永倉新八載之
ながくら しんぱち のりゆき
副長助勤、二番隊組長。
 
天保十年、松前藩士長倉甚治の次男として、江戸下谷三味線堀の藩邸長屋に生まれる。
 
幼名を栄治、栄吉と称し本姓は源、苗名は永倉。神道無念流岡田十松に学び、心形刀坪内
 
主馬にも剣を学んだ。天然理心流道場近藤勇らと親交を結び、浪士隊に参入する。京に共
 
に残り副長助勤、のちに二番隊組長となり活躍する。池田屋事件では、近藤らと斬り込み
 
獅子奮迅の働きをみせて刀を折り、指の付け根を斬られたが、二十両の褒賞金を得た。
 
増長した近藤勇を縦断する為に建白書を会津藩に提出し、会津藩の仲裁にて事なきを得たが
 
長州征伐の際に思案した行軍録には名前が無いところや同調した葛山が切腹を言い渡された
 
事から永倉新八は謹慎していたと思われる。だが謹慎後は殆どの捕縛事件に出動し、総司が
 
動けないときは、一番隊も指揮した。
 
慶応三年、油小路の事件にも参戦。江戸以来の同志藤堂平助を逃がそうとしたが、意のま
 
まにならなかった。
 
鳥羽伏見の戦いでは、奉行所から薩摩軍に決死の特攻をかけるが、最新武器の前に退却し
 
塀を登る際に、鎧が重く意のままにならず、恥も外聞もなく助けを求め、島田に引き上げても
 
らう顛末がある。江戸に戻り、甲州鎮撫隊に参戦したが惨敗に終り四散。再度江戸に引き上
 
げて再起を促す為に近藤に意見したが決裂。袂を分かち、旧友の幕臣芳賀宣道を隊長に靖
 
兵隊を創立し副長となる。四月の江戸開城に際して鴻之台に脱走し、旧幕軍配下七聯隊に合
 
流して日光に向かう。関東各地に転戦し今市の戦いで、矢田賢之助が倒れた後は、援軍を
 
求め会津に向かうが、新政府軍の進攻の為、米沢へ回る。その後戦線を離脱し江戸に戻る。
 
松前藩下国東七郎の橋渡しにより、藩に帰参する。両国の橋上で、伊東の実弟鈴木三樹三
 
郎に出会う。少し言葉を交わしてすれ違ったが、その時の様子を永倉が語る。「私は鈴木
 
にとっては兄の仇同然で、日の出の勢いの官軍。京の時にはよもや負ける気の無い相手だ
 
が、此方は敗軍である。気後れしてしまい、抜討ちくると思い冷や汗が落ちた」
 
そのときは、無事に過ぎたが、藩邸を鈴木の仲間が徘徊するので藩医杉村松柏の婿養子と
 
なり、明治三年、北海道福山にいく。明治八年、家督を継いで名を杉村義衛と改める。
 
九年、松本良順の協力のもと、近藤の打ち首になった場所を捜し当て、東京板橋に、近藤、
 
土方の墓碑を建立し、隊士百余名の名を刻む。
 
十五年、樺戸監獄に剣術師範として招かれる。十九年、職を辞して上京する。函館に赴き、
 
土方、伊庭の碧血碑に弔い、米沢で雲井竜雄の足跡を尋ね、牛込で道場を開く。
 
三十二年に小樽に帰り、ときおり札幌で剣術指導を行ないながら余生を暮らす。
 
大正四年、最後まで生きた古参隊士 永倉新八は永眠につく。
 
 
もののふ
武士の節を尽して
厭までも 貫く竹乃 心一筋
 
■ 御 家 紋 ■
 
■ 剣 客 剣 豪 ■
 

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