小笠原長行 
 おがさわら ながみち 

唐津藩主
 
  文政5年5月11日、肥前唐津6万石の藩主小笠原長昌の長男として唐津城本丸に生まれる。  

  幼名を行若(みちわか)後に敬七郎、号明山。長行が2歳の時、父長昌が没するが、当時幕  

  府の法では大名の当主が17才以下の場合は国替えになる。小笠原氏は6年前に陸奥棚倉か  

  ら転封し、わずか数年での国替えは藩の財政に危機を及ぼすため、後嗣には成人した養子  

  を入れる事と決め、便宜上、嫡子長行は聾唖で廃人と幕府に廃嫡の届けを出して信州松本  

  松平家から長国を迎え長行を庶子とした。天保13年、長行は江戸に出て藤田東湖、安井息  

  軒らに師事し、高島秋帆らに西洋砲術を学ぶ。虚偽の届け出とは相違して、幼い頃より聡  

  明であった長行は次第に学識で名声を博しペリー来航後は軍備改善の建白書が注目された。  

  そこで藩主長国が安政4年、長行の聾唖は全快したと届け出、養子とすることが認められ、  

  37才にして漸く唐津藩の世子となる。幕政も押し詰まった文久年間以後の長行は、文久2  

  年7月に奏者番、同閏8月に若年寄、9月に老中格、10月に外国御用取扱と異例の出世を  

  遂げる。この頃、先年の幕府による弾圧事件として名高い「安政の大獄」関係者の追罰問  

  題が起こり、長行は井伊直弼及び当時の閣老らの追罰を主唱し、幕議もこれに決定する。  

  同年12月将軍後見職一橋慶喜と前後して大坂へ向かい、次いで京都に上り参内する。翌3  

  年春の将軍家茂上洛に先んじての行動であったが、4月には生麦事件(薩摩藩士による英  

  国人殺傷事件)解決の為江戸へ帰府する。この頃は京都に於いて尊攘激派の勢力が最も盛  

  んであったが、幕議では強大な軍事力を誇る英国との問題拡大を防ぐ為には賠償金支払も  

  止むを得ないとの内容に至り、長行は帰府後の閣議でその事を告げ、5月3日、閣老の名  

  義で賠償金を支払うという証書をイギリス代理公使ニールに渡す。しかし一方では上洛中  

  の将軍家茂自らが尊攘派の強硬な圧力に屈し、5月10日を攘夷決行の期限と布告させられ  

  てしまい、その為に老中井上正信、松平信義らが病気と称して登城をひかえたため、長行  

  は5月9日独断で賠償金10万ポンドを支払った。将軍が約束した攘夷決行の前日に幕府が  

  外国へ巨額の賠償金を支払うという矛盾は京都にも伝わり、公卿らが夜半まで議論に及び、  

  かつては過激な攘夷公卿の筆頭であったが幕府の対応により軟化、理解を示し始めていた  

  姉小路公知が帰路の猿ケ辻で暗殺されるという事態に至る。長行は公知と姻戚にあたり親  

  交があり、かねて約するところがあったともいうが、5月25日には償金支払の事情釈明の  

  為、という名目で江戸を発ち、幕兵千余人を率い海路上坂、京へ向かっている。将軍後見  

  職の慶喜を退け、幕兵によって尊攘派を京都から一掃し公武合体派の失地を挽回する為と  

  も、人質同然に京に縛られている将軍家茂の救出が目的とも言われるが、途上の6月、淀  

  (伏見)で家茂の親書により上洛を止められ、また公知暗殺の件を知り「大失望、この度の  

  行動も失敗に終わるか」と嘆息したと伝えられる。償金支払は長行の独断ではなく、慶喜  

  の暗黙の了解あっての事ともいうが、弁明の機会を得ぬまま長行は朝命により免職され、  

  江戸に帰府して閉居した。  

  しかし、その年の8月18日には薩摩、会津が連携しての長州系尊攘派一掃の政変が起こり  

  公武合体派が勢力を回復する。翌元治元年6月の池田屋事件の報を受け、長州藩は激昂し  

  て軍を京坂に大挙させ、7月の禁門の変が勃発。天皇の御所への発砲と市中炎上の大騒乱  

  を引き起こし長州は公に朝敵となる。同9月、小笠原長行は謹慎を解かれ壱岐守の名を賜  

  り、翌慶応元年9月大坂にて老中格再任、10月老中に進み翌2年第二次長州征伐の指揮官  

  に任ぜられた。しかし、表面上恭順して不発に終わった第一次征長の時とは違い、薩長同  

  盟の密約も締結した長州の戦意は高く、薩摩も進発を渋り、幕軍が苦境を強いられる間に  

  将軍家茂が急死する。8月、長行は戦闘の裏正面である小倉口の敗戦で潰走。敗戦の責任  

  を問われて10月に職を去る。しかし程なく復帰して11月老中に再任され、12月再び外国御  

  用取扱を命ぜられ、翌3年正月上坂、対外条約の懸案であった兵庫開港問題について尽力  

  した。同年末には大政奉還と王政復古が成り、慶応4年正月、鳥羽伏見の敗北を喫した後  

  2月に老中を辞し、3月江戸を脱出し、奥州棚倉、会津、仙台と転々、遂に榎本武揚の指  

  揮する旧幕艦隊に投じて箱館に至る。唐津藩士は、藩主一族の公子小笠原胖之助(三好胖)、  

  昌平黌に通った才人で、長行の重用を受けた御使番の大野右仲(又七郎)らが土方歳三の  

  傘下に加わり新選組隊士となって戊辰戦争最後の蝦夷地にも勇戦した。明治2年春、官軍  

  の蝦夷再攻撃が始まり、旧大名らの貴人は総裁榎本武揚の意向により戦地脱出の運びとな  

  る。長行も4月25日に英国船で箱館を脱出。5月に仙台領勝見浦、寒風沢を経て備中松山  

  藩の元手船積立丸に乗り換え、20日に浦賀へ到着。世間には横浜から米国に去ったと思わ  

  せたが、実は東京湯島妻恋付近にて供の前場小五郎らに伴われ隠れ住んだ。明治5年7月、  

  新政府に(外国からの)帰国届を提出、自首したが、既に榎本武揚ら箱館戦争首謀者も赦  

  免の時期にあたっており、長行も罪は問われなかった。以後は病と称して深川高橋邸に閑  

  居し、一切世に出なかった。明治24年1月22日没。東京都台東区谷中天王寺に葬られる。  

  享年70歳。  

■ 御 家 紋 ■




The music produced byふみふみさん
MIDI ON / OFF


佐幕人名鑑に戻る


このページは幕末維新新選組の著作物です。全てのページにおいて転載転用を禁じます。
Copyright©All Rights Reserved by Bakumatuisin Sinsengumi