村田新八
むらた しんぱち

薩摩藩士
 
天保7年11月3日、鹿児島城下高見馬場に高橋八郎良中の三男として生ま
 
れた。母は、長倉氏。幼時、村田経典の養子となる。名は経麿、後、経満と
 
改名。通称、新八。幼少から、9才年上の西郷隆盛に兄事し、文久2年西郷
 
が徳之島に流罪になったとき、連座して鬼界が島へ流された。2年後、西郷
 
が許されたときに、新八も西郷に連れられて鹿児島に戻った。慶応3年には
 
薩摩藩の討幕方針を大村、平戸、長州諸藩に説明した。
 
明治元年、戊辰戦争では、薩摩郡二番隊監軍として奥羽に出征し、同2年、
 
鹿児島常備隊砲兵隊長になった。
 
明治4年、西郷の政府入りに伴って上京し、宮内大丞に任ぜられ、岩倉遣米
 
使節団の一員として欧米を視察する。
 
明治7年、帰朝したが、征韓論に破れて下野した西郷に従って辞職して帰国
 
した。鹿児島では、桐野利秋、篠原国幹らと私学校創設に加わり、砲隊学校
 
監督となる。
 
明治10年、西南戦争では、西郷軍二番大隊長として参戦。本陣を木留におき、
 
田原、吉次、植木方面で戦い、熊本城包囲戦に敗れて、西郷と共に人吉に退
 
却。次いで、宮崎に移り、諸隊の指揮にあたっていたが、都城が陥落するに
 
及んで退却し、佐土原、宮崎、高鍋、美々津 延岡に転戦したが、利なく、
 
9月1日に西郷と共に鹿児島に入り、城山に布陣して政府軍と戦い、24日戦死、
 
又は、自刃したといわれる。享年42才。
 
村田は六尺もある大男で西郷とよく議論し、議論が決着しないときには相撲
 
をとったといわれている。
 
墓は、鹿児島市上竜尾町の浄光明寺内南州墓地にある。
 
 
 

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