幕 末 維 新 新 選 組

新選組のはじまり

日本近海に外国船が出没するようになったのは相当以前からではあったが、嘉永六年、ア メリカのペリー提督が艦隊を率いて来航し、正面から国交を突きつけてきた時、日本は騒 然となった。「泰平の眠りをさます蒸気船、たった四杯で夜も寝られず」とは、当時の武 士の狼狽ぶりを揶揄した江戸の狂歌である。開国を迫る外国の前で、幕府は苦境に迫られ る。鎖国は本来、徳川幕府が政策として取り決めた法であり、それを撤回するに幕府が決 めたところで文句を言う筋ではないのであり、オランダと清国を通じて国外貿易を独占し てきた幕府は、海外情勢についても、最も知りえてきたといえる。この間に欧米は飛躍的 な進歩を遂げ、次々と海外への植民地獲得、貿易に必要な中継基地の確保を続けてきた。 切磋琢磨のあるところ、武器、武力とも強まったのは当然である。万一、西欧列強が軍艦 と砲弾を結集して攻撃を強行した場合、戦国期が終わって以来、内乱防止のため大船も銃 砲もあえて進化させず超低成長時代の秩序を保っていた日本はひとたまりもない。現に、 隣国の清が、アヘン戦争に負けたために屈辱的な服従を余儀なくされた。
だが二百数十年も外国と一般人との交流がない、という鎖国体制は、それが古来からの国 是であるかのような錯覚を起こさせる。侵略許すまじという危機感は攘夷の声を高めた。 列強の要求を幕府は「天皇の勅許を得ないと受け入れられない」という理由で回避しよう とした。朝廷は単に権威の象徴としての存在に抑え政治には口出しをさせない、というの が幕府初期からの方針であったものを、自らその禁を犯したといえる。朝廷が幕府に背く はずはない、という目論見もある。しかしこれが、将軍は日本の元首ではなく、さらに上 に君臨する「天皇」という権威があったとの意識を内外に拡大してしまった。江戸庶民で は天子様は京都にいるということをかろうじて知っているという位であったが、水戸藩で は既に何代も前から、「天皇こそが日本の主君であり、将軍はその下にある。まずは天皇 を敬うのが正しい」という「尊皇」の精神を武士に学ばせていた。朝廷は長く幕府の強権 に屈してきたが、忽然と時代の脚光を浴びたのである。そして、時の孝明天皇は一度も御 所外へ出られることもなく、外国人=夷狄は祖国を踏み荒らすとして忌み嫌っておられた。 ゆえに勿論、天皇の意思は外国人の侵入拒否、「攘夷」である。天皇を尊重し、攘夷を唱 える「尊皇攘夷」は、知識人の間で普遍的な考えとなった。
が、幕府は天皇がノーと言ったから、戦争になってでも開国は拒絶します、と簡単にいう わけにはいかない。子供が大人に喧嘩を売るようなもので、今の戦力の差では攘夷など不 可能、が現実なのである。早急な軍備と海防は島国日本の急務となった。この難局を、指 導者である幕府を主体に立て直そうというのが「佐幕」であり、朝廷と幕府が一つになり 協力して国難に当たろうという理想が「公武一和」=公武合体である。幕府の施策に反対 する動きはあっても、大部分が「倒幕」を発想するまでには、まだ至っていなかった。
しかし悪いことに、将軍は十二代家慶が病没、十三代家定が虚弱、後継者は養子を選択せ ざるを得ず紛糾し、幕府自身に強力な統率力を欠いていた。水戸家の子息で成人に達し英 明と評判された一橋慶喜を有力大名らが押したが、強引に押し切って十四代将軍を紀州慶 福、すなわち家茂に決定し、同時に日米修好通商条約を勅許なしの調印に踏み切ったのが 大老井伊直弼である。井伊は反対派を安政の大獄で徹底的に弾圧し、幕府最後の強権をふ るった。が、憎しみは桜田門外での暗殺を招く。幕府の権威は失墜し、抑圧された側は息 を吹き返す。皇妹和宮を強引に将軍家茂へ降嫁させたが国情は収まらない。なし崩しに始 まった外国との貿易の余波で物価は乱れ、脱藩が流行し、天誅を称した暗殺が横行し、特 に京都の惨状はひどいものであった。幕府は京都守護職を新設し会津藩にこれを任せたが、 ついには二百三十年ぶりに将軍自らが京都へ上り、天皇と直接に対面の上、対応せざるを 得ないところにまで追い込まれる。そして、この将軍上洛が、後に新選組という特異な集 団を生むに至るのである。

 安政二年(1855)二月

幕府は、洋式調練を目的に、騎馬調練、歩兵部隊の射撃訓練、武芸稽古所として講武所を 設置する。全く新しい、官立の武道専門大学のようなものである。講武所の教授には、武 芸に優れた者を身分を問わずに採用するという主旨であった。天然理心流四代目宗家とし て試衛館道場主であった近藤勇にとって、この教授に採用になることは、農民出身という ことから晴れて実力を認められ、幕臣にも登用される大きなチャンスであり、応募する。 当時は、武士といっても御家人、同心などの株を金で買えばなる事は出来た時代である。 勿論、講武所教授への登用といっても、ただ強ければ一介の浪人でもなれるか、といえば さにあらず、幕府のコネ重視主義の中では、運動資金力が必要とされた事も考えられる。 武州の豪農達に強力な支援を得られる近藤ならではの応募であろう。しかしながら、剣術 教授見習方には一度内定しておきながら、正式採用を一年以上も待たされ、挙げ句の果て には取り消された。「身分を問わず実力で」と言いながらもそれは建前に過ぎず、結局は 百姓の出身ということで不採用になったのだから、屈辱は募る一方であった。

 文久二年(1862)

京都では幕吏や佐幕方公家の暗殺が相次ぎ、京都守護職松平容保が赴任し会津藩兵が乗り 込んだが、世情不安は治まらなかった。講武所剣術教授、松平主税介が幕府の政治総裁職 松平春嶽に「浪士隊募集」を唱える。実際に発案したのは、尊皇攘夷派の清河八郎で、幕 臣山岡鉄太郎を通じて献策したものであった。将軍上洛という異例の事態に備え、江戸に 集まる浪士を公募して隊伍を組み、将軍警護の名目で一斉に上洛させる、というものであ る。これは、江戸の浪士を集めて取り締まれる事にもなり、物騒な京都での警戒には、捨 て駒に出来る浪士を当たらせる、いわば浪士を使って浪士を狩らせる、という、幕府の内 心にとって都合の良い案であった。この時の清河の腹案にはまだ気づかれていない。

 十二月九日

幕府は浪士取扱役に松平主税介、山岡鉄太郎、鵜殿鳩翁を任命。池田徳太郎、石坂周造ら が関東各地を精力的に勧誘を行った。
もちろん近藤も興味はあったのだが、取扱役が松平主税介ということで、八年前の不採用 の屈辱を忘れられないまま講武所の主税介を尋ねた。主税介曰く、「會津藩主、松平肥後 守(容保)が初代の京都守護職に任ぜられた。守護職の任務は、公家と幕府の調整役であ るが、薩摩や長州が荒れる京都では、大変ご苦労が多いであろう。公武合体の為に『浪士 組』に入り、是非働いて頂きたい」。この話に近藤は今までの屈辱を捨て、試衛館道場を 畳んでまで馳せ参じる決意を固めた。土方歳三、沖田総司、山南敬助、井上源三郎、永倉 新八、原田左之助、藤堂平助らと浪士組に入隊。当初の予定では、浪士五十人を集め、一 人に支度金五十両を支給するということで、予算では二千五百両計上していたが、予想以 上に反響は大きく、三百人も集まってしまい、松平主税介は事の大きさに辞任。引き継い だ鵜殿鳩翁が集まってきた浪士に約束通りの金を出せないと説得。幕府には、初めから給 付金を出す予定はなかったのでは?と疑問視もされていた。

 文久三年(1863)二月五日

道中心得が浪士達に通達され、編成を組んだ。目付、世話役などのほかに一番から七番ま での組(一組は三十人)に分かれた。ちなみに近藤は六番子頭であった。

 二月八日

上洛の為、小石川伝通院を出立。中仙道を通り、蕨宿→鴻巣→本庄→松井田→追分→長久 保→下諏訪→奈良井→須原→中津川→伏見→加納→柏原→武佐→大津から京都の行程。

 二月二十三日

京都到着。壬生に宿営。清河八郎が、「幕府に集められたが我々は浪士であり、幕府の禄 を受けているわけではない。尊皇攘夷の魁として独自に行動する」と、朝廷への奏上書を 提出する旨を発表。将軍警護の名目で幕府の名と資金を利用し、自らの私兵を集めたも同 様であった。

 二月二十九日

実は幕府も清河の策謀に怒り、別命をもって江戸への帰還を示した。朝廷に自分の意思が 達したと感じた清河は新徳寺にて「江戸に戻り、攘夷の為、防備を固めるべき」と主張。 これに対して芹沢鴨ら水戸浪士や、近藤ら試衛館の者達が猛然と反論。浪士隊は結局、上 洛してわずか六日間で分裂した。京都に残ったのは、芹沢鴨ら水戸浪士達と近藤ら試衛館 の者達と、別途幕府から内命を含まれた者、計二十二人だけであった。

 三月十日

会津藩主、松平容保に嘆願書を提出。かねてから市中警備を自発的に行っていた彼らであ ったが、自分達の仕事を容認してほしいということで要請。その後、三月十五日には壬生 の浪士二十四人(後に斎藤一、佐伯又三郎が加わる)が会津藩預かりとなる。この壬生浪 士組が母体となり、後日八月十八日の政変の折に御所へ出動した功を認められ、武家伝奏 を通じて正式に「新選組」の名が生まれるのである。

武士道

武士道、という言葉の歴史はさほど古くはない。武士、はそもそも源平の頃の 起こりから戦国期まで自分の土地、生命を守るために武装し、集団を組み、 自己の利益のために長と頼むものに従う、あるいは戦って相手を倒すことで 新たな権利財産を獲得する。いわば生存のための戦闘に従事し、殺しのプロ、 となったものが古来の武士である。

しかし、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という交代を経て天下統一が為されると、 武士各自の戦闘による争奪、ことに下克上の精神は、政権安泰のためには 非常な危険性を含むことになるから、これを改めさせ取り除かねばならない。 荒くれた武将の間に茶道を流行させ、礼儀作法を教え始めたのもまず その一端である。徳川幕府成立後、家康から秀忠、家光の三代にわたる 創立期の将軍は、今後武士の守るべき指針を示し、その規範の中で全国の武士を 統率し、磐石の基盤を作る必要があった。この頃に発布された 「武家諸法度」こそがその原典である。元和令、寛永令の両方を見れば、 政令としては幕府への謀反の芽を摘むため予防的禁止条項を 多々あげているが、大きくは、武士の精神的な規範を述べている。

◆武士は文武両道を心がけ支配階級として自らを正すべきである、というもの。
「文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事。」(文武両道の精神)
「群飲佚遊を制すべき事。」(酒色遊興にふけるな、の意)
「諸国諸侍、倹約を用ひらるべき事。」
「国主は政務の器用をえらぶべき事。」(適材適所)

◆江戸幕府の定める法律の厳守。
「法度に背くの輩、国々に隠し置くべからざる事。法は是れ礼節の本なり。」
「法に背くの類、其の科軽からず。」
「万事江戸の法度の如く、国々所々に於て、之を遵行すべき事。」

全国の武士が各々の主君に忠実であり、上下関係を守り、法に背くべからず、と いう事が徹底されれば、結果、武士の頂点にたつ将軍の政権は安定する。 この文面はごく当然な事を述べているようであると同時に、徳川幕府にとって 最も都合のよい「武士のあり方」を求めたものと見てよいであろう。しかし、 その浸透によって長い戦乱の世を忘れるほどの、俗に徳川三百年といわれる 泰平の世を作り出したことも事実である。

ここに、幕末最後の年まで徳川に忠節を尽くすことになる会津藩の藩主が発した 「家訓」を挙げると、武家諸法度の精神がそのまま反映されていることがわかる。


 大君(将軍)の義、一心大切に忠勤に存ずべく、列国(他藩)の例をもって  自ら処るべからず。もし二心を懐かば、すなわち我子孫にあらず、  面々決して従うべからず。

 武備は怠るべからず。士を選ぶを本とすべし。上下の分を乱るべからず。

 兄を敬い弟を愛すべし。

 婦人女子の言、一切聞くべからず。

 主を重んじ法を畏るべし。

 家中は風儀を励むべし。

 賄を行い媚を求むべからず。

 面々依怙贔屓すべからず。

 士を選ぶには便辟便侫(口先で取り入る)の者を取るべからず。

 賞罰は家老のほか、これに参加すべからず。
 もし位を出ずる者あらば、これを厳にすべし。

 近侍の者をして人の善悪を告げしむべからず。

 政事は利害をもって道理をまぐるべからず。
 詮議は私意を鋏み人言を拒ぐべからず。
 思う所を蔵せず、以てこれを争うべし。
 甚だ相争うといえども、我意を介すべからず。

 法を犯す者はゆるすべからず。

 社倉(藩庫の食糧)は民のためにこれを置く。永利のためのものなり。  歳餓えれば、則ち発出して、これを救うべし。これを他用すべからず。

 若しその志を失い、遊楽を好み、驕奢を致し、士民をして  その所を失わしめば、則ち何の面目あって封印を戴き、土地を領せんや、  必ず上表蟄居すべし。

 右十五件の旨堅くこれを相守り、以往もって同職に申し伝うべきものなり。

    寛文八年戊申四月十一日
    会津中将      家老中


やがて武士の間でも戦国の気風は次第に薄れ、平和な世の施政者と しての役職に応じた能力が重視されるようになり、武士は本来の「戦う士」 ではなく、四民の上に位置する「武士」という名の位・身分資格を意味するように なったといえる。苗字帯刀は一種の特別待遇の象徴となり、また、本来の武士で なくても株を金銭で買うことで、武士の身分になる者も出てくるようになった。 また教育・文化が浸透してゆき、「武士道」は独自に純化して追究されるように なっていった。武士道とは「死ぬことと見つけたり」とまで突き詰めた有名な 「葉隠」も江戸時代中に編み出された考えである。


葉 隠

「葉隠聞書」が正しく「葉隠論語」「鍋島論語」などとも呼ばれている。全十一巻。肥前 鍋島藩士、田代陳基が、先輩にあたる山本常朝の談話を書き取った文書となっている。 肥前藩中心の極端な尚武思想に貫かれた武士道研究の資料となっている。享保元年(1716 年)に完成。

「葉隠」は一般的に原書の聞書第一に掲げられている有名な文章である「武士道というは 死ぬ事と見つけたり」の印象が浸透している。一般的に「武家諸法度」からの思想の解釈 となっている。

武家諸法度の立法の趣旨とは、「恩と奉公」という中世以来の武家の思想の崩壊である。
つまり「恩と奉公」が発展していきついた「下克上思想の崩壊」が目的である。下克上は 文字通り「下が上を乗り越える」ということだが、恩と奉公の観念が戦国時代では「君、 君たらざれば。臣、臣たらず」という思想に高まった。「主人が主人らしくなければ、部 下も部下としての義務を果たさない」という観念である。この「主人が主人らしくない」 というのは主人として「部下に対する生活保障能力の有無」と考えられる。だから戦国時 代の武士にとって主人に忠義を尽くすというのは反対給付として「主人は必ず部下の生活 を保障しなければならない」という考えが根底にあった。つまり労働契約である。だから 戦国時代では「部下が主人を選ぶ時代」であり、その言葉は必然的に「武士の転職時代」 を出現させていたのである。
「元和偃武」によって平和状況が到来した後、下克上思想がまかりとおっていたのでは天 下人は無論の事、権力者側にいる人間は困る。そこで持ち込まれたのが「朱子学」である。 朱子学の思想は「君、君たらずとも、臣、臣たれ」というもので主人が主人らしくなくと も、部下は部下の責任を果たさなければならないという、使う側にとって都合の良い論理 である。

事実、明治維新以後の戦時下ではこの一語だけが軍国主義に利用され、武士は「主君の命 ならば喜んで死を超越出来る気心を持つ」という解釈にされている。国民は天皇の子であ る。天皇、即ち日本国であり、子である民は親(天皇であり、日本国である)の為に死す る事により義を貫かせるというスローガンを打ち出していたのである。その反動で戦後は 排斥されていた。

この「葉隠」を再び世に出したのが三島由紀夫なのだが、彼は今日的に新しい解釈を示し たものの「言動一致」を説く「葉隠」そのままを実行した為、その死ととともに再び追い やられる形となったのである。

「武士道とは死ぬことと見つけたり」にしてもその後を読めば死ぬか生きるかの「二つ  〜 (二者択一)の場」に立ったら武士たるものは死を選ぶだけのこと。それには日常、 腹を据えて生きるのだ、といい、しかし「我人、生きる方が好きなり、多分好きの方に理 が付くべし 〜 」人間誰しも生きたいのだから、いい方の理由づけを考えるだろう、と ごく当然の事を述べているに過ぎないのである。
また「男は一歩出れば七人の敵あり」といっている。男子たるもの職場や学校、競技など でも競うものは七人くらいはいるであろう。とはいえ、武士でもないのに四六時中、生と 死を頭にはおけない。だが極端に緊張を必要とする場面に出くわした場合「どうでもよい」 で取り組む状況下でも「可能な限りやってみる」心構えでやってみればあとで生きる楽し みがあるということを説いている。

「いざという時は武士は死ぬもの、という覚悟をもっていれば、どんな時にもうろたえて 誤ることがない。生きていたいのは当たり前だから、楽なほうにのみ言い訳を作っていい 加減に過ごすのが人間である。いい加減に事に臨むよりは真剣に可能性を求めて取り組め ばこそ、生きている事の喜び楽しみも感じられるのだ。家臣は主君を選べぬ時代である。 臣に生まれた以上は己の分を尽くし、武士として死ぬ瞬間まではあらゆる知恵を絞り言動 一致して立派に生きよ。」という事である。
つまり「葉隠」とは、全てにおいての行動の知恵を説いているといえましょう。


新選組の士道

「士道に背くまじき事」という言葉は、後世の子母澤寛が文章を作成したとはいえ、 新選組の法度の第一とされた精神の根源であった事は確かである。 ではその士道とは何を示すものであろうか。士、を「さむらい」と受け止めれば 士道とは主君に尽くす道であるといえるが、浪士集団として結成された 新選組の尽くすべき主君とは誰なのか。もともと同志の関係として成り立った 新選組には内部の主従関係はない。尊皇佐幕に尽力し、会津藩の援助を受けたと いっても、天皇・将軍・会津藩主の誰にも君臣の関係で仕えるわけではない。 新選組を幕府から預かり深く関わった会津藩でも、彼らを臣下に抱えたわけではなく、 京の治安維持という共通の目的に合致した間は共同して働いたが、会津戦争の 折には新選組は外人部隊としての扱いであり、藩士同様の庇護をしたわけではない。 会津藩主松平容保に主君の恩を感じるとするならば最後まで命運を共にする のが武士の道理であろうが、生死も共に、という主従の関係ではないから、 土方歳三率いる新選組本隊は別の可能性を求めて同地を去ったのである。

つまり、新選組には他の武士のような「生身の人間である主君」は誰も存在せず、 でありながら各人は「武士」であろうとした。武士であるからには主君を持たなければならない。 彼らが主君と等しく信じたものは、新選組が旗印に用いた「誠」の一字である。 誠、は言い換えるならば信念、真心であり、それぞれが自己の内にこそ持つものである。 規制の君臣関係によらず、自立・自戒・自主の精神によって武士たらんとする事は、 相応に自らに厳しくなければならない。浪人、農民、町民の出身者が集まった 新選組では、誰もが理解しうる統一した法度を厳守することによって、入隊すれば 等しく「武士」であるとした。そして法度の根本は前述した「武家諸法度」の精神から 取り入れている。文武両道と法の遵守、である。脱退の禁止も、当時は脱藩が流行して 薄れたとはいえ、本来は武士としての大罪を改めて禁じたに過ぎず、無断の訴訟金策 取り扱いも、法を守る上では「してはならない事」として当然の条項である。

武士として当然守るべきこと、を守り、あとは実力本位で用いる。 この考えは泰平の身分制度の中で鈍化した「武士」を見慣れた者にとっては新鮮な魅力 だったであろう。各個人の心が違う以上、己の心を主君(信ずるべきもの)とすれば バラバラになる、との見方もあろうが、同じ志をもって集まったもの、すなわち 「同志」でいる間は、前歴年齢出身地などの瑣末な要素にこだわらず、 共通の目的に参加し、生きることが出来る。同志でいるための信念を失った者から 脱落していくのである。

他の武士のように生身の人間である主君の意向に左右されない独自性、 いわば遊撃隊としての自由な機動力を発揮していた頃が、新選組の最も強かった 時代であり、体制上、正式な幕臣となって将軍との主従関係を持った時から、 その突出した強みが薄らぎ、仮にも主君とした将軍慶喜の存在によって行動を 大きく制約され、やがて組織の解体に繋がったことは周知の通りである。 近藤勇は辞世に「顧みて君恩を思えば涙さらに流る」と絶唱するも、 慶喜個人を主君とするなら、逆に彼によって新選組局長みずからが理不尽な斬首により 命を落とす結果を招いたのであるから、「恩」を受けたとは当てはまらないであろう。 幕府の大敗と瓦解により、新選組隊士らは本来の「個々の信念に基づいて行動する」と いう姿に戻り、それぞれの士道をまっとうすべく戦いを続けた。京都に根付いた頃の 強固な組織を維持する事は最早なく、心を同じく出来なくなった者は 既に「同志」ではないから、最古参幹部の離脱もその時点ではあり得たのである。

しかし結果として、戊辰最終戦争となる蝦夷地箱館にまで渡航した隊士たちは、後世の 見方による「滅びに相応しい死に場所を探して彷徨った」のではなく、あくまでもその 時代に生きる可能性を求めて、それがより多く求められる地へ転じたという事であり、 及ばず敗戦、捕虜となってもなお、自らの生を放棄して自決した隊士はいない。 新選組隊士の士道、は自らの心に主君を持ち、生きるためにこそ戦う、という事であり、 「武士道とは死ぬことと見つけたり」という机上で作り上げられた究極美、とは 違うものだというのが我々の考えである。



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