徳川斉昭 
 とくがわ なりあき 

水戸藩主
 
  寛政12年3月11日、水戸七代藩主徳川治紀(はるとし)の三男として江戸小石川藩邸に生ま  

  れる。母は側室の永。(烏丸大納言光祖の次子中務資補の娘で外山修理大夫光実の養女)  

  幼名虎三郎、啓三郎、字は子信、号を景山、潜竜閣。死後、諡名を烈公と称す。  

  水戸藩は尾張、紀伊に比べ約半分の28万石であり直接には将軍後継者を出す事は出来ず、  

  かわりに藩主は参勤交代を免除され江戸常駐を許されているがその分経費もかさみ、また  

  土地に豊かな主要産物がなく商品経済化してゆく江戸時代を通じて財政は困難となり、御  

  三家としての誇りに比べ実質が苦しいという事から、専ら自尊心や義侠心が強まり風土的  

  に議論や喧嘩、武辺を好む国柄になっていったと言われる。水戸黄門の俗説で有名な2代  

  藩主光圀が全精力を賭けた大事業である「大日本史」編纂は、当初は織田、豊臣の天下に  

  替わり幕府を開いた徳川家の歴史的正当性を求める為に、古事記・日本書紀の神話時代か  

  ら続く天皇家を万世一系の神聖な存在とし、その天皇から信託された徳川将軍家こそが正  

  当な覇権の継承者であるとしたのであるが、その理念は次第に「徳川家よりも天皇をこそ  

  第一に敬うべきであり、もし本家が天皇に違背するような不義があれば、水戸はこれに従  

  わぬ」という尊皇重視の思想に転化し、斉昭自身が幼少時から父の治紀に訓戒され、また  

  後年我が子の慶喜らに語り継いで教えたという。  

  水戸藩では長兄斉脩が八代藩主となるが子がなく、その正妻峰姫や重臣らが時の将軍家斉  

  の実子恒之丞を後継に望む動きがあったが、会沢正志斎、藤田東湖、杉山復堂、吉成又衛  

  門、戸田忠敞、武田耕雲斎、家老山野辺家長子養見ら水戸藩有志が弟の斉昭擁立に奔走し、  

  斉脩の没後文政12年10月、30歳にして九代藩主として家督を継ぐ。斉昭は就任すると下級  

  藩士も登用し、天保初年より藩政改革に着手。まず諸事倹約令の一つとして綿服着用を命  

  じ、自ら率先して木綿を着、江戸藩邸の後楽園で恒例の放生会に300両の費用がかかる事を  

  「鳥に大金をかけるより貧しい者に分け与える方が功徳になる」と批判する等、質素倹約  

  を旨とした。一方では学問教育の振興の為に藩校弘道館を創設、文武ニ館に分け尊皇攘夷  

  を鼓吹し、自書「弘道館記」を藤田東湖が解説、「国体」を明言する水戸学の名を高め、  

  吉田松陰、西郷隆盛ら多くがこの拠点を訪れた。また蘭学者に造艦書を翻訳させたり、蝦  

  夷の調査、間宮林蔵の北方探査を行わせる等、沿岸警備体制を強化する海防策を推進し、  

  かつて英国船が侵入する事件のあった水戸領那珂湊に砲台を築く。斉昭は「告志論」と呼  

  ばれる論告文も執筆、藩政改革の基本を示すと共に、定府制を廃止、藩士を地方に土着さ  

  せて耕地を与え、租税の合理化を図る全領検地は後に江戸城に於いて将軍家慶から鞍鐙、  

  太刀、黄金百枚の褒賞を受け一連の成功は幕府水野忠邦の天保の改革にも影響を及ぼした。  

  有栖川宮家の息女登美宮吉子を正室に持つ斉昭は、側室も含めて22男14女を設けた子沢山  

  でもあり、男児には通し番号制の合理的な命名をしている。中でも幼少の頃から利発で知  

  られた七男の七郎麿は、御三卿のうち歴代将軍を輩出する一橋家の後嗣に選ばれ、将軍家  

  慶から「慶喜」の名を賜り次期将軍の道も考えに置かれていた。しかし斉昭の政策や剛直  

  尊大な性格は一方で藩内の門閥派、幕府老中等保守派、大奥からの反発を受け、改革の一  

  端であった神仏分離推進に伴う寺院の破却が僧侶の不平を呼び、領内門閥派と組んだ事で  

  江戸の本寺や幕閣に達して強い批判の対象となり、弘化元年には一転して水戸は気随驕慢  

  に募り御三家として範を示すべきなのに遠慮がなく、将軍の不興を買ったという理由で隠  

  居謹慎の命を受け、世子慶篤に家督を譲って駒込の別邸に幽閉の身となる。この間に藩政  

  は門閥派が巻き返すが動揺が大きく、斉昭の雪冤を願って江戸出府する者が相次ぎ、同年  

  11月に謹慎が解除され、二年後には両腕的な存在である藤田東湖、戸田忠敞の蟄居も解か  

  れる。斉昭は謹慎中にも、老中阿部正弘に海防強化と攘夷の必要性を意見書に纏めて繰り  

  返し提出、幕政にも影響を与える。嘉永2年には藩政への関与を再開、同6年ペリー来航  

  で幕府が動揺する頃、斉昭が海防参与に任じられ意見書「海防愚存」を提出、幕政へも積  

  極的に直接関与して影響力を拡大する一方、初の洋式帆船「旭日丸」を建造して海軍力増  

  補の実践を試みたが進水に失敗し江戸っ子から失笑された。斉昭は日米交渉を遅延しなが  

  ら、その間に国防力増強を図る「ぶらかし」策を主張したが、阿部の急死で開国推進派の  

  堀田正睦が老中首座となると対立、幕府が嘉永7年に日米和親条約を締結調印、以後諸外  

  国とも同様の条約を結ぶと、海防参与を辞職、水戸藩政に力を傾ける。反射炉を設けて兵  

  器の製造に取り組み、軍政改革をはかるが、安政2年10月江戸の大地震により藤田、戸田  

  の二人が揃って死亡し大きな痛手を受け、以後斉昭の言動にも精彩を欠く事となる。  

  外国による侵略に憂慮すると共に、国内では現将軍13代家定(家慶の実子)が病弱で世継  

  ぎ誕生も望めない為、次期後継者問題が平行して難題となっていた。国難を乗り切るには  

  英明かつ成人に達した一橋慶喜が相応しいとする一橋派には松平慶永(春嶽)、島津斉彬、  

  山内豊信ら諸大名と開明派幕臣が後援につくが、慶喜が「水戸斉昭の実子」であるという  

  事が障壁となる。水戸から将軍を出した前例はなく、大奥では家定生母が「斉昭の子が将  

  軍になるなら自殺する」と言う程に嫌悪した。幕府保守派は若年であっても正当な血筋の  

  後継を主張して紀州藩慶福を将軍に推して南紀派と呼ばれ、両派が水面下で激しく対立す  

  る事となる。一橋派も朝廷に工作したが、幕府大老に南紀派の井伊直弼が就任、強引とも  

  思える速さで、勅許を得ないまま日米修好通商条約を締結し紀州慶福(改名後は家茂)の  

  次期将軍決定を強行する。これに怒った斉昭や一橋派大名は一斉に不時登城して直弼を詰  

  問したが効果はなく、不謹慎という断罪を受け、斉昭はその指導的立場にあったとして再  

  び駒込に幽閉となる。この頃、朝廷から幕府を介せず、水戸藩へ条約違勅調印を不満とす  

  る密勅が下されるに及んで、安政6年、井伊批判の勢力は「安政の大獄」と呼ばれる大弾  

  圧に遭い、斉昭自身も処罰されて水戸城内の一室に永蟄居、藩主慶篤は差控、密勅降下に  

  関係有りとされた水戸藩家老安島帯刀や、茅根伊予之介、鵜飼父子が死罪、その他遠島と、  

  水戸藩士を手始めに苛酷な処分が断行された。成り行きを案じた斉昭は当主慶篤の意向を  

  押し切って勅状を返上し、攘夷派を失望させた。  

  翌万延元年3月、水戸脱藩浪士に薩摩人を加えた刺客団が登城中の井伊直弼を桜田門外に  

  於いて襲撃、斬殺し、この結果慶喜を始めとする一橋派が幕政に復権する事になるのであ  

  るが、斉昭は五ヶ月後城中に於いて胸痛を訴え死去。我が子が最後の将軍になる時を目に  

  する事はなかった。  

  喪を秘して永蟄居を免ぜられた後「烈公」と諡され、朝廷からは文久2年従二位権大納言、  

  明治36年正一位を追贈、「尊攘の家元」らしい名誉を得る。墓は茨城県常陸太田市瑞竜山。  

  万延元年8月15日没、享年61歳。  

■ 御 家 紋 ■




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