佐幕派医師 |
天保3年6月16日、下総佐倉藩医師佐藤泰然(順天堂の祖)次男として江戸麻布の我書坊谷に |
生まれ、幼名を順之助。嘉永3年に幕医松本良甫の養子となり良順と改める。後年の名は順。 |
安政4年幕府の命により長崎へ赴任、来日のオランダ軍医ポンペの助手として近代医学教 |
育に従事し、日本初の西洋式病院である長崎養生所開設に尽力する。従来日本では漢方医 |
が正統で蘭方医は下位に置かれていたが、将軍お膝元の江戸にも種痘所が開かれるなど、 |
先進的な西洋医学への希求が高まっていた頃であり、良順はその先端を行く事が出来たの |
である。江戸では現在の東京大学医学部の前身となる西洋医学所が既に開かれており、文 |
久3年に良順は病死した緒方洪庵の後任として頭取に就任、医学所改革を目指すが幕府動 |
乱期の事で思うような成果は上がらず、自身は幕府医師として身を投じる。良順が名医と |
して信頼を置かれた逸話の一つとして、一橋慶喜が重い体調不良を訴え診察した時に投薬 |
してたちまち全快させた、というものがあるが、これは慶喜が多忙を極める政務のストレ |
スから心身を病んでいると判断した良順が一時的に阿片を飲ませて昏々と一昼夜も眠らせ |
た事、つまり何も考えずにぐっすりと寝かせてやればよいという極めて単純明快な療法で |
あったという。貴人に禁制の麻薬を投与する等は豪胆な良順ならではの発想であろう。 |
元治元年10月、有名な池田屋の殺傷事件の半年後であるが、将軍の上洛要請と隊士募集の |
ために江戸に下っていた新選組局長近藤勇が和泉橋医学所に良順を訪ねる。良順は世間を |
轟かせた近藤に面談を許し、「開国と攘夷の是非」を問われると、この武骨な剣客にも解 |
り易く日本と西洋の力の差を「刀と大砲」と例えて話し聞かせ、いたずらに攘夷を唱える |
よりは、我が国の将来のため開国を是とすると答えた。この率直さに近藤は大いに感服し |
後日改めて良順に胃痛の診察を受けて、以後の親交を結ぶ。翌慶応元年、将軍家茂の侍医 |
として京へ赴いた良順は、西本願寺の新選組屯所に招かれ隊士の回診を行う。寺の広い建 |
物を借りている雑居状態の屯所内では、隊士らが思い思いに生活している梁山泊さながら |
の様子を見るが、上長が通るのにごろ寝している隊士が多いのは失礼ではないか、と指摘 |
したところ、近藤から彼らは病人なので許しているという話を聞く。これを聞いた良順が |
病室を別にし看護人をつけ、入浴により清潔を保つ事、豚を飼う等して栄養のある食事を |
摂らせる事など具体的な指示をすると、近藤、土方は素早く対応し、良順も以後約1ヶ月、 |
医師南部精一を屯所へ往診させるなどして、概ね早期回復をみたという。この時の良順の |
診察結果では風邪と怪我が多く、次に食あたり、梅毒、難病者は心臓病と肺結核の2人の |
みと残している。京都滞在中は個人的に沖田総司を気に入って料理屋へ連れて行ったりし、 |
好感の持てる青年だったと後述している。 |
良順は新選組が後年江戸へ引き揚げてからも、近藤、沖田、斎藤一らの傷病を診察、五兵 |
衛新田移転の時期についても関わって面倒を見ているが、薩長の江戸攻めに際しては自ら |
弟子数人を率いて会津に走り、旧知の土方の戦傷を診察したり、藩校日新館を病院として |
負傷者の治療に尽力する。会津落城後は仙台に至るが蝦夷地渡航は断念、朝敵として捕ら |
われ禁錮となるが、赦されて東京に出ると早稲田に病院を設立。やがて陸軍大輔山縣狂介 |
(有朋)に知られ、明治4年に兵部省に出仕し軍医頭となり、陸軍軍医部を編制した。明治 |
6年初代軍医総監となり日本の陸軍軍医制度を確立。23年貴族院議員に選出され、38年に |
は男爵を授けられた。軍医学は公衆衛生学的な考えを基盤にしていたので、牛乳の飲用、 |
海水浴の奨励などの民間への指導が行われた。良順によって開かれた日本最初の海水浴場、 |
大磯照ヶ崎に記念碑がある。一方で、新選組との親交から日野高幡不動にある近藤土方の |
慰霊碑「両雄殉節碑」にも見事な筆跡で本文の揮毫を残している。明治40年3月12日大磯 |
で没、享年76歳。墓は神奈川県大磯町の妙大寺にある。 |
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