長野主膳
ながの しゅぜん

彦根藩士
 
文化12年10月16日、伊勢生まれ。主膳の前身は今も不明であるが、武田信玄に
 
滅ぼされた上州箕輪城城主、長野業政の末裔ではないかと言われている。
 
わかっているのは、天保10年、伊勢河俣郷宮前の豪家、滝野知雄邸に姿を現
 
し、知雄を師として本居宣長派の国学を学んだ頃からのことである。
 
知雄の妹多紀を娶った主膳は、伊勢、美濃、尾張などを遊歴し、国学や和歌
 
などを教授していたが、天保12年の冬近江市場村の医師三浦北庵のもとで
 
滞在し、翌年2月には志賀谷村の阿原忠之進宅に移り、その別荘で学塾を開
 
いた。この時北庵が主膳の著書を、彦根城内埋木舎で庶子の暮らしに甘んじ
 
ていた井伊直弼におくり、以後主膳は井伊と親交を深めた。
 
とされていたが、末裔様の厚意で御教授頂いた情報では
 
主膳は熊本の八代(松井家:細川幽斎)で生まれて、幼少の頃、阿蘇長野神宮
 
(長野惟清)に預けらていた。
 
そして12歳頃まで阿蘇の長野(長陽村)で過ごしその後、徳川家の膝元和歌山
 
(新宮藩)の水野忠啓の元へ預けられ、三重県で本居宣長の国学を学んだ。
 
その後、滋賀県彦根地方で国学の塾を開いていたころに、井伊直弼と知り合い
 
直弼が主膳の国学に心酔し二人の絆が結ばれた。
 
藩の十四男であり、前途もないと言われていた直弼が、兄直亮の世子の死に
 
より彦根城主となり、さらには大老職に抜擢されるという思わぬ事が起こり、
 
主膳はそのそばで井伊のブレーンぶりを発揮した。
 
直弼が藩主になると、主膳は藩校弘道館国学方頭取となり、大老となると、
 
日米修好通商条約問題に関する朝廷工作の任にあたり、井伊の腹心として京
 
都で活躍する。
 
安政の大獄においても事実上そのすべてを取り仕切ったと言われ、影の大老、
 
京都大老と恐れられた。
 
井伊が桜田門外の変で暗殺されてからも主膳は、彦根藩首脳と結んで巧みに
 
立ち回っていたが、文久2年8月、藩内の派閥抗争で政変がおこり失脚し、
 
彦根藩の勤皇派によって27日、斬首の刑に処せられた。
 
享年48歳。墓所は、滋賀県彦根市清涼寺。
 
 
 

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