【日本の城下町】古の息吹を感じる悠久の日本の城下町20選

【伊賀上野】伊賀忍者と松尾芭蕉が生まれた「伊賀の小京都」

城下町・伊賀上野(三重県伊賀市)は、上野城のあった場所には平安時代から重要な建築物があり、藤堂氏が確立した町です。伊賀忍者と松尾芭蕉が生まれた「伊賀の小京都」とも呼ばれています。

上野城は「白鳳城」・「伊賀上野城」とも呼ばれ、上野盆地のほぼ中央にある上野台地北部の小さな丘の上にあった平城です。北に服部川と柘植川、南に久米川、西に木津川本流が流れ、城と城下町を守る要害の地となっています。

現在は石垣・堀・武具蔵が残り、木造の模擬天守が以前とは別の場所に再建されています。城域は国の史跡であり、松尾芭蕉生誕300年を記念する「俳聖殿」は国の重要文化財、天守は市の指定有形文化財となっています。

平安時代に平清盛の場所に平楽寺があり、室町時代に伊賀の守護大名・仁木氏の館が建てられました。仁木氏が衰退し、伊賀の地は織田信長・豊臣秀吉の支配するところとなります。

秀吉の家臣・脇坂安治が伊賀守護となるもののすぐに他へ移封され、その3ヶ月後に筒井定次が移り住んできて、平楽寺や仁木古館跡に城を建てることとなりました。これが上野城で、本丸・天守・二の丸・三の丸などで構成されていました。

定次は伊賀上野藩を立藩するものの、不行状・失策などを理由に領地没収となり、その後を築城の名手・藤堂高虎が引き継ぐのでした。

高虎は伊賀忍者に命じて盗写させた58ヶ国・148城の要害図を参考に城の大改修を行ない、大阪城の備えとしました。丸の内は録の高い家臣の屋敷地とし、城下町は外堀の南に置き、本町筋・二の町筋・商人町の三の町筋・外馬場・侍町・忍町・鉄砲町・農家のかや町などを整備していきました。

一国一城令で上野城の存続が認められると、高虎は弟の高清を城代とし、その後は文政8年(1825年)の最後の城主まで、藤堂氏を世襲としたのです。

伊賀市の公式観光サイトには、伊賀ぶらり旅でお薦めのモデルコースがあります。それは、「芭蕉のふるさとを訪ねて」・「夏の楽しみレトロ篇」・「忍者なりきりデート篇」・「城下町を着物で歩こう」・「夫婦でぶらり伊賀焼めぐり」・「柘植~阿山の里をめぐる」・「島ヶ原の里をめぐる」・「青山の里をめぐる」・「大山田の里をめぐる」です。

「芭蕉のふるさとを訪ねて」は、上野市駅前芭蕉像→芭蕉記念館→俳聖殿→上野城ふもとの芭蕉句碑→芭蕉翁生家→故郷塚→老舗の和菓子屋→上野天神宮の芭蕉句碑→むらい萬香園(日本茶専門店)→九重(うどん店)→蓑虫庵の芭蕉句碑とお茶室というコースです。

「忍者なりきりデート篇」は、だんじり会館(ぷち忍者変身処)→伊賀流忍者博物館→伊賀上野城→御菓子処おおにし(忍者最中)→入交家住宅→かぎや餅店(忍者だんご)→末廣寿司(忍者ちらし)→むらい萬香園(忍者パフェと忍者オーレ)→松本院(修験道寺院)→愛宕神社→伊賀流忍者店というコースです。

「城下町を着物で歩こう」は、上野天神宮→寺町通り(散策)→藤岡組紐店→広小路駅~西大手駅→田楽座わかや(豆腐田楽)→旧小田小学校(明治時代の洋風建築)→学校裏の竹林の小道(散策)→旧崇広堂(江戸時代の藩士子弟の学校)→寺村清雅堂(老舗骨董店)というコースです。

伊賀上野の町は、藤堂高虎によって伊賀忍者の力を借りて出来上がった所です。そして、俳聖として世界に名を馳せる松尾芭蕉はこの地の出身で、母方の祖父・百地丹波は伊賀流忍者の祖であり、読本などに登場する忍者・百地三太夫と同一視されることもある人物であるため、芭蕉は忍者という説もあります。

藤堂高虎が整備した上野城と風情ある町並みを巡りながら、「伊賀の小京都」の雰囲気を存分に味わってみると良いでしょう。