元治二年(1865年1月27日〜1865年4月30日) 慶応元年(1865年5月1日〜1866年2月14日) |
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1月 | 8日 | 夕方、谷万太郎・谷三十郎・正木直太郎・高野十郎(阿部十郎)、 大坂松屋町のぜんざい店石蔵屋を襲撃し、土佐の大利鼎吉を斬殺する。 |
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10日 | 谷万太郎・正木、ぜんざい屋事件の報告書を近藤・土方に送る。 |
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11日 | 新選組、大坂天神橋に檄文を張り出す。 |
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19日 | 津藩士中村左馬、新選組屯所を訪れて大坂の情勢を聴取する。 |
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25日 | 見廻組、兵庫で佐々木六角源氏太夫ら14名を翌日にわたって捕縛。 |
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26日 | 残党、大坂へ逃亡。 |
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27日 | 隊士約30名、大坂で源氏太夫の残党を襲い一人斬殺、23名を捕縛。 |
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同月中 | 朝廷より禁門の変の感状が下される。 |
2月 | 9日 | 土方、佐藤彦五郎に宛てた書簡で、昨年末編成の『行軍録』に永倉不在の釈明を記す。 |
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22日 | 山南が脱走し、沖田が大津に追うという。 |
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23日 | 山南、屯所で切腹する。 |
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24日 | 山南の葬儀が執り行われる。 |
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28日 | 西本願寺門跡使田中主鈴、新選組の屯所移転を了承する口上書を朝廷に提出する。 |
3月 | 3日 | 大谷良輔、切腹。 |
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6日 | 三条通の甲冑屋で押借を働く6名を捕縛。 |
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10日頃 | 新選組、西本願寺北集会所に屯所を移転する。 |
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20日 | 福田内蔵之助、新選組より350両の借用依頼のうち、200両の貸渡を了承する。 |
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21日 |
沖田、山南死去の手紙を佐藤家に記す。 同日頃 土方・斎藤・伊東、隊士募集の為、江戸に下る。 |
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26日 | 新選組、祇園一帯での出火に出動する。 |
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同月中 | 朝廷より禁門の変の感状が下される。 |
4月 | 1日頃 | 久世家の家臣某、新選組に通行を妨げられた事に対し、松原忠司を詰問する。 |
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7日 | 慶応に改元される。 |
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12日 | 土方、日野の佐藤家を訪れ逗留。 |
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14日 |
尾関弥四郎の手下で大坂弓場町の易者村井北山こと善三郎、
茶筌金作に新選組入隊の紹介状を記す。 後日、金作は屯所で面接を受けるが入隊せず。 |
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15日 | 土方、日野を去る。 |
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27日 | 土方・斎藤・伊東・藤堂とともに新入隊士52名を 引き連れて江戸を出立する。 |
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同月中 | 西本願寺家来西村芳三郎(西村兼文)、京都脱走人と偽って 潜入した防長両国での探索書を一橋家に送る。 |
5月 | 9日 | 土方一行、草津宿着。 |
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同月中 | 新選組、大坂警備を命じられ数名が下坂。 |
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26日 | 大坂で藤井藍田を捕らえ、万福寺に収容する。 |
閏5月 | 5日 | 大坂の新選組、京橋で不審人物の検問を行う。 |
11日 | 京都松ケ崎に潜伏の長州人を捕縛する。 | |
12日 |
幕府より新選組その他の警備陣に持ち場の割付けが行われる。 同日 新選組、単内式部・矢野玄道ら5名を捕縛する。 |
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13日 | 上洛中の家茂を、膳所において妨害する計画が発覚。 |
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14日 | 佐野七五三之助ら4・5名の隊士が膳所に出張し、河瀬太宰宅を捜索中に留守を 守る妻の幸が自刃を図る。 |
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15日 | 河瀬太宰ら3名捕縛。 |
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18日 | 河内狭山藩士山本時次郎を捕縛。 |
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21日 | 家茂、膳所事件の為大津泊まりとなる。 |
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22日 | 家茂の入京により、三条蹴上に迎え二条城まで警護する。家茂に同行の 松本良順、木屋町の南部精一宅に旅宿。近藤、松本を訪ね、松本も屯所を訪れる。 この時隊士の衛生状態を憂う。 |
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23日 | 南部精一、以後一ヶ月ほど屯所への往診を行う。 |
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24日 | 家茂の下坂に藤ノ森まで警護する。 |
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同月中 |
井上謙三を捕縛するが、伊東の口添えによって放免する。 |
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同月中 | 中西登・小路平三郎、石津茂一郎を醒ケ井魚棚の旅宿で捕縛。 |
6月 | 1日 | 米価釣り上げの風聞により、米問屋主人らを捕らえ、万福寺に連行する。 |
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6日 | 西四条家家来2名を屯所に連行するが、放免。 |
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15日 | 大坂の新選組、五神社に対し目付方宿舎に集合の回状を届ける。 |
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16日 | 朝、天満宮総代の大道吉儀、宿舎にて三木三郎と面談。 |
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21日 | 施山多喜人・石川三郎、町家の婦女と密通した罪により切腹。 |
7月 | 1日頃 | 隊士134名を列記した『英名録』が作成される。 |
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4日 | 大坂某橋警備中の隊士、某藩士三人と口論の上、刃傷に及ぶ。 |
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18日 | 脱走した植田末次ら3名、名古屋辺にて朝名を騙り金策を行うとの通報が寄せられ、 伊東らは東海道、島田らは中山道を探索。 |
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25日 | 佐野牧太、金策露見により斬罪。 |
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同月中 | 伊東・富山弥兵衛・茨木司・粂部正親・篠原泰之進ら大和へ出張し、 出張先で浪士と衝突し、粂部が足を負傷する。 |
8月 | 1日 | 平藩士佐藤久左衛門・石川弥右衛門、新選組に詫状を入れる。 |
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5日 | 隊士某、島原住吉社前にて一橋家臣某と口論の上斬殺する。 |
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8日 | 武田以下6・7名の隊士、蹴上奴茶屋にて金策の薩摩藩士橋口四郎・隈本荘助を 捕縛に出動し、橋口を斬殺、隈本を捕縛する。 |
9月 | 1日 | 松原忠司、切腹傷の悪化により死亡。 |
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9日 | 夜、堀川松原通にて巡察隊士、肥後藩士四人と口論の上屯所へ連行するが、 同藩士多数が押し寄せた為に引き渡す。 |
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同月中 | 新選組、壬生寺境内を調練場として借用を依頼する。 |
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同月頃 | 第二次『行軍録』が作成される。 |
10月 | 3日 | 将軍家茂、江戸帰還の為に下坂中、松平容保は帰還阻止の為枚方で諫言し帰京させる。 近藤も枚方に赴き、家茂を警護して京都に戻る。 |
11月 | 4日 | 近藤・伊東・武田・山崎烝・吉村貫一郎・芦屋登・新井忠雄・尾形俊太郎・服部武雄、長州訊問使に従い広島へ出立。 この時、近藤は佐藤・小島・粕谷家に宛てて覚悟の程を書き記し、あわせて沖田に剣流名を継がせたい旨伝える。 |
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7日 | 近藤ら、大坂を出立。尾関弥四郎病死。 |
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16日 | 近藤ら、広島に到着。 |
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20日 | 長州訊問使、近藤らの長州入国を求めるが拒絶される。 |
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21日 | 伊東の口添えによって出牢していた赤根武人ら3名間者として広島より長州に派遣される。 |
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23日 | 長州藩士大津四郎右衛門、近藤らを訪れ、夕刻に近藤が広沢藤右衛門を訪れて面談する。 |
12月 | 11日 | 近藤・武田、広島滞在中の長州藩士松沢音三を訪ね、帰還時の同行を依頼するが謝絶される。 |
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12日 | 桜井勇之進、死亡。 |
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14日 | 近藤・伊東・武田、岩国入国をはかり、広島を出立する。 |
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15日 | 近藤・伊東・武田、岩国の役人に長州入国を求める。 |
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16日 | 近藤ら、長州入国を断念して岩国を去る。 |
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17日 | 近藤ら、広島を出立して帰京する。 |
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22日 | 帰京した近藤ら、報告の為会津藩を訪れる。 |
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