緒方洪庵 
 おがた こうあん 

蘭学医

  文化7年7月14日、備中国足守藩士佐伯瀬左衛門の三男として生まれ  

  たが、文政8年、父が大坂留守居役となったため、大坂に移り住んだ。  

  洪庵は幼い頃から病弱であったために武士をあきらめ医学を志した  

  とも言われている。  

  洪庵はまず、大坂の蘭方医、中天游に入門した。ここで4年間学ん  

  だあと17歳で江戸へ出て蘭学者坪井信道に入門し、その後宇田川  

  榛斎、宇田川榕庵、箕作阮甫ら著名な蘭方医から学んだ。  

  江戸での洪庵は貧乏で、按摩や義眼つくりをしながら学んでいたが  

  「人身窮理小解」などの翻訳をするまでになっていた。  

  天保7年、長崎に遊学。このときにオランダ商館のニーマンに学ん  

  だともいわれる。  

  天保9年、29歳で大坂に戻る。中天游の門下生億川百記の娘と  

  結婚して、瓦町に医師として開業し、自宅の一部に蘭方医術を教え  

  る蘭学塾「適塾(適々斎塾)」を開いた。それから二十五年間、蘭学、  

  医学を志す門弟の教育にあたり、育てた門人は二千人を超えるとい  

  われている。門人の増加に伴い当初の塾では手狭になり、天保14  

  年には過書町に移転し、この建物は今も現地に残っている。  

  多くの門弟の中からは、大村益次郎、福沢諭吉、橋本左内、長与専  

  斎、大鳥圭介、佐野常民など、幕末から明治にかけて活躍した多く  

  の人材が出た。  

  洪庵は多くのオランダ医学書を簡易に読めるように翻訳し、それは  

  各地で医学の参考書となった。  

  また、大坂に除痘館をつくり、種痘を行い、天然痘の予防に努め、  

  コレラの最新治療法の出版なども手がけた。  

  文久2年、江戸に召されて、幕府の西洋医学所の頭取兼将軍の侍医   

  を命じられ任につくが、わずか十ヵ月後文久3年6月10日に54歳で  

  吐血して亡くなった。江戸の空気が肌に合わなかった、また堅苦  

  しい生活が身体に合わなかったといわれている。  

  適塾は洪庵が江戸に行った後も元治元年まで続いていたという。  

  墓は、大阪市北区東寺町龍海寺にある。  

■ 御 家 紋 ■




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