幕末諸藩の戦歴 壱

■居所、領地高■藩主■藩内状況、動向■主な戦歴■総出兵人数■死傷者数(士卒)■士卒属数
会津若松(斗南)藩
あいづわかまつ(となみ)はん
■陸奥会津若松二十八万石、親藩。
■松平(保科)容保(一八三五〜九三)肥後守。文久二年七月、京都守護職に就任し、孝明天皇の厚い信頼のもとに活躍した。慶応三年十二月、辞職。翌年正月の鳥羽伏見の敗戦に徳川慶喜とともに江戸に戻り、二月十六日には帰国謹慎し恭順を願い出たが赦されなかった。九月二十二日に降伏した後、容保は東京鳥取藩邸に監禁され、自宅謹慎をへて放免されたのは明治四年のことである。この間、明治二年に家名再興を許され、嫡男容大に陸奥斗南三万石が与えられた。
■慶応四年、「朝敵」とされた会津若松藩は恭順嘆願を繰り返す傍ら、家老の梶原平馬を中心に、仏式銃隊を核とする軍備の洋式化をはかった。主力軍は年齢別に四隊に分け、朱雀隊(十八〜三十五歳)、青龍隊(四十九歳まで)、玄武隊(五十歳以上)、白虎隊(十六、七歳)とし、身分により士中、寄合組、足軽に編成した。仏式小隊は一小隊銃手四十名、諸役八名で編成されるが、会津藩では二個小隊をもって一中隊とし戦闘単位とした。実際はこれ以外に兵糧方や医師、従者、軍夫などが加わるので百五十名から二百名に達したと見られる。こうして生まれた三十一中隊を中核に、砲兵隊二隊、築城(土工)兵一隊が正規軍で、他に遊撃隊などの諸隊が編成された。また農兵は二十歳から四十歳までの身体強壮な男子二千七百名を選抜し代官の指揮下に置いた。以上のような戦闘態勢は整えたものの、装備は貧弱で旧式の西洋銃が主であった。部隊の運用も速成の弊害が目立ち、未熟なまま戦闘に突入せざるを得なかった。戦術面では会津若松への進入路は十六あり、それぞれの関門に兵を配置したため兵力の分散化は避けられなかった。
■@朱雀士中隊(四隊)一番隊は慶応四年閏四月白河口に出動、六月にかけて白河城攻防戦を戦う。その後棚倉を守衛したが敗退。二番隊は日光口に出動、五月まで今市、大原などを転戦。三番隊は白河口軍の後詰として大平口に移動、六月まで白河城攻防戦、大田原城攻撃、長坂村、阿武隈川箱石川下を転戦、七月一日、大平口に撤退した。四番隊は越後口に出兵、五月から六月にかけて片貝、榎峠、杉沢、今町、地蔵堂、福井、大黒、萩島と北越戦争を戦った。八月十一日、石間口小松関門の防戦にあたる。A朱雀寄合組(四隊)一番隊は閏四月、白河に進駐し六月にかけて白河城攻防戦、ついで棚倉城援兵として転戦する。二番隊は越後口に出動、五月に片貝、大面を転戦、六月には出雲崎馬草山、ついで新潟と転戦、八月に石間口小松関門の防衛に当たる。三番隊は日光口に出動、今市で戦う。四番隊は本国の守備に当たる。B朱雀足軽隊(四隊)一番隊は大平口を警衛し、白河城攻防戦に参加。二番隊は日光口に出動、五月にかけて今市、大桑に戦う。のち二本松に移動、二本松城攻防戦に参加。三番隊は大平口の警衛。四番隊は越後口に出兵、十日町周辺で戦う。C青龍士中隊(三隊)一番隊は白河進駐、白河城攻防戦に参加。二番隊は米沢口の警衛に従事。三番隊は越後口に出動し、五月から七月にかけて杉沢、見付、長岡、福井、大黒、地蔵堂、与板を転戦。D青龍寄合組(二隊)一番隊は白河口の白坂関門の警衛を務め、六月に棚倉城攻防戦に参加。二番隊は日光口に出動、今市で戦う。E青龍足軽隊(四隊)一番隊は白河城攻防戦に参加、二番隊は越後口の後方警備を担当、三番隊は白河城攻防戦に参加後、大平口の防衛に当たる。四番隊は日光藤原口の警衛、八月に会津三斗小屋で戦っている。F玄武隊は士中隊一隊、寄合組一隊、足軽二隊が編成され後方警備に当る。このうち足軽二番隊は五月の白河城攻防戦に参加している。G白虎隊は士中隊二隊、寄合組二隊、足軽隊二隊が編成され、後方警備を担当。このうち寄合組一隊は越後赤谷関門、二番隊は石間口小松関門の防衛戦に参加。H正規軍以外の諸隊は三十八隊ほど結成された。このうち遊撃隊遠山隊は白河口で戦い、同井深隊は越後口方面で活動した。
■鳥羽戦、四隊千六百名、別撰組七十名。戊辰後、約七、八千名と推定される。
■鳥羽戦(戦死九十名、戦傷十二名、行方不明九名、別撰組戦死十四名、諸生隊戦死十名)戊辰戦(戦死二千三百八十一名、戦傷二百八十八名、自刃百二十一名、婦女の自刃百七十二名、その他八十三名、行方不明三名)
■士卒族数、不明。
明 石 藩
あかしはん
■播磨明石八万石、親藩。
■松平慶憲(一八四九〜八四)兵部大輔。弘化元年に襲封した。維新後、子爵。
■親藩であるため、親幕傾向が強かった。慶応二年六月、第二次征長のとき出兵し、長州軍を敗退させている。鳥羽伏見戦役には海陸両面から大阪に出兵したが、途中で引き返した。このため山陽道鎮撫軍の進駐をうけ同族の松平慶永の取りなしによりようやく恭順が認められた。
■@慶応四年正月、征討府警衛の為、姫路に出兵。A二月、京丹波口警衛。B六月、越後口軍に属して出兵。柏崎から新発田に向かい進軍。松石隊は彰義隊に参加した。
■七十九名。ほか脱走者三十名余。(松石隊)
■死傷者なし。松石隊戦死三名。
■士族四百八十一戸。卒族九百五戸。
秋田(久保田)藩
あきた(くぼた)はん
■出羽久保田二十万五千石余、外様。
■佐竹義堯(一八二五〜八四)右京大夫。相馬益胤の三男に生れ、秋田新田藩の養子を経て、安政四年家督を相続。維新後、公爵。
■維新期の藩論は秋田出身の国学者平田篤胤の影響を受けた国学派と漢学派に分れ、統一はとれなかった。四月、仙台の奥羽鎮撫府から@箱館警衛A会津藩征討B庄内藩征討の命を立て続けに受けた。Bのみを受諾したがその真意をめぐるいざこざで出兵が遅れ督促をうけるほどであった。五月、奥羽越列藩同盟に加入、庄内藩征討は中止された。藩論不一致のまま、七月一日に行き場を失った奥羽鎮撫総督一行を受入れ、列藩同盟側から詰問された。結局三日に国学派が決起、藩主に脱盟と恭順を迫りようやく藩論が一致することとなった。
■@慶応四年閏四月十九日、小砂川口より庄内へ出兵。まもなく解兵。A七月六日、院内口と小砂川口の二方面から庄内にむけ出兵。藩兵は小砂川口軍に属し、同盟軍の反撃に敗退を重ねた。十四日、院内口軍の敗退により、塩根坂に出兵。八月、南部藩が参戦し、十二所口に出兵したため、兵力不足に悩む。十一日、横手城陥落。角館も危機にさらされ久保田城近くの長浜まで同盟軍の侵攻を許す。九月十六日までに戦局が好転するまで苦戦を続けた。B十一月四日、箱館府知事警衛として三小隊を黒石に派遣。
■八千六百九十八名。
■戦死三百二十九名。戦傷不明。
■士族三千二百十九戸、卒族千九百七十七戸、陪臣千百三十一戸。
秋田新田(岩崎)藩
あきたしんでん(いわさき)はん
■出羽久保田新田二万石、外様。
■佐竹義ェ(一八三七〜七〇)相馬益胤の四男に生れ、兄義堯の秋田藩相続にともない、安政四年に家督相続した、維新後、子爵。
■出羽秋田藩の支藩。慶応四年三月、江戸を引き上げ、椿台城を居所とし、宗藩と行動を共にした。
■慶応四年八月一日、苦戦する小砂川口軍の援兵として出兵。羽根川、松ヶ崎、長浜と戦闘を重ねた。
■百三十三名。
■戦死六名、戦傷十七名。
■士族百七十一戸、卒族九十八戸。
秋 月 藩
あきづきはん
■筑前秋月五万石、外様。
■黒田長徳(一八四八〜九二)甲斐守。文久二年襲封。維新後、子爵。
■文久三年、生野の変に戸原継明が参加したことから藩内に尊王論が台頭したが藩首脳部は佐幕的態度をとり続けた。
■戦歴 正月、筑前国内の旧幕領の取締をやめる。十一月、出兵して東京や甲府の警衛に当った。
■二百二十二名。
■死傷者なし。
■士族二百五戸、卒族七百一戸。
赤 穂 藩
あこうはん
■播磨赤穂二万石、外様。
■森忠典(一八四七〜八三)、美作守、文久二年、十六歳で家督を相続した。慶応四年三月、弟の忠儀に家督を譲った。維新後、子爵。
■尊皇攘夷運動の激化にともない、藩内でも下級武士を中心に改革派が台頭し、保守派との間で藩内抗争が起きた。鳥羽伏見戦役の後、藩兵を引き上げ、新政府に恭順した。
■戦歴@正月、旧幕府に属し大阪伝法川水陸と常吉新田の警衛を務めた。A正月、山陽道鎮撫軍に属し、備中松山に出兵した。
■百十名。
■死傷者なし。
■士族百三十二戸、卒族百二十九戸、下卒二百十四戸。
浅 尾 藩
あさおはん
■備中浅尾一万石余、外様。
■蒔田広孝(一八四九〜一九一八)相模守。安政五年に家督を相続。維新後、子爵。
■文久三年、江戸市中警衛の功労により高直しされて立藩した定府大名。元治元年、京都見廻り役を務め、禁門の変で活躍した。その恨みから慶応二年、浅尾陣屋は元長州藩奇兵隊士により強襲され、焼失した。
■慶応四年正月備中松山へ出兵した。
■六十七名。
■死傷者なし。
■士族九十八戸、卒族七十二戸。
麻 田 藩
あさだはん
■摂津麻田一万石、外様。
■青木重義(一八五三〜八四)源五郎。安政三年、三歳で襲封した。のち民部少輔。維新後、子爵。
■藩内の状況は不明、蘭式銃隊一小隊を編成し、保有していた。
■慶応四年二月二十日入京し、京の治安維持に当った。
■百名。
■死傷者なし。
■士族七十七戸、卒族六十戸。
足 利 藩
あしかがはん
■下野足利一万一千石、譜代。
■戸田忠行(一八四七〜一九一八)長門守。安政三年襲封。慶応二年から大番頭。同四年二月まで、陸軍奉行並を歴任した。維新後、子爵。
■藩論は二つに分かれ決しなかった。結局、同族の宇都宮藩に同調して恭順した。
■@慶応四年三月、藩領周辺の賊走鎮撫に出兵。A同四月二十七日、東山道軍に属して一小隊を出兵し、六月まで沼田、戸倉口の警衛に当った。
■百八十九名。
■戦死一名、戦傷一名。
■士族百十四戸、卒族三十七戸。
足 守 藩
あしもりはん
■備中二万五千石、外様。
■木下利恭(一八三二〜九〇)備中守。弘化四年に襲封。維新後、子爵。
■藩内の状況は不明。態度は明確ではなかったが、慶応四年正月二十六日に入京し、恭順した。
■@慶応四年正月、征討軍に属し、備中松山に出兵した。A同六月十四日、越後口軍に属して出兵。柏崎から新発田に進軍。九月、高畑越を経て、南部から庄内に侵攻した。十月解兵。
■百七十一名。
■戦死三名、戦傷二名。
■士族百五十三戸、卒族百五十一戸。
麻 生 藩
あそうはん
■常盤麻生一万石、外様。
■新庄直敬(一八一八〜七二)下野守。旗本新庄直孝の長男に生まれる。天保八年、小姓を務める。慶応三年九月、本家を養子相続した。維新後、子爵。
■藩内の状況は不明。新政府から領分周辺の鎮撫を命ぜられ、藩主は慶応四年四月十八日に帰藩した。
■@慶応四年九月、水戸藩の藩内抗争の激化に備えて江戸崎に出兵した。A十月、水戸藩諸生党の領外脱出に備えて常盤浮島村、下総谷納村などへ出兵した。
■百八十名余。
■死傷者なし。
■士族数四百五名(男二百三十四名)、卒族百九十五名(男百四十二名)。
安濃津藩
あのつはん
■伊勢安濃津三十二万三千石余、外様。
■藤堂高猷(一八一三〜九五)和泉守。文政八年襲封。松平慶永らとともに公武合体派として活動した。維新後、伯爵。
■二度の長州征討に出兵。慶応四年正月の鳥羽伏見戦役では山崎関門の警衛を担当していたが、勅使を受けて恭順を決意し、対岸の旧幕軍に対し攻撃を開始した。これにより旧幕軍は大変な衝撃を受け、戦意を失い敗走する。以後は二軍に分かれて出兵し、新政府の中核となって各地を転戦している。
■@慶応三年十二月から山崎関門警衛、翌年二月まで。A慶応四年正月征討府より高松、伊予松山、大垣、姫路藩の追討を命じられる。後罷免。東海道軍に属し桑名征討に出兵。桑名降伏開城後、上地管理を務めた。B同二月、東海道軍に属し江戸に進軍。開城後江戸城諸門の警衛に当る。C四月末、脱走軍鎮撫のため下総に出張、市川、中山、などを転戦。閏四月十五日、安房勝山に一部を残して江戸に凱旋。D五月十五日、上野戦争に参加。問罪使に随行して小田原へ出張、七月まで。E七月、平潟口軍に属し、海路平潟に上陸、同盟軍と浪江、椎木、今泉などを転戦、中村、三春へと進軍。F九月に第二陣が中村に到着、第一陣とは江戸に戻り江戸城諸門警衛を務める。G十月、第一陣銚子に出張し、水戸藩降人の東京護送を担当。H十一月、第二陣を秋田に派遣、箱館に備える。I明治二年四月、箱館追討第二軍に属し乙部に上陸、松前口方面から進軍、松前、木古内、矢不来と転戦。箱館軍降伏後、六月一日江戸に凱旋。
■鳥羽戦三千六百七十七名、戊辰戦二千六百五十一名。
■死者三十二名、戦傷六十名。
■士族七千九百十七戸、郷士族六千八百八十九戸、卒族千九百五十六戸。
尼 崎 藩
あまがさきはん
■摂津尼崎四万石、譜代。
■松平(桜井)忠興(一八四八〜九五)遠江守。文久元年に襲封。維新後、子爵。
■文久三年に軍制改革を行い、農兵隊の編成など軍備の充実を図った。一時、去就に迷ったが恭順した。
■慶応四年正月六日、旧幕軍の敗走兵に備えて西京に出張。
■六十名。
■死傷者なし。
■士族三百六十戸、卒族二百八十七名。
綾 部 藩
あやべはん
■丹波綾部一万九千石余、外様。
■九鬼隆備(一八三四〜九七)大隈守。文久元年襲封。維新後、子爵。
■文久三年、将軍家茂の上洛に京都警衛を命じられ、塚原陣屋において丹波口を固めた。元治元年、禁門の変には御所の周囲を警衛。慶応四年正月十五日に入京し、新政府に恭順。
■京塚原口、山崎関門などの警衛を短期間務めたが特に戦歴なし。
■なし。
■死傷者不明。
■士族百五十三戸、卒族六十七戸。
安 志 藩
あんしはん
■播磨安志一万石、譜代。
■小笠原貞孚(一八五〇〜一九〇五)幸松丸。万延元年に十一歳で襲封。のち信濃守。維新後、子爵。
■小藩ながら親幕的で、二度の長州討征には九州に出兵し本家の小倉藩に付属して戦った。慶応二年十二月帰藩。同四年正月の鳥羽伏見戦役後、いち早く恭順する。
■@慶応四年正月、出兵し姫路城の警衛に当る。A三月京に出張し御所諸門の警衛を務めた。
■百四十二名。
■死傷者なし。
■士族六十七戸、卒族七十四戸、卒以下四十四戸。
安 中 藩
あんなかはん
■上野安中三万石、譜代。
■板倉勝殷(一八二〇〜七三)主計頭。安政四年襲封。維新後、子爵。前藩主勝明は海防の急務を唱え、西洋流砲術の導入を図るなど博学英明をうたわれたが、対照的に勝殷は時勢に疎く、藩士の蘭学研修を禁止するなど保守的な態度をとった。
■安中藩は中山道の要衛碓氷関を管轄し、その去就が注目された。会津若松藩から協力を求められる傍ら、名古屋藩からは恭順への説得工作が行われたのである。だが二月慶喜に従い恭順。三月六日、東山道軍に碓氷関警衛の継続可否を問い、引き続き務める。
■@碓氷関関門の警衛を務める。A東山道軍の人馬兵食賄方を担当。B慶応四年二月、信濃追分に出張し、諸藩協同で相楽総三ら赤報隊の鎮撫に当る。C閏四月十九日、上野巡察使に属して沼田に出兵。二十四日、三国峠の戦闘に参加、追走して越後六日町まで進軍した。二十八日、沼田に凱旋、そのまま同地に駐屯、警衛に従事。五月九日、戸倉口桧枝岐の警衛に当り、会津若松藩の侵攻に備えた。六月七日、解兵。
■五百六十八名。
■死傷者なし。
■士族百五十八戸、卒族七十六戸
飯 田 藩
いいだはん
■信濃飯田一万五千石、外様。
■堀親義(一八一四〜八〇)左衛門尉。弘化二年に襲封。外様ながら文久三年から慶応二年にかけて寺社奉行、講武所奉行、京都見廻り役などを歴任した。維新後、子爵。
■元治元年、藩預りの清内路関所を水戸天狗党が通行するのを阻止できなかったため、役儀罷免、二千石減封の処分を受けた。二月、東山道軍の進軍にともない、恭順した。
■@慶応四年三月二日、東山道軍に属し、一小隊を下諏訪に派遣した。板橋、巣鴨庚申塚に駐屯。江戸城諸門、銀座などを警衛した。七月解兵。A四月二十五日、衝鋒隊の信濃飯山進出に援兵として出張。越後新井へ追撃。B閏四月二十日、東山道軍岩村隊に属し、越後新井に進軍、北陸軍と合流、長岡を目指した。五月小千谷に駐屯。三仏生村から信濃川を隔てて長岡軍と交戦。十九日、長岡城落城。六月、同盟軍と森立峠で交戦。七月にかけ新発田から鳥井峠を越え、会津若松へと進軍した。C五月四日、林軍進撃の報に藩主自ら兵を率いて甲府に出張した。
■三百一名。
■戦死二名、戦傷四名。
■士族二百八戸、卒族百三十戸。
飯 野 藩
いいのはん
■上総飯野二万石、譜代。
■保科正益(一八三三〜八八)弾正忠。嘉永元年襲封。文久三年に大坂城番、慶応二年五月から翌年七月まで若年寄を歴任。こうした経歴と会津若松藩松平家と同族であることから新政府の嫌疑をうけた。同四年三月、藩主自ら上洛、海路四日市に上陸したが膳所で足止めされたためそのまま草津に滞留、ひたすら嘆願を繰り返した。四月六日にようやく軽装での入京が許されたものの改めて謹慎を命じられた。一ヵ月後、放免され、七月二十六日、摂津の分領二帰着した。維新後、子爵。
■慶応二年、第二次長州征討では石州口総督として諸軍を指揮した。藩主上洛中のため藩の運営は家老の樋口盛秀らに委ねられた。閏四月、請西藩林忠崇と旧幕遊撃軍に決起を促され、窮地に立たされた。藩当局は独断で家臣を脱藩させ林軍に協力させることとし、その責任を取って盛秀は自刃した。
■@慶応四年八月五日、上総地方賊走鎮撫のため横田村へ出兵した。A脱走者は陸奥白河で戦闘し、死者を出している。
■百十六名。ほか脱走者二十名。
■死傷者なし。脱走者の戦死は五名。
■士族百八十八戸。卒族八十二戸。
飯 山 藩
いいやまはん
■信濃飯山二万石、譜代。
■本多助成(一八四六〜六八)豊後守。慶応三年襲封。文武を好み、なかでも大坪本流の馬術を得意とした。慶応四年三月五日より十三日間の謹慎処分をうけた。六月十四日に病死、毒殺説も流れた。維新後、子爵。
■慶応四年二月、飯山藩は態度保留のまま東山道軍の進発をむかえた。このとき藩主は江戸にいたため謹慎処分、結局新政府への恭順と献金一万五千両で謹慎が解かれている。
■@慶応四年七月二十五日、衝鋒隊の信濃飯山進出を迎撃、戦闘は城下町に及んだが、信濃諸藩の応援をえて撃退に成功した。A閏四月二十日、東山道軍岩村隊に属し、越後新井へ進軍、北陸道軍と合流し長岡を目指した。五月十九日、長岡城落城。五月末、与板攻防戦に参加。九月にかけて新発田から鳥井峠を越え会津若松へと進撃した。
■九十八名。
■戦死四名、戦傷十二名。
■士族百七十五戸、卒族二百二十戸。
出 石 藩
いずしはん
■但馬出石三万石、外様。
■仙石久利(一八二〇〜九七)讃岐守。文政七年襲封。維新後、子爵。
■天保期のお家騒動(仙石騒動)にともなう藩内抗争の影響を脱却することが出来なかった。久利は文久二年に藩政の実権を奪回し、藩主の親裁を宣言している。
■慶応四年正月、山陰道鎮撫使に従い、生野に藩兵を派遣したが特に戦歴なし。
■総出兵人数、不明。
■死傷者なし。
■士族二百八十八戸、卒族三百三十戸。
泉 藩
いずみはん
■陸奥泉二万石、譜代。
■本多忠紀(一八一九〜八三)能登守。万延元年襲封。寺社奉行、若年寄を歴任した。維新後、子爵。
■藩論は決しないまま、慶応四年三月末、奥羽鎮撫隊総督を仙台に迎えた。五月、奥羽列藩同盟に仙台藩の勧誘により、参加、このため勤王派の松井兵馬は自刃。六月二十八日、新政府軍の侵攻で敗退。藩主は仙台に難を避け、九月二十四日降伏した。戦後藩主は隠居謹慎、二千石減封の処分をうけている。
■@慶応四年閏四月新政府に属し白河警衛に二小隊を出兵。A六月、同盟軍に属し勿来で平潟口軍と戦闘。二十四日から四日間の戦闘で泉陣屋陥落、磐城平、仙台へと転戦。
■不明。
■死傷者なし。
■士族二百九名、卒族三百三十戸。
伊勢崎藩
いせざきはん
■上野伊勢崎二万石、譜代。
■酒井忠強(一八三五〜八五)下野守。嘉永四年襲封。維新後、子爵。
■慶応四年二月恭順。藩主は三月十日に江戸を引き上げた。
■@閏四月十九日、上野巡察使に属して沼田に出兵。二十四日、三国峠の戦闘に参加、追撃して越後六日町まで進軍した。二十八日、沼田に凱旋。A同五月九日、戸倉口桧枝岐の警衛に当り会津若松藩の侵攻に備えた。六月七日、解兵。B五月以降、陸奥白河へ器械(銃器)運送を務めた。
■百二十一名。
■死傷者なし。
■士族百九十一戸、卒族二十五戸。
一 関 藩
いちのせきはん
■陸奥一関三万石、外様。
■田村邦栄(一八五二〜八七)右京大夫。石川義光(陸奥仙台藩一門)の二男に生まれる。文久三年、十歳で襲封した。維新後、子爵。
■陸奥仙台藩の支藩。慶応四年三月末、奥羽鎮撫総督を仙台に迎えるとその命を受けて白石に出兵した。五月、奥羽列藩同盟に加わり、秋田藩の討征に従事した。九月末、仙台藩降伏の報を聞き、一関に帰着、藩主は謹慎し降伏した。
■@慶応四年四月二日、奥羽鎮撫府に属して白石に出兵六百三十名。A閏四月、庄内追討の出兵命令を拒否。B八月八日、同盟軍に属し藩主自ら出兵。須川岳口から久保田領内に侵攻、横手城を攻略のうえ、雄物川沿いに苅和野まで転戦、北上した。九月二十二日、帰藩。
■総出兵人数、不明。
■戦死(士二十六名、卒八名、農夫四十五名)、戦傷(士十六名、卒八名、農夫九名)。
■士族三百三十三戸、卒族二百八十五戸。
一 宮 藩
いちのみやはん
■上総一宮一万三千石、譜代。
■加納久宣(一八四八〜一九一九)嘉元次郎、立花種道(陸奥下手渡番一門)の二男に生まれる。慶応三年襲封。後に遠江守。維新後、子爵。
■二月、徳川慶喜の救解嘆願を決意して藩主自ら上京。途中で東海道軍に恭順し米二千俵を奉納した。かたわら藩主の留守中、旧幕脱走軍が遊説に押しかけると、米二百俵を提供するなど対応に苦慮している。
■@慶応四年閏四月十日、房総鎮撫軍の大多喜進駐の先導を務める。A八月五日、上総地方賊徒鎮撫のため長南に出兵したが途中で引き返した。
■百二十三名。
■死傷者なし。
■士族七十三戸。
糸魚川(清崎)藩
いといがわ(きよざき)はん 
■越後糸魚川一万石、親藩。
■松平直静(一八四八〜一九三二)日向守。松平斉韶(播磨明石藩)の七男に生まれる。安政五年に襲封。維新後、子爵。
■藩内の状況は不明。前藩主直廉が越前福井藩を相続したことから支藩として活動。松平慶永の政治力によって、北陸諸藩の中でも珍しく戦争にかり出されることはなかった。
■五月十八日、北陸道鎮撫府から、糸魚川表海岸防御往還取締を命ぜられた。
■総出兵人数、不明。
■死傷者なし。
■士族七十二戸、卒族四十六戸。
犬 山 藩
いぬやまはん
■尾張犬山三万五千石、付家老。
■成瀬正肥(一八三五〜一九〇三)隼人正。青山忠良(丹波篠山藩)の三男。安政四年襲封。名古屋藩主徳川慶勝の信任厚く、藩政を補佐した。公武合体を支持し、文久二年慶勝に随行し入京、朝幕間の周旋に努めた。佐幕派付家老の竹越正美を隠居に追込み、藩論も公武合体でまとめ、大政奉還後、慶喜に恭順をすすめた。慶応四年鳥羽伏見戦役には御所を警衛し、二条城を接収。その後は名古屋に戻り藩内の佐幕派の一掃に努めた。三月、新政府の参与会計事務局権判事に任命された。維新後、男爵、のち子爵。
■尾張名古屋藩の付家老であったが、慶応四年正月、犬山藩の立藩が認められた。
■慶応四年五月四日、林軍進撃の報に藩主自ら甲府に出兵。十日、一部を残し信濃に移動。六月五日、甲府地方平定により帰国。
■七百三十名。
■死傷者なし。
■士族三百十二戸、卒族二百六十八戸。
今 尾 藩
いまおはん
■美濃今尾三万石、付家老。
■竹腰正旧(一八五一〜一九一〇)龍若。三宅康直(三河田原藩)の三男。文久三年襲封。養父である佐幕派付家老竹越正美が、公武合体派の犬山藩藩主成瀬正肥と対立、文久三年、正美を支持した藩主茂徳が隠居し、公武合体派の前藩主慶勝が復権したため失脚した。維新後、子爵。
■尾張名古屋藩の付家老であったが、慶応四年正月、立藩が認められた。
■慶応四年正月、京都に出張し警衛に当った。
■総出兵人数、不明。
■死傷者なし。
■士族千三百三十七名(男子六百六十一名)、卒族三百五十三名(男子百七十六名)。
今 治 藩
いまばりはん
■伊予今治三万五千石、親藩。
■松平(久松)定法(一八三四〜一九〇一)壱岐守、内藤正。文久二年に襲封。
■文久三年、軍制改革を行い、二度の長州征討に出兵。第二次長州征討では、安芸御手洗まで出兵したが途中で引き返し、家老戸塚兵馬を大阪に派遣して征討の中止を献策させている。慶応四年正月、恭順し御所の護衛に当った。
■@慶応四年五月、甲府城警衛を命ぜられ出兵。七月一日に甲府到着。同二十二日、下野今市警衛のため移動、八月十九日今市警衛罷免、日光藤原口警衛を担当。九月十九日撤兵。十月十八日に東京へ凱旋。
■百八名。
■戦傷三名。
■士族三百六戸。卒族五百十四戸。
磐城平藩
いわきたいらはん
■磐城平四万石、譜代。
■安藤信勇(一八四九〜一九〇八)理三郎。内藤正義(信濃岩田村藩)の二男。文久二年に襲封。のち対馬守。維新後、子爵。養祖父の信正は、老中首座を務め、幕府の文久改革を推進し、皇女和宮降嫁実現させるなど幕政の運営に腕を振ったが、坂下門外の変により失脚。維新時には国元において実質的に藩政をみていた。
■慶応四年二月、藩主信勇は上京、そのまま病気療養を名目に美濃切通の領地にとどまった。新政府は磐城平藩の去就を疑い、二月四日美濃分領を没収し、名古屋藩の管理下に置いた。このため信勇は美濃在勤の家臣達で銃隊を編成し、東山道軍に従属させることで勤王の意を示さなければならなかった。一方、磐城平では、はじめ仙台藩の奥羽鎮撫総督の命に従い、会津征討軍を出兵させたが、五月には隠居信勇の意向をうけて奥羽列藩同盟に参加した。戦後信正は永蟄居(明治二年赦免)陸奥磐井郡内三万四千石に減転封の処分が下されたが信勇の請願により移封は取りやめとなった。
■慶応四年三月美濃分領から小隊を東山道軍に派遣。閏四月陸奥鎮撫軍に属して二小隊を白河へ派遣。同盟軍に属し出兵。六月十六、七日に関田村で新政府軍と衝突、さらに同盟軍の応援を得て新田、堀坂、稲荷山と転戦し、七月十三日に平城下で戦った。
■総出兵人数、不明。
■戦死者三十三名。農兵戦死十五名。戦傷二十六名。
■士族三百二戸、卒族百九十五戸。
岩 国 藩
いわくにはん
■周防岩国六万石、山口藩国老。
■吉川経幹(一八二九〜六七)監物のち駿河守。弘化元年襲封。資性鋭敏をうたわれ、山口藩毛利敬親を補佐して国事周旋に尽力した。慶応三年に没したが喪を秘し嫡男経建が藩政を代行した。維新後、子爵。
■山口藩毛利家の国老。慶応四年三月に立藩した。
■@鳥羽伏見戦役に参加。戦後は大阪市中巡邏を担当。A六月、東山道軍援兵として百六十二名を江戸に派遣。到着後、平潟口軍に転属、久ノ浜、弁天坂、新田原、浪江、駒ヶ嶺を転戦し中村城をへて仙台城に入る。B七月、越後軍に属して派兵。柏崎に上陸後、二隊に分れ一隊は出雲崎から会津若松へ進軍。一隊は新潟に再上陸し新発田から関川、庄内へと進軍した。
■四百九十一名。
■戦死十六名、戦傷二十三名。
■士族八百七十四戸、卒族五百八十七戸、陪臣四百五十六戸。


参考 新人物往来社 三百藩諸隊始末

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