幕末諸藩の戦歴 十
■居所、領地高■藩主■藩内状況、動向■主な戦歴■総出兵人数■死傷者数(士卒)■士卒属数
山 崎 藩 やまざきはん |
■播磨山崎一万石、譜代。 |
■本多忠鄰(一八一二〜七四)肥後守。天保五年襲封。のち子爵。 |
■慶応四年正月に入京し恭順した。 |
■戦歴なし。 |
■総出兵人数なし。 |
■死傷者なし。 |
■士族九十三戸、卒族百十戸。 |
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結 城 藩 ゆうきはん |
■下総結城一万八千石、譜代。 |
■水野勝知(一八三八〜一九一九)日向守。丹羽長富(陸奥二本松藩)の八男。文久二年襲封。のち子爵。 |
■大政奉還後、藩内は二派に分かれ対立した。慶応四年、勝知が上野寛永寺警衛と彰義隊の取締を命じられたことにより、勝知ら江戸詰藩士は佐幕派、国元の門閥家老たちは恭順派と分れた。勝知は彰義隊等の応援を得て結城に進発し、二十五日に結城城を攻略した。しかし四月三日に東山道軍の分遣隊が結城に攻め寄せた為敗退した。勝知は脱出し上野山内に潜み、やがて実家の二本松藩に身を寄せた。その後二本松藩降伏により捕らえられ、戦後処分で永蟄居、一千石の減封となっている。 |
■@慶応四年三月、勝知ら脱藩士四十九名で水心隊を結成し、彰義隊に加わった。A三月末、勝知軍百名余が恭順派の下総結城城を攻略した。B四月、東山道軍分遣隊の攻撃により敗退し、上野山内に潜んだ。C五月、上野戦争に水心隊は加わらず降伏。勝知は二本松へ脱出。D四月、恭順派、大鳥軍結城進出により、下総武井に戦い敗退し古河に退去した。閏四月、結城へ帰還。E九月、日光藤原口に出兵。 |
■総出兵人数、不明。脱走者三十八名。 |
■戦死七名、自刃一名、戦傷十三名。他脱走者の戦死三名、自刃一名、刑死二名、戦傷二名。 |
■士族百三十三戸、卒族七十四戸、謹慎二十四戸。 |
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湯長谷藩 ゆながやはん |
■陸奥湯長谷一万五千石、譜代。 |
■内藤政養(一八五七〜一九一一)長寿丸。文久三年に七歳で襲封。のち因幡守。維新後、子爵。 |
■慶応四年五月、仙台藩の勧誘で奥羽越列藩同盟に加入。六月二十九日に平潟口軍の攻撃をうけ、湯長谷は陥落し、七月七日に謝罪、降伏。戦後処分で藩主隠居謹慎、一千石減封。 |
■@慶応四年閏四月、奥羽鎮撫軍に属し小名浜を警衛。A六月、新政府軍の攻撃に陥落し、磐城平へ脱出した。 |
■総出兵人数、不明。 |
■死傷者、不明。 |
■士族八十五戸、卒族二十五戸、小者三十八名。 |
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与 板 藩 よいたはん |
■越後与板二万石、譜代。 |
■井伊直安(一八五一〜一九三五)右京亮。井伊直弼(近江彦根藩)の三男。文久二年襲封。維新後、子爵。 |
■近江彦根藩の支藩。藩主は二月まで江戸にいたが、宗藩に倣って恭順した。四月、衝鋒隊が進出すると軍資金七千両を提供した。五月に北陸道軍が出雲崎に進駐すると、それに応じて出兵した。十七日の長岡城渡河急襲作戦には、船舶の調達を担当し成功をおさめた。五月下旬、同盟軍の攻勢に戦場となり新政府軍の前進拠点としての役割を果たした。 |
■@慶応四年五月十四日、北陸道軍に属し出雲崎口に出兵。A五月、同盟軍を金ヶ崎で邀撃し敗退。B六月、与板周辺の攻防戦に参加。 |
■百六十六名。 |
■戦死五名、戦傷二十名。 |
■士族二百五十三名(内訳不明)、卒族千二百三名(男五百八十四名)。 |
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横須賀(花房)藩 よこすか(はなぶさ)はん |
■遠江横須賀三万五千石、譜代。 |
■西尾忠篤(一八五〇〜一九一〇)隠岐守。文久元年襲封。のち子爵。 |
■名古屋藩の勧めにより恭順した。八月、安房花房に移封となった。 |
■@東海道軍人馬兵食賄方。A慶応四年三月、江戸へ出兵し、江戸城諸門警衛を務めた。 |
■九十一名。 |
■死傷者なし。 |
■士族三百十二戸、卒族百七十七戸。 |
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吉井(矢田)藩 よしい(やた)はん |
■上野吉井一万石、親藩。 |
■松平(鷹司)信謹(一八五三〜九〇)銕丸。上杉斉憲(出羽米沢藩)の五男。慶応元年襲封。のち左兵衛督。維新後、子爵。 |
■財政難から出兵の軽減を願った。 |
■@慶応四年三月、東山道軍に属し、梁田戦争の後方警備や周辺地域の鎮撫を担当した。A閏四月、沼田へ出兵し戸倉口の警衛を担当。B二十四日、三国峠で会津軍と戦闘した。C五月、戸倉口、土出村の警衛に当った。D八月、戸倉口警衛。九月、桧枝岐口まで斥候隊を出した。 |
■二百四十三名。 |
■戦死二名。 |
■士族八十一戸、卒族三十戸。 |
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吉 田 藩 よしだはん |
■伊予吉田三万石、外様。 |
■伊達宗孝(一八二一〜九九)若狭守。旗本山口直勝の三男。天保十四年襲封。維新後、子爵。 |
■藩論は佐幕派優勢であったが、伊達宗城の仲介によって恭順した。 |
■戦歴なし。 |
■総出兵人数なし。 |
■死傷者なし。 |
■士族二百五戸、卒族五百三十戸。 |
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吉田(豊橋)藩 よしだ(とよはし)はん |
■三河吉田七万石、譜代。 |
■松平(大河内)信古、刑部大夫。間部詮勝(越前鯖江藩)の二男。嘉永二年襲封。慶応元年まで寺社奉行、大阪城代を歴任した。のち子爵。 |
■鳥羽伏見戦役には幕府軍艦翔鶴丸で上阪中であったが、敗報を聞き引き返している。正月、恭順した。 |
■@慶応四年正月、桑名追討のため四日市、小牧に出兵。浜川警衛。二十三日、桑名藩降伏、開城。A二月、新居関改修警衛。B二月、気賀関所守衛罷免。C三月、沼津周辺の警衛を短期間担当。D二月、東海道軍人馬兵食賄方担当。E三月、江戸に出兵し江戸城諸門警衛を担当。F閏四月、房総鎮撫軍に属し大多喜へ進駐管理した。G脱走者は箱館へ転戦し、翌年四月、矢不来で戦死。 |
■七百六十五名。ほかに脱走者二名。 |
■戦死一名。脱走者戦死二名。 |
■士族五百九十五戸、卒族四百六十六戸。 |
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淀 藩 よどはん |
■山城淀十万二千石、譜代。 |
■稲葉正邦(一八三四〜九八)民部大輔。丹羽長富(陸奥二本松藩)の二男。嘉永元年襲封。慶応四年まで京都所司代、老中国内事務取締を歴任し、将軍慶喜を補佐した。鳥羽伏見戦役では江戸にあったが、三月に慶喜の哀願書を携え上京した。維新後、子爵。 |
■鳥羽伏見戦役では旧幕軍の入城を拒否し、中立を守ったため、旧幕軍に大きな衝撃を与えた。 |
■慶応四年正月、山崎関門警衛を担当。 |
■四百名。 |
■死傷者なし。 |
■士卒族数、不明。 |
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米 沢 藩 よねざわはん |
■出羽米沢十八万七千石、外様。 |
■上杉斉憲(一八二〇〜八九)弾正大弼。天保十年襲封。のち伯爵。 |
■会津藩の立場に同情的で、救解に力を尽くし、奥羽越列藩同盟には中核となって参加。主に越後口を担当したが、九月十三日に降伏。戦後処分で藩主隠居のうえ四万石の減封。 |
■@慶応四年四月、奥羽鎮撫軍に属し、綱木へ出兵。A閏四月、分遣隊の庄内派遣命令を拒否。B七月、出羽院内口及位、金山で新政府軍と衝突。船形村へ敗退。C七月、庄内軍の応援を得て秋田へ侵攻。新庄、院内峠、横手と転戦した。二十九日に撤兵。D五月、家老格色部長門を総督として越後新潟へ進駐。E五月、長岡救援のため加茂に進軍。六月にかけて小栗山、帯織、赤坂峠、栃尾、半蔵金、福島と転戦した。F七月、越後口軍は一進一退を繰り返し、押切、田井、大黒、桂峠を転戦した。G二十五日、新政府軍は前線の背後にあたる太夫浜に上陸、新潟を攻略した。交戦の末、二十九日に色部長門が自刃し敗退した。これにより前線の部隊も押切、中之島と敗退し、八月一日に撤兵した。H五月、一手を会津、米沢国境へ派遣、また一手を白河口に派遣した。I五月、白河口隊は白河城攻防戦に参加した。J七月、仙台口応援の為出兵。湯長谷、平と転戦。K九月、新政府軍に属し、庄内征討嚮導役として出兵。 |
■千五百名(同盟軍側の出兵人数は不明)。 |
■戦死二百八十名、自刃一名、戦傷十一名。 |
■士族三千四百二十五戸、卒族三千三百八戸。 |
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米沢新田藩 よねざわしんでんはん |
■出羽米沢新田一万石、外様。 |
■上杉勝道(一八二六〜九六)駿河守。宗家上杉斉定の四男。天保十三年襲封。維新後、子爵。 |
■出羽米沢藩の支藩。幕末の政局にあって宗家を補佐して名代を務めたり、西洋式銃隊の編成、調練に当った。その後も宗家と行動を共にし、降伏後は謝罪運動に尽力した。 |
■七月、同盟軍に属し、越後口板谷方面に出陣した。 |
■総出兵人数、不明。 |
■死傷者なし。 |
■士卒族数、不明。 |
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和歌山藩 わかやまはん |
■紀伊和歌山五十五万五千石、親藩。 |
■徳川茂承(一八四四〜一九〇六)中納言。松平頼学(伊予西条藩)の七男。安政五年襲封。維新後、侯爵。 |
■第二次長征で先鋒総督を務め、戦後、軍制改革を行っている。鳥羽伏見戦役の後、敗退した旧幕軍が和歌山に逃れて滞留、和歌山藩では藩船明光丸で和歌浦から三河吉田へ送り届けた。かたわら、正月十四日に付家老水野忠幹を上京させ、陳弁に努めている。 |
■@慶応四年正月、旧幕軍に属し二大隊を大阪警衛に出張させた。途中高野山で鷲尾隆聚の抗議を受け、引き返している。A二月、東海道軍先鋒として出兵し、富士川、三島間の街道警衛を担当した。B四月、江戸城諸門警衛担当。C五月、横浜警衛に出張。怯懦を理由に六月に罷免。D五月、上野戦争に東橋を警衛。拒戦の姿勢が目立ったと言う。 |
■千百名。 |
■戦死二名。 |
■士卒族数 一万六百七十八戸。 |
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