楢山佐渡 |
ならやま さど |
天保2年5月、陸奥盛岡藩で代々家老職を務める家に、父帯刀隆翼の
庶子として生まれる。藩主南部利剛の母烈子は佐渡の叔母にあたり、
佐渡は6歳の頃から城へ上がり、三十八代藩主利済の子、利義、利剛の
遊び相手となり、利剛が藩主となったときには15歳で側役となった。
嘉永6年、23歳で家老加判となるが、藩内の閉伊通百姓大一揆が起
こり、責任を取り一時藩政から離れた。その間東中務が家老を勤めるが
利義派であった東が藩内の派閥争いをおこしかけたため、佐渡は復帰し
東と対決することとなる。
慶応4年戊辰戦争時、盛岡藩は佐幕派として列藩同盟を考える。この年
佐渡は3月より京都御所警備として京都にいたが、この間西郷隆盛や桂
小五郎、岩倉具視らと接することがあり、新政府軍内の意見のばらつきを
感じていたといわれる。そこへ急遽帰国の藩命が下り、海道仙台へ着いた
佐渡は仙台藩家老但木土佐と会見し、同盟を誓う。
同盟後の藩内会議は紛糾を呈するが、佐渡が列藩同盟を裏切った久保田
(秋田)藩討伐を主張し、藩論として決定された。
佐渡は、鹿角口から秋田入りを命ぜられ、総督将として出陣し連戦する
が、大館の攻撃で敗退。
戦争責任を問われ、藩は、楢山、那珂五郎、佐々木直作の三人を縄付きで
差し出すが、他の二人は許され、楢山のみが明治2年5月の判決で反逆
首謀者として、6月23日、盛岡報恩寺で処刑された。
享年39歳。
辞世歌 花は咲く 柳はもゆる 春の夜に
うつらぬものは もののふの道
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The music produced by
DR(零式)さん