文久三年(1863年2月18日〜1864年2月7日)
1月 7日 松平主税介、幕府より浪士募集の命を受ける。

10日頃 土方歳三、小野路の小島鹿之助に年賀状を送り、浪士募集の情報を伝える。

15日 土方、小島鹿之助より刀一振りを借用する。

16日 近藤勇、小島鹿之助より鎖帷子を借用する。

17日 山南敬助・沖田総司、小島家を訪れる。

19日 近藤、浪士取締役の山岡鉄太郎に呼び出され面談。

26日 中条金之助、浪士取扱に就任する。
2月 4日 小石川伝通院に上洛希望の浪士集合する。松平主税介、浪士取扱を辞任する。

5日 小島鹿之助、送別に試衛館を訪れ宿泊する。

6日 浪士一同、伝通院に集合し、道中心得を申し渡され、組織編成が行われる。近藤は 道中先番宿割となり、土方・山南・沖田・永倉新八・原田左之助・藤堂平助は、芹沢派 の平山五郎・平間重助・野口健司とともに6番組小頭芹沢鴨の配下となって、井上源三郎は 三番組小頭新見錦の配下となる。

7日 井上松五郎、試衛館へ挨拶に赴く。

8日 浪士組234名、伝通院を出立して中山道を京都へ向かい、蕨宿に宿泊。

9日 鴻野巣泊。

10日 近藤、本庄宿で芹沢の宿の手配を誤り芹沢一派は路上で大篝火を焚く。

11日 松井田泊。

12日 追分泊。

13日 長久保泊。

14日 下諏訪泊。

15日 奈良井泊。この日火の用心の通達が出される。本庄宿での大篝火事件はこの時のことか。

16日 須原泊。

17日 中津川泊。
この日、近藤は芹沢の後任として小頭となるが、隊士は三番組小頭石坂宗順の配下に移動する。

18日 伏見泊。

19日 加納泊。
この日、芹沢が取締役となり、石坂配下の隊士は元に複して新小頭西恭助の配下となり、 近藤は先番宿割りに復帰する。

20日 柏原泊。

21日 佐武泊。

22日 大津泊。

23日 浪士組入京する。壬生村に分宿する。
夜、清河八郎、新徳寺に浪士を集め、尊皇倒幕の意志表明を行う。

24日 清河、学習院に上書を提出し受理される。

28日 近藤、六番組小頭を拝命する。

29日 午前中に六番組、午後からは三番組が御所を拝観する。

30日 清河、浪士組東下希望の上書を学習院に提出する。
3月 3日 浪士組東下の達しが下る。

4日 将軍家茂が入京。

6日 家茂に同道の八王子千人同心井上松五郎、壬生に近藤らを訪ねる。
同日 浪士組の江戸帰還が翌日に順延される。

9日 浪士組の帰還が再順延される。

10日 京都守護職松平容保へ残留浪士差配の命が下り、浪士組の芹沢・近藤・ 新見・平山・平間・野口・土方・山南・沖田・井上・永倉・原田・藤堂・ 粕谷新五郎・阿比留鋭三郎のほか、斎藤一・佐伯又三郎の17名が連名で 会津藩へ嘆願書を提出する。
同日頃 殿内義雄・家里次郎に鵜殿鳩翁より京都残留希望者募集の指示が下る。

12日 夜、近藤ら会津藩預かりとなる。

13日 浪士組江戸へ帰還する。
同日 近藤・土方・井上、井上松五郎を訪ねて酒宴を開く。

14日 松五郎、寺町通で後の新選組隊士大谷勇雄と出会う。

15日 芹沢・近藤・新見・平山・平間・野口・土方・山南・沖田・井上・永倉 ・原田・藤堂・斎藤・佐伯らのほか、殿内義雄・家里次郎・根岸友山 ・遠藤丈庵・清水吾一の20名、守護職邸を訪れるが容保不在の為拝謁できず。 同じく残留希望の粕谷・阿比留・神代仁之助・鈴木長蔵は病気の為欠席。

16日 松五郎、壬生に近藤らを訪ねる。
同日 近藤ら守護職邸で容保に拝謁。

22日 芹沢・近藤・新見・平山・平間・野口・土方・山南・沖田・井上 ・永倉・原田・藤堂・斎藤・佐伯・根岸・遠藤・清水の18名、連名で将軍 東帰に反対する嘆願書を板倉勝静へ提出する。

25日 会津藩士本多四郎らが壬生浪士組を訪ね、壬生狂言を見物し昼食を共にする。
同日 夜、殿内義雄、内部抗争により四条橋上にて斬殺される。
同日頃 粕屋・根岸ら離隊。

26日 近藤、故郷へ「志大略相認書」と題した大部の書簡を送り、あわせて剣術道具の 送付を依頼し、土方は鎖帷子の送付を佐藤彦五郎に依頼する。
同日 のちに新選組に加わる会津藩士加藤民弥、兄の小野権之丞を訪ねて殿内斬殺の模様を 語る。

27日 近藤・井上ら、松五郎を訪ねる。
4月 2日 芹沢・近藤・新見・土方・沖田・永倉・野口、大坂の平野屋五兵衛方で 百両を借用し、だんだら羽織作成等の資金とする。松五郎、大坂で近藤・芹沢・新見・ 土方・沖田・渡辺某、他1名と出会う。
同夜、近藤ら帰京。

6日 阿比留鋭三郎、病死。

8日 近藤・沖田・永倉・平間・斎藤・佐伯、八木源之丞宅の葬儀に参列。

10日 土方・井上、松五郎を訪ね芹沢について相談する。

13日 清河八郎、江戸麻布一ノ橋付近で佐々木只三郎らに暗殺される。

17日 朝、松五郎、八木邸を訪問。田中茶屋で土方・沖田・山南・井上・斎藤と面談し 近藤「天狗」の評を聞く。

20日 土方・井上、松五郎を訪ね相談事を持ちかける。

21日 将軍家茂の下坂に同道し、壬生浪士組は京屋忠兵衛方に宿泊。

22日 松五郎、京屋訪問。昼頃より土方・沖田・井上と九軒町の吉田屋で遊興する。

24日 大坂の常安橋会所にて家里次郎切腹。
5月 11日 壬生浪士、将軍家茂に従って帰京。

22日 沖田・井上、宿舎に松五郎を訪ねる。

25日 壬生浪士総員35人、連名で鎖港についての上書を幕府に提出する。
6月 1日 土方、松五郎を訪ねる。
同日 夜、不穏の風説により隊士10名が下坂。

3日 早朝、下坂の隊士、浪士高沢民部・柴田玄番を捕縛。
夕方、芹沢・山南・沖田・永倉・平山・野口・斎藤・島田魁、舟遊びの後 大坂力士と乱闘。
夜、近藤・芹沢の連名で乱闘の顛末書を東町奉行所に提出。
同日 壬生浪士3名、松五郎を訪ねる。

4日 前日の乱闘により、力士熊川熊次郎死亡。

10日 近藤・芹沢、将軍家茂の東帰に同道する松五郎に酒を贈り、夕方より近藤・ 土方・井上・永倉・野口・平山・佐伯、他5名で松五郎送別の酒宴を開く。

26日 夜、横田長兵衛こと植村長兵衛を、壬生浪士の名を騙った金策により斬殺する。 この頃 永倉・原田・井上、壬生浪士批判の水口藩公用人より謝罪文を取りつける。

27日 謝罪文返却を求め公用人の友人戸田栄之助、屯所を訪れる。

28日 和解の為角屋にて酒宴。席上、芹沢乱暴の末、角屋に営業停止7日間申し付ける。

29日 浪士石塚巌、大坂今橋筋の富家へ壬生浪士の名を騙り押借りを働く。

同月中  芹沢、大内真蔵と石沢千吉の名をもって、大坂大川町の加嶋屋作兵衛方 より30両を借用する。

同月中 京相撲勇川力蔵、隊士20余名を桂川に招待する。川遊び中に与力草間烈五郎と 衝突し、翌日、相手が壬生浪士と知った草間は、芹沢を訪ねて詫びる。
7月 1日 佐々木某の通報により、旅宿を襲い石塚を捕縛。
夜、難波橋畔に首を晒す。

4日 鴻池善右衛門方より芹沢・近藤、他4名が30両、武器料として200両の金策をする。
8月 2日 夜、佐々木愛次郎・あぐり、朱雀千本通にて斬殺される。

7日 祇園北林で相撲興行があり、壬生浪士が会場警備し、隊士多数が観戦。

9日 京力士揚ヶ霞が斬殺され、壬生浪士の犯行かとの風聞が流れる。

10日 佐伯亦三郎、芹沢一派によって朱雀千本通りで斬殺される。

12日 壬生寺で壬生浪士組への礼相撲が開かれる。
同日 夜、芹沢ら大和屋を襲撃する。

13日 昼頃、芹沢ら帰営。

18日 禁門の政変に隊士52名出動。その功により市中取締りを下命され、同日付けで「新選組」の 名を拝命する。

21日 三条木屋町へ桂小五郎の捕縛に向かうが不在、従者2名を捕らえる。

22日 早朝、平野国臣捕縛の為山中成太郎方に隊士数十名出動。

24日 三条縄手へ平野捕縛に出動。平野は逃走したが古東領左衛門を捕縛。
9月 13日 新見錦の別名と考えられる田中伊織、近藤の意に反するとして詰腹を斬らされる。

16日 芹沢鴨・平山五郎、八木邸にて暗殺。平間重助逃走。

18日 芹沢・平山の葬儀が執り行われる。

23日 会津藩、近藤の養父周斎の病気にも、近藤帰郷不能の旨を宮川音五郎らに通告する。

25日 市中取締りの働きに対し、各隊士に朝廷より1両ずつ下賜される。

26日 長州の間者として御倉伊勢武・荒木田左馬之介を屯所にて斬殺、楠小十郎を邸外にて 斬殺、越後三郎・松井竜三郎・松永主計は逃走する。
10月 10日 近藤、一力楼での公武合体派会合に出席し時勢論を述べる。この頃の隊士数は約60名。

15日 近藤、会津藩へ禄位辞退の上書を提出。
11月 9日 西条幸太郎、隊士岩崎一郎の名を騙り金策を謀る。

11日 西条を捕縛する。

16日 一橋慶喜の大坂入城に従い下坂する。

19日 近藤、御所施薬院にて町奉行永井尚志と面談する。

21日 日野の松本捨助、屯所を訪れて入隊を乞うが許されずに帰郷する。
12月 19日 松本捨助、帰郷して佐藤家で京都の模様を報告する。

27日 野口健司、切腹。光縁寺埋葬は28日かと思われる。
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