渋沢栄一
しぶさわ えいいち

幕 臣
 
天保11年2月13日、武蔵榛沢郡血洗島村に生まれる。幼名は栄二郎。仕官後
 
篤太夫のち、栄一と称す。号は青淵。父渋沢市郎右衛門は、養蚕と藍作りの
 
ほか、豪農として金融業も営んでいた。渋沢は少年時代より家業の一つで
 
ある藍玉の販売に従事し、嘉永6年の関東一帯の干ばつの折には、14歳に
 
して二番藍の買い占めを成功させた。
 
7歳の頃より尾高惇忠に漢学を学び、その弟長七郎の尊王攘夷論の影響を
 
受けた。22歳で江戸に出ると海保章之助の塾で学び、神田お玉ケ池の千葉
 
道場に通い、増々尊王攘夷の志士としての意気が高まった。
 
文久2年、師の尾高や藤田小四朗らと高崎城乗っ取りを企てるが失敗。京都
 
に逃れて、翌元治元年冬、一橋家の用人平岡四朗に見込まれ、一橋慶喜に会
 
い一橋家御用談下役となる。そしてすぐに御勘定組頭となり一橋家の財政刷
 
新をはかった。
 
慶応3年、慶喜の弟徳川昭武に随行。パリ万国博に出席し欧州各国を歴訪し
 
た。この体験により渋沢は、それまで捨てきれなかった攘夷思想の無意味さ
 
を知り、経済力の必要性を感じたと言われる。滞欧中に幕府が瓦解したため
 
急遽帰国。明治新政府に招じられて大蔵省租税正に抜擢され、国家財政の確
 
立に尽力するが、明治6年、大蔵省輔の職をなげうって下野した。
 
自由経済の確立を旗印に、第一国立銀行創立を皮切りに王子製紙、日本郵船
 
など五百もの事業に関わったといわれ我が国近代実業界の第一人者となった。
 
晩年は教育、社会事業に関心を持ち、一橋大学の前身である実業教育の学校
 
商法講習所を設立するなど、その関係した社会公共事業は、六百余に達した
 
という。
 
昭和6年11月11日没。享年92歳。
 
■ 御 家 紋 ■
 

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