副長助勤、一番隊組長 |
天保十三年、一説には六月一日、江戸で生まれる。父は奥州白河藩阿部能登守正備の臣、 |
沖田勝次郎。長女ミツ、次女キンと続き、父が病弱のため、井上林太郎を養子として迎え、 |
ミツの婿と決めた後に男児が出生、これが総司で、幼名は惣次郎春政といった。勝次郎の |
死後、林太郎の養子にして総司に沖田家を継がせようとしたが、万延元年頃、林太郎が何 |
らかの理由で脱藩し、養子の件は途切れた。総司は幼くして天然理心流試衛館の近藤周助 |
の内弟子となり剣を学ぶ。師範代になったのは十六の頃で、すでに近藤勇とは義兄弟の契 |
りを結んでいた。家業の合間に習う門人が多い中、純粋に剣に専念して育てられた総司は |
まさに秘蔵っ子であった。三段突きを得意技とし、剣の腕は達人の域に至っており、永倉 |
新八は「竹刀を持っては皆子供扱いにされた。本気で立合ったら勇もやられるだろう」と |
語った。多摩への出稽古にもよく歩いたが、若さゆえか総司の指導は短気で厳しく、門弟 |
たちからは恐れられた。人柄は可愛がられ、土方歳三の姉おのぶから小遣いをもらったり、 |
小野路で麻疹を発病した時は、小島鹿之助から、後年必ず名人になる身と安否を心配され |
ている。色が浅黒く、口が大きく、やせて背が高く、酒が強く笑い上戸、いつも冗談ばか |
り言っており「ヒラメのような顔」と見た人は語っている。成人して、名を沖田総司藤原 |
房良と改めた。 |
文久三年春、二十二歳の時、近藤ら試衛館の面々と浪士隊に加盟し、京に向かう。浪士隊 |
には義兄林太郎も参加し、清河の帰府に従って江戸に帰ったが、総司は近藤らと共に残留、 |
壬生浪士組が結成され副長助勤になる。壬生寺の境内で近所の子供たちを集めては遊び、 |
先輩の井上源三郎が呼びに来ると「井上さん、また稽古ですか」と茶化すので、わかって |
いたら黙っていても来たらよさそうな、とぼやかれたという。そうした無邪気な人柄なの |
だが、人を斬るときは躊躇わずに斬った。芹沢鴨暗殺の際も、歳三と共に討入り斬殺する。 |
総司は新選組に並み居る剣客の中で一番隊と撃剣師範を任される程の剣技の持ち主である。 |
池田屋事件の際には、近藤が陣頭に立ち御用改めであると宣言した後、抵抗に転じた敵の |
手首を真っ先に総司が斬り落とし激戦に突入した。これを書き残した永倉は後年になって、 |
近藤と自分が二階に討入ったと言を違えているが、否定すべきであろう。近藤が一番信頼 |
している総司を連れて行かないはずが無い。総司が長州の吉田稔磨と、肥後の松田重助を |
あっさりと斬り捨てたと伝わる。夜の乱戦であり相手の顔も知らず、誰が誰を斬ったとの |
特定は難しいが、総司の腕を賞賛した逸話であろう。戦いの途中で総司は昏倒し、外に出 |
されている。後年に永倉が「持病の肺患が悪化して倒れた」と回想したため、創作物では |
必ず喀血の場面となるが、血を吐いたかは記録にない。酷暑と激しい緊張と運動であり、 |
他の要因で倒れたとも思われる。 |
池田屋以降、史実上の活躍は殆ど見られないが、在京中は常に助勤筆頭の位置に信任され |
たことは各種の名簿からうかがえる。一時は近藤が「剣流名を沖田へ譲り渡したく」とも |
記した。しかしやがて、総司は長い労咳(肺結核)の病魔との闘いとなる。医者の娘と恋 |
仲になり叶わず、という逸話も、不治の伝染病であれば、周囲の反対もうなずける。 |
慶応三年秋にはすでに自他とも病を認めており、隊を離れ療養したが、伏見に合流。だが |
墨染で銃撃された近藤と共に大坂へ後送、戦えなかった。慶応四年、鳥羽伏見の戦いに敗 |
れた新選組は、富士山丸に乗り江戸に向かう。総司は寝たきりの状態だったが病人たちと |
相変わらず軽口をたたいており、近藤いわく、「あんなに死に対して悟りきっている奴も |
珍しい」と。総司は重病になった身を、浅草の松本良順宅から、千駄ヶ谷の植木屋平五郎 |
(植甚)宅の離れに移って療養し、近藤は甲州に向かう前日に見舞った。「骨と皮ばかり |
の総司の顔を見たら、どういうものか涙が出てたまらなかった」と近藤は妻の常に語った。 |
この夜、総司も声を出して泣いたと伝わる。 |
総司も多摩まで従軍し、笑いながら四股を踏むほど元気だったとの説もあるが、死因の最 |
たるものであった肺病の重病人を、新編成の軍に連れて廻るとは信じがたい。一緒に行っ |
ていれば・・・・という願望が、いつしか人の話に上り、伝わったのではないだろうか。 |
その後の四月二十五日、板橋で近藤勇は処刑されたが、植甚の者たちはあえて知らせず、 |
総司は離別のあともしきりに近藤の安否を気遣い「先生はどうされたのでしょうか、便り |
は来ませんか」と繰り返し繰り返し尋ねていた。労咳よけになると信じられていた黒猫を |
斬ろうとして、果たせなかったという。この時二十七歳。 |
慶応四年五月三十日 |
勇の安否を気遣いながら、 |
総司は短い人生に終止符を打つ。 |
The music produced byDR(零式)さん