大 浦 慶 
 おおうら けい(おけい) 

 
 
  文政11年6月19日、ちょうどシーボルト事件が発覚した年の6月、町人で  

  中国人相手の貿易商であった油屋、太平次の一人娘として生まれる。  

  16歳の時に大火で店が焼けるが、すでに父は亡く、店の再興のために  

  翌年、番頭または蘭学修行に来ていた書生とも言われる幸次郎を婿養子  

  に迎える。しかし、お慶はこの幸次郎が気に入らず、祝言の翌日、追い出  

  してしまったという。  

  当時は日本は鎖国で禁を破れば死刑も免れない。しかし嘉永6年、お慶  

  は出島のオランダ人に頼み、茶箱に詰め込まれ、インドに密航したという  

  話が残されている。お慶の後世の出世により生まれた作り話との説もある  

  が、お慶自身も晩年上海への密航の話を語っていたという。  

  いずれにせよ、お慶は外国貿易商と組んで茶商となり、中国の動乱に紛  

  れて日本の茶を輸出しようとして、国際流通に目を向けたことは確かで、  

  嘉永6年、長崎出島に在留するオランダ人のテキストルに頼んで、嬉野茶  

  の見本を英米とアラビア三国に送ってもらう。お慶が26歳の時である。  

  3年後、英国の商人オルトがお慶の前に現れ、十二万斤(七十二トン)もの  

  お茶を注文した。お慶は嬉野だけではまかないきれず、九州全土を走り回り  

  その3年後、安政6年、長崎港からアメリカへ初のお茶輸出船が出航する。  

  このときにお慶が集めた茶はやっと一万斤であったが、それでも大成功を  

  おさめたこととなり、お慶の茶商としての地位は築かれた。  

  この時期、長崎には全国から多くの志士が集まってきており、お慶はその  

  財力と美貌で多くの勤皇志士と親交を深め、資金援助に奔走し、志士たちの  

  面倒をよくみていた。一番世話をしたのは、坂本竜馬率いるのちの海援隊  

  となる亀山社中の若者達であったといわれる。  

  維新後は志士たちは長崎から姿を消し、お慶も寂しくなる。そこへ熊本藩士  

  遠山一也が現れお慶に取り入り、オルトとタバコの売買契約を結び、手付金  

  を受け取ると姿をくらました。遠山は輸入反物の相場に失敗し、借金返済の  

  ためにお慶をだましたのであった。保証人になっていたお慶は家を抵当に  

  この三千両、今で言えば三億円もの借財をかぶり、膨大な裁判費用まで払う  

  ことになった。結局、お慶は明治17年4月13日、57歳で亡くなるまでに、この  

  借財をすべてきれいに返済していたという。  

  若くして、才気だって色々な仕事をし、志士たちを助けたが、明治の元勲と  

  なった者たちからの見返りもなく、借財を払って終った人生であったけれど、  

  そのドラマ的な人生を、明治から昭和初期にかけて活躍した伊藤痴遊が講談  

  で語っていたため、伝説的な話として残された部分が多い。  

  事業の失敗にもかかわらず、元米国大統領グラント将軍来日の折には長崎  

  県令とともに軍艦に招待されたという。  

  墓は、長崎市高平町曇華院跡大浦家墓地。  




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