平隊士 |
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天保九年二月二日、武州多摩郡八王子在寺方村、中島又吉の長男として生まれる。新選組 |
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遺品として数多くの貴重な資料を残した。甲州勝沼の戦い以降、箱館戦争の投降終結から |
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捕虜収容に至るまで、関東から北における、新選組同志の行動を綴った「中島登の覚書」 |
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と「新選組絵姿集」は、中島の才人ぶりを遺憾無く発揮している。 |
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中島登の新選組加盟は、覚書の内容から推察すると、甲州勝沼の戦いからと思うのだが、 |
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中島自身の筆によると、元治元年とある。伊東甲子太郎らと時期を同するが、上洛する事 |
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はなく、武州甲三州の地理及び、人情の調査にあったと言っている。近藤勇の密命を帯び |
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ていたところから、任務については他言する事はなかった。しかし、島田魁の「英名録」 |
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には、局長附き人数の一員としてあるところから、慶応三年七月以降の入隊と思われる。 |
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近藤勇が板橋で処刑された頃、中島は負傷した土方歳三を警護しながら島田魁、漢一郎、 |
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畠山二郎、沢忠助、松沢乙造らと日光から會津へと向かって落ちていた。 |
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會津戦争の後、箱館へ渡航して新選組二番隊嚮導役となる。箱館戦争では、弁天台場で、 |
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島田魁らと降伏。称名寺に収容された後に青森弘前の薬王院に恭順する。再び弁天台場に |
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戻り厳冬の箱館で過ごし、謹慎を解かれて静岡に引き渡された後、浜松に腰を据えた。 |
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その後、この土地で波乱の生涯を終えた。 |
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■ 御 家 紋 ■ |
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平隊士 |
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安政三年、陸奥磐城平田村半右衛門の五男として産まれる。兄田村義利、義忠が共に新選 |
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組に加盟参加している。つまり、田村市郎と録四郎の二人である。新選組入隊は、慶応三 |
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年十月、土方歳三の帰東の時で、大政奉還直後の事である。齢十四の最年少入隊である。 |
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島田魁の名簿録には、両長召抱人と土方歳三家来の二ヶ所に記載あり、「史談会速記録」 |
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で「箱館戦争及其前後に関する実歴談」として、五兵衛新田から五稜郭投降までの話しが、 |
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記載されている。彰義隊あがりの春日左衛門が養父となり、負傷者の看護にあたった。 |
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同室の伊庭八郎、最後の情景を語っている。五稜郭で降伏しているから、新選組の降伏し |
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た弁天台場には、名が連ねていないが、青森弘前の薬王院の方には記載されている。 |
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明治二年六月九日薬王院に入っているが、年少の田村銀之助、多岡太郎、西村五十五郎の |
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三人は十七日に謹慎が解かれて外出など自由になった。後に西南戦争に参加、九州に赴い |
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ている。晩年は歴史懐古の「同方会誌」の会員となって、川村三郎と名を変えて近藤芳助 |
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との語らいなどがある。大正十三年八月二十日永眠につく。 |
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■ 御 家 紋 ■ |
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平隊士 |
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大阪浪士。年齢は十九歳。餝職人の倅に生まれる。子母沢寛の「新選組始末記」では「隊 |
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中美男五人衆」の一人で、永倉新八の記載にも「古今、美男なり」と。佐々木の恋人に芹 |
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沢が横恋慕し、妾に貰い受けるといった、佐伯又三郎の証言があり、佐々木と女の駆け落 |
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ちを促し、芹沢鴨が追いかけ、朱雀の薮の中で斬り伏せられた。 |
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芹沢鴨の話によると、佐々木の恋人を狙っていたのは、佐伯自身であり、その後に長州の |
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久坂に斬られたとも言い、芹沢鴨の怒りにふれ、斬られたとも言われている。 |
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弱年齢ながら、落ち着いており、芹沢鴨に意見するという、豪気な一面も記載されてあり、 |
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仲間内の評判も良い。ある話に、芸人一座が壬生近辺で、興行を開いた時に虎がいるとの |
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噂を聞きつけて、隊士某が行ってみると、偽物の噂を聞く。それを屯所で話していると、 |
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芹沢が「それは、聞き捨てならん。成敗してくれる」と意気込み、佐々木らを連れて出向 |
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く。芹沢は、いきなり抜刀して、虎に刀を突き付けたが動じず本物と認め、眺めていると |
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若衆が壬生浪士隊の芹沢鴨とは知らずに文句を言った。その様子に驚いた親方が、飛んで |
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きて平謝りするが、芹沢は許さず。そこへ仲裁に佐々木が入り、丸く治めたという。 |
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その縁で、親方の知り合いの八百屋の娘と入魂になるが、横恋慕した佐伯の罠に嵌まって |
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騙し討ちにされたのが真相であろう。 |
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平隊士 |
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天保五年、武蔵八王子在堀ノ内村横倉良助の次男で、姓は藤原、名は邦頼という。新選組 |
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加盟は、元治元年十月で、武田観柳斎の六番隊に配属。慶応三年六月の幕府召抱えでは、 |
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見廻組並御雇、つまり平隊士として名を連ねている。 |
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伊東甲子太郎ら高台寺党殲滅を謀った、油小路の変では、大石鍬次郎とともに奮戦した。 |
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その一ヶ月後の近藤勇襲撃事件では、銃創を負った近藤勇を追護した。江戸引き揚げ後も |
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甲州勝沼の戦い、宇都宮から會津戦争を経て、箱館渡航後は新選組三分隊嚮導役を任ず。 |
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弁天台場の降伏後は、青森の弘前薬王院で謹慎。再び箱館に戻る。十一月四日、箱館から |
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東京に、京都見廻組の今井信郎とともに、辰の口兵部省軍務局糺問所に留置された。翌三 |
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年二月二十二日、今井信郎、相馬主計、大石鍬次郎らとともに刑部省へ引き渡され、八月 |
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十五日、坂本龍馬殺害の罪により、斬罪と処される。 |
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大石鍬次郎もまた同罪で斬首となったが、その後、今井信郎が自白し、見廻組の所業で、 |
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新選組にあらずとされている。横倉の罪状が龍馬殺害の罪状ならば、無実の罪で亡くなっ |
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たと言える。辞世の句や、新選組隊士名簿などを実家へ届けてくれるように中島登に託し、 |
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千住小塚原で斬首されて、常光庵境内に葬られたが、現在は、東京都八王子市鑓水一三五 |
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六の大法寺に墓がある。 |
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義の為につくせし事も水の泡 |
打ちよす浪に消えて流るゝ |
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■ 御 家 紋 ■ |
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平隊士 |
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近藤勇が養子にした時の名である。本名谷周平。嘉永元年、備中高梁の籏奉行谷三治郎の |
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三男として生まれる。父は直心流の剣術師範であった。長兄三十郎は新選組七番隊組長で |
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次兄万太郎は種田流槍術師範として、大阪会所を任されていた。 |
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周平の生まれは、安政元年説と嘉永三年説があり、名も「正武」と、一般に知られている |
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「昌武」があり、除籍簿に書かれている「嘉永元年」と「正武」が正しいと思われるので |
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採用した。御存知、局長近藤勇の養子となったのだが、池田屋事変前と後の説があり、 |
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前者は、事件後信用を落として離縁されてしまうと延べ、後者は、事件当日の胆力が決め |
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てとなり、縁組されたとしている。池田屋事変では、褒賞金十五両を賜っている。 |
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慶応三年幕府召抱えでは、見廻組並という幹部として名を連ねている。永年、鳥羽伏見の |
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戦いで戦没したとされていたが、大阪で新選組を離れ、明治三十四年十二月二日に没する |
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まで、明治五年に大坂府の巡査となり、明治十三年に神戸にて播田つると結婚し、明治二 |
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十年に離縁している。その後、三陽鉄道に奉職。 |
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島田魁の「英名録」には、備中松山近藤周平と名があるが「京ヨリ會津迄人数」では、脱 |
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走の印があり「谷周平」とされている。永倉新八の「同志連名記」には、平同志。横倉甚 |
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五郎もまた「谷周平江戸にて脱走」と記している。近藤周平から、谷周平姓に戻っている |
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訳は、慶応三年六月二十三日に、板倉伊賀守報告書に記されている。公文書に関わらず、 |
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近藤周平から谷周平に戻っている事が読み取れる。この時期に近藤勇から離縁され、旧姓 |
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に復帰したものと思われる。兄、谷万太郎も幕府召抱えに洩れている事から、いわくがあ |
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るのであろう。 |
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■ 御 家 紋 ■ |
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会計方、調役見廻組並、陸軍奉行添役 |
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中島登の書簡では、肥後と書き残すも備中足守といわれている。天保十年生まれで、大坪 |
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馬術の遣手で、馬術師範でもあった。慶応三年、幕府召抱えで、吉村貫一郎、大石鍬次郎 |
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らと、調役見廻組並の幹部に名を連ね、才介となっているが、新選組行軍録では、大石鍬 |
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次郎と並んで安富才輔と記録されている。会計方でもあり、金銀出入帳に数多くの記録が |
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見られる。江戸に引き上げるも、新選組に従い甲州勝沼の戦いにも参戦。會津では、隊長 |
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就任の山口二郎の助役となっているが、流山から立川主税らを引き連れ、銚子から棚倉を |
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経て三代から、會津入りをする。會津入りについては、土方歳三を護衛しての、島田魁、 |
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中島登の組と、粂部正親が引率した負傷者組等に別れる。 |
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箱館では、土方歳三が陸軍奉行並に選出され、その側近である、陸軍奉行添役として、新 |
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選組本隊とは離れての行動となった。安富才介といえば「早き瀬に力足らぬか下り鮎」と |
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いう、土方歳三討死の追悼の句であろう。歳三が死んで五日経った十六日に、認めた書翰 |
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の中である。明治二年五月二十一日、称名寺に収容された降伏人名簿に、安富才介の名が |
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ある。釈放後に東京にて、高台寺党の生き残りである、阿部十郎に殺害されたといわれて |
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いるが、定かではない。 |
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陸軍奉行添役 |
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美濃大垣産。通称を利三郎と称し名は義時という。弘化元年に生まれる。永倉新八は、大 |
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坂浪士で平同士としているところから、早期入隊とする向きがあるが、慶応三年幕府召抱 |
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えの中には、仮同士としても記録されておらず、土方歳三が江戸下りをして募集した時の |
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入隊と思われる。島田魁の「京都ヨリ會津迄人数」にそれを裏書きする如く、局長附人数 |
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五十三人中の一人として名を連ねている。 |
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野村利三郎の存在が浮かび上がってくるのは、近藤勇が流山で、官軍に投降した時からで |
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ある。薩摩藩有馬藤太に従って、板橋に連行されたおりに、村上三郎と野村利三郎が附添 |
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った。途中、村上三郎は流山に戻ったが、野村利三郎は官軍に捕らえられ後刻、近藤勇に |
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文を届けに来た、相馬肇とともに近藤勇の処刑まで監禁された。釈放の後に彰義隊の生き |
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残りである、春日左衛門とともに転戦しながら、仙台に至るのだが、野村利三郎と相馬肇 |
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は、新選組の武勇に恥じぬ働きを続けた。箱館に渡航後は、陸軍奉行添役として、箱館市 |
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中取締新選組差図、相馬主殿と同等の役に任ずる。土方歳三が新選組から離れ、榎本軍の |
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幹部となった事から、安富才介もまた、土方附添役となったが、利三郎は側近役として、 |
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明治二年三月二十五日、宮古湾の奇襲に先陣を受け賜わる。 |
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戦死の状況を中島登の新選組絵姿集に曰く |
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野村利三郎源義時 行年二十六 |
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元濃州大垣ノ藩ナリ。於京地二新選組ヱ加入シ勤功多シ。 |
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生質剛直二シテ、好酒事二臨ンデ澆マズ、一己ノ英雄也。 |
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後チ夷島二渡リ、巳ノ三月二十五日、回天艦二乗シテ、 |
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南部鍬ヶ崎港二到リ、甲鉄艦二接戦二及ブノ時、敵艦二乗移リ |
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四方二当テ奮激突戦シ、終二甲鉄艦二花々敷討死セリ。 |
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敵モ味方モ惜マヌ者ゾ無カリケリ。箱館称名寺二墳墓ヲ残ス。 |
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諸士取扱役兼監察役、調役見廻組並 |
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天保九年、大石捨二郎の子で、武州江戸の産である。人斬り鍬次郎の異名を持ち、京都守 |
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護職邸での佐野七五三之助らの暗殺や、油小路での伊東甲子太郎の殺害。さらには、天満 |
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屋騒動、三条制札事件と血の匂いのするところに、必ず大石の名が出る。 |
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慶応二年二月に実弟で一橋家臣大石造酒蔵が死亡し、相続問題で東下した。造酒蔵は今井 |
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祐次郎による殺害ともされるが、土方歳三の手紙によれば病死である旨が記されている。 |
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同年の三条制札事件では目付として千疋の褒賞金を得た。慶応三年六月の幕府召抱えでは、 |
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調役見廻組並の幹部に名を連ねる。この召抱えに反対した佐野らが会津藩に脱隊を申入れ |
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を承認されずに切腹した事件では、切腹ではなく、大石らが襲撃して突き刺したと云われ |
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ており、遺体の検死中に蘇生した佐野の一太刀を浴びて負傷したとされる。十一月には、 |
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油小路事件で伊東甲子太郎らを斬殺。十二月には斎藤一らと護衛をつとめていた天満屋襲 |
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撃事件にも参戦している。しかし、甲州勝沼の戦い後、五兵衛新田の金子左内の家には顔 |
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を出してはいるが、流山で脱走する。横倉甚五郎は、江府二テ脱走、と認めている。その |
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大石が、明治平定後、薩摩に寝返った三井丑之助の探知するところとあいなって捕縛され、 |
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坂本竜馬殺害事件の取り調べを刑部省から受け、明治三年十月十日、千住小塚原刑場にて |
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処刑される。 |
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一説には、官軍の加納道之助を訪ねて、仕官の願いを出したが許されず、捕縛されたもの |
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とも云われている。入隊前は旧一橋家臣と云われているし、日野では、大工であったとい |
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う話も残されている。 |
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■ 剣客剣豪 ■ |
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