元年の井伊暗殺後に政界復帰、文久2年には京都町奉行に就任、将軍家  

  茂の上洛を進言し、元治元年には大目付に累進し、7月の武力上洛を謀る長州藩兵と折衝、  

  洛外撤退令を伝達。後の第一次征長に際し幕府代表として総督の徳川慶勝を補佐。第二次  

  征長では長州問罪使として芸州広島へ赴く。この時、幕府が京都で捕らえていた奇兵隊の  

  旧総管・赤根武人を長州人脈接近の為に潜入させたともいい、新選組局長近藤勇、参謀伊  

  東甲子太郎ら隊士9人も、身分を隠し永井の供であるとして随行させた。  

  慶応3年の幕府終末期には63歳にして旗本最高位の若年寄に就任し、土佐の後藤象二郎に  

  よる将軍慶喜への大政奉還建白を周旋、9月には近藤勇と後藤の会談を仲介したといい、  

  二条城守衛を巡り水戸藩と対立した新選組を伏見守備に転じた。しかし薩摩の挑発に憤慨  

  する幕臣の勢いは慶喜始め閣僚にも最早抑えられず、明けて慶応4年、戊辰正月には鳥羽  

  伏見で戦端が開かれ幕軍が敗北を喫し、永井は老中板倉と共に慶喜の城外脱出と江戸帰東  

  を内密に相談され了承する。  

  江戸へ帰った永井は、2月に若年寄の職を追われ、江戸城無血開城後、8月に新政府軍へ  

  抵抗する榎本武揚の艦隊に同乗、品川沖を脱し北へ向かう。蝦夷では旧幕軍蝦夷共和国の  

  箱館奉行に就任。永年の配下であり養子格として永井姓を許した永井蠖伸斎も渡航したが、  

  翌年春の官軍再襲来により4月には五稜郭外の矢不来にて戦死。自身は5月11日の官軍箱  

  館総攻撃で新選組、砲兵隊と弁天台に籠もり抗戦するが、官軍の和議勧告に際しては薩摩  

  の永山友右衛門と協議すると同時に、新選組相馬主計、蟠竜艦長松岡磐吉らと共に五稜郭  

  との交渉を重ね、同15日、五稜郭に先んじて新政府軍に恭順する。箱館戦争終結後、永井  

  は榎本らと共に東京で入獄するが明治5年赦され、以後は開拓使御用掛、左院少議官を経  

  て元老院権大書記官となる。明治9年の退官後は、亡友岩瀬忠震の最期の邸である向島の  

  別荘「岐雲園」に移り住み、庭内に岩瀬の為の祠を建てて終生その霊を祭っていた。旧幕  

  府外国掛の一員であった田辺太一は著書「幕末外交談」の中で、永井尚志を「温和直諒に  

  して徳あり」と評し、岩瀬忠震、堀利煕と共に「幕臣三傑」に数えている。  

  明治24年7月1日没、86歳。墓は東京都荒川区西日暮里三丁目の本行寺。  

■ 御 家 紋 ■




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