平隊士 |
元備中松山藩士で、文政九年に江戸で生まれる。慶応四年に、板倉勝静が、江戸を脱した |
さいに同行し、會津から米沢を経て、仙台に至り、九月中旬に入隊する。蝦夷へ渡航し、 |
十一月に江差で、旧幕艦開陽丸が沈没したさいには、家臣への褒美用に、仙台より、持参 |
した刀剣類の入った、大小の箱の探索を命じられるが、発見することは出来なかった。 |
明治二年四月ごろの編成で会計方となり、五月十一日の箱館総攻撃では、武部銀次郎とと |
もに、箱館山から逃げ延びたことが記録され、弁天台場に籠城して、十五日に降伏した。 |
弘前の薬王院に収容されたのちに、東京送りとなり、芝の最勝院で、旧藩に引き渡され、 |
三年一月に放免となった。 |
平隊士 |
美濃本巣郡真桑村の郷士長左衛門の次男として天保十四年に江戸で生まれ、御家人として |
本所松井町に住居していた。戊辰戦争にさいしての行動は不明で、入隊時期、場所ともに |
判然としない。明治二年四月ごろの編成で、第一分隊に所属し、五月十五日に弁天台場で |
降伏後、弘前の薬王院に収容されたのち、東京送りとなった。 |
平隊士 |
榊沢とも。藤馬、東馬とも称す。盛岡藩士柳沢寿太郎の子として盛岡に生まれる。新選組 |
入隊までの経緯は不明だが、伝習第一大隊と、行動をともにしていたとされる。明治二年 |
四月ごろの編成で、第三分隊に所属し、五月十五日に弁天台場で降伏後、弘前の薬王院に |
収容されたのち、東京に送られて、旧藩に引き渡しとなり、三年一月に放免された。 |
平隊士 |
本名は高田錠之助。備中松山藩士高田亘の子として、嘉永五年に江戸で生まれる。御供番 |
をつとめ、慶応四年二月に板倉勝静が、江戸を脱して、日光へ向かったさいに同行し、勝 |
静の投降時にも従い、宇都宮城攻略戦の混乱にさいして會津に入った。九月中旬、仙台で |
入隊し、明治二年四月ごろの編成で、第三分隊に所属となり、五月十一日の箱館総攻撃で |
は、寒川の番所に詰めており、市中に引き上げたことが、記録される。十五日に弁天台場 |
で降伏ののち、弘前の薬王院に収容され、東京へ送られて、旧藩に引き渡しののち、三年 |
一月に放免となった。 |
平隊士 |
旗本若田重三郎義章の三男として、嘉永四年一月二日に江戸で生まれ、麻布古川町に住居 |
していた。新選組入隊の時期、場所ともに不明だが、明治二年四月ごろの編成で、第一分 |
隊に所属し、五月十五日に弁天台場で降伏している。弘前の薬王院に収容ののち、再び、 |
弁天台場に送られ、三年四月に静岡藩に引き渡され、放免となった。大正八年六月十八日、 |
六十九歳で死去する。 |
平隊士 |
山城淀に生まれる。入隊の時期、場所ともに不明だが、戦功があって、歩兵から、隊士に |
取り立てられ、明治二年四月ごろの編成では、第二分隊に所属し、それ以前には、西組二 |
番として、市中取締の任にあったことが記録されている。五月十五日に弁天台場で降伏し、 |
弘前の薬王院に収容されたのちに、東京に送られた。 |
平隊士 |
元會津藩士で、天保十四年に生まれる。間宮魁や宮氏岩太郎の名簿には、新選組隊士と記 |
録されるが、明治元年十一月五日の松前城攻略戦において、死亡していることから、土方 |
歳三の指揮下にあったことは確かだが、浅倉隼之助の回天隊としての出陣であって、新選 |
組隊士とは認めがたい。二十六歳。 |
平隊士 |
越前鯖江藩士の坂井宇右衛門の子として、弘化二年に、越前で生まれる。慶応四年三月に |
江戸を脱し、第七聯隊に加入する。鴻之台集結の旧幕軍に合流し、宇都宮城防衛を経て、 |
柏崎の桑名軍で、神風隊に所属した。転戦して會津に入り、九月中旬に仙台で入隊して、 |
蝦夷地に渡る。明治二年四月ごろの編成では、第四分隊に所属し、それ以前にも市中警備 |
の任にあったことが、記録されている。五月十五日に弁天台場で降伏し、弘前の薬王院に |
収容されたのちに東京へ送られ、旧藩へ引き渡しとなって、三年一月に放免となった。 |
平隊士 |
慶応三年九月の薩摩藩目付の文書に「薩大隅侯、京都に於いて壬生浪士にて池田 |
庄司と唱え候者、御抱え入に相成り候由の事」とある人物だが、事実関係は不明。 |
平隊士 |
唐津藩士前場善之助景正の長男として、弘化三年七月十五日に唐津で生まれる。慶応四年 |
三月に小笠原長行が、江戸を脱したさいに同行し、九月に白石より仙台に向かい、中旬に |
入隊する。蝦夷渡航後、明治二年四月ごろの編成で、第三分隊嚮導役となり、五月十五日 |
に弁天台場で降伏し、弘前の薬王院に収容された後、東京に送られ、旧藩に引き渡されて、 |
三年一月に放免となる。 |
平隊士 |
間宮魁の名簿には、松前戦死の新選組隊士と記録され、死亡時期は不明だが、新選組に関 |
連があるとすれば、明治元年十一月五日の、松前城攻略戦においてのものと思われる。 |
回天隊の出陣とあって、新選組隊士とは認めがたい。 |
平隊士 |
唐津藩家老前場幸右衛門景福の子として、天保十二年七月九日に唐津で生まれる。城内大 |
手小路に住居し、慶応四年一月には、家老となる。同年二月に、小笠原長行が江戸を脱し |
たため、五月には、旧幕艦長鯨に乗り込んで平潟に至り、三好胖らと會津に入った。以後、 |
城下に滞在していたが、新政府軍の進攻に仙台に向かい、九月中旬に入隊する。蝦夷渡航 |
後の、明治二年一月に新選組を離れて長行に従い、四月には長行とともに箱館を脱した。 |
維新後も小笠原家に仕えたのち、政府に出仕するが、やがて東京や郷里で、教鞭をとり、 |
小笠原流礼法師範となって、明治三十八年十一月二十四日に死亡する。 |
平隊士 |
永倉新八は「土方歳三箱館へ脱走のさい募集せし同志なり」として、新選組慰霊碑には、 |
會津戦争での犠牲者の位置に名前がある。五兵衛新田から會津戦争前までの入隊だろうか。 |
平隊士 |
真ヶ崎とも称す。天保十一年江戸に生まれ、箱館奉行所支配蝦夷地在住で、浦河場所牧場 |
掛をつとめた元旗本。入隊の時期、場所とも不明だが、明治二年四月ごろの四分隊編成で |
第三分隊に所属し、五月十五日に弁天台場で降伏した。弘前の薬王院に収容ののち、再び |
弁天台場に送られ、三年四月に、静岡藩引き渡しとなって放免される。 |
平隊士 |
稲葉五六郎、伊藤竜馬と称す。下総銚子出身。水戸天狗党の筑波山挙兵にさいして、獄中 |
の同志を救出するために、目明かしを殺害し、その後、京都へ逃亡して慶応元年ごろ入隊 |
したが、まもなく身元を怪しまれたために脱走した。慶応三年には、沢五六郎の名前で、 |
江戸薩摩藩邸に集結する浪士に合流し、相楽総三の赤報隊に加盟している。稲芳雄三郎と |
同一人物かと思われる。 |
平隊士 |
徳三郎とも称す。天保十一年に、清水家近習の松井八十五郎の子として、江戸に生まれ、 |
四ツ谷左門町の組屋敷に住居した。近藤勇の妻ツネの弟。新選組入隊までの経緯は不明で、 |
入隊後は、明治二年四月ごろの編成で、第一分隊に所属し、それ以前にも、東組二番の一 |
員として、市中警護の任にあったことが記録されている。五月十五日に弁天台場で降伏し、 |
弘前の薬王院から弁天台場に再び送られ、三年四月に静岡藩引き渡しとなって放免された。 |
隊士 |
慶応三年四月十九日に中山忠能邸を訪れた隊士で、中山の日記に「新選組 |
入崎丞、田中一、両人来乞面会由」と記録される。山崎烝の誤記とみられる。 |
平隊士 |
三河岡崎駕籠駄町の農民安三の子として、嘉永三年に生まれる。入隊の時期、場所ともに |
不明で、戦功があって、歩兵から隊士に取り立てられたという。明治二年四月ごろの編成 |
で第一分隊に所属し、それ以前には、山背泊見廻りの任にあったことが記録されている。 |
五月十五日に弁天台場で降伏し、弘前の薬王院に収容されたのち、東京へ送られた。 |
平隊士 |
若狭大飯郡本郷村の豪農船谷善兵衛の次男として生まれる。幼名を金蔵。京都に遊学し、 |
のちに入隊するが、近藤勇と意見が合わずに、郷里に帰ったと伝わる。三年後に再上洛し |
たが、三条大橋近くで殺害されたという。 |
平隊士 |
弘化三年に江戸で生まれ、伝習第一大隊嚮導役をつとめる。慶応四年四月に江戸を脱走し、 |
鴻之台集結の旧幕軍とともに宇都宮、今市、會津と転戦し、八月の母成峠の戦いに敗れ、 |
九月中旬に仙台で入隊した。蝦夷渡航後、明治二年四月ごろの編成で、成合清とともに、 |
差図役下役となり、五月十五日に弁天台場で降伏する。弘前の薬王院に収容されたのちに |
再び、弁天台場へ送られ、三年四月に静岡藩引き渡しとなって放免。 |
平隊士 |
大月、大都奇とも称す。元治元年ごろに在隊し、諸士取調役兼監察をつとめたが、離隊時 |
期は不明。時期不明ながら備後で獄中死したとされる。安政年間に江戸の玄武館で北辰一 |
刀流を修行していた記録があり、天然理心流を試衛館で学び、近藤勇らとも親交があった。 |
平隊士 |
元唐津兵で、山際平吉の長男として、弘化三年二月十五日に江戸で生まれる。慶応四年五 |
月に前場小五郎とともに江戸を脱し、旧幕艦長鯨で平潟に入り會津に向かう。八月の母成 |
峠の戦いに敗れ、三好胖に従って、白石から仙台に出て、九月中旬に入隊した。蝦夷に渡 |
航して、明治二年四月ごろの編成で、第四分隊に所属し、五月十五日に、弁天台場で降伏 |
して弘前の薬王院に収容される。その後、東京へ送られて、旧藩に引き渡され、明治三年 |
一月に放免された。 |
平隊士 |
久助とも称す。元會津藩士で、弘化二年に生まれる。松前の法華寺にある墓碑には「明治 |
二十二年己四月戊辰役松前二テ戦死元會津藩士大庭久輔」とあり、間宮魁の名簿には、松 |
前戦死の新選組隊士と記録される。明治二年の松前戦に、新選組は参戦しておらず、隊士 |
とは認めがたいのだが、同年一月前後には、西組一番の一員として、市中警護の任にあっ |
たことが記録されている。一時的に入隊していたということなのだろうか。四月二十日に |
法華寺墓地で、切腹している二名が発見され、その一方が久輔だった。二十五歳。脱漏が |
あるようだがどちらかの辞世として「命をばさらに惜しむむしの心に懸かる花の行く末」 |
の和歌が伝えられる。 |
平隊士 |
唐津に生まれ、唐津藩士山久知又左衛門高安の養子となる。慶応四年三月に小笠原長行が、 |
江戸を脱したさいに同行し、會津に入って大野右仲らと長岡に出張し、また長行に従って |
白石へ赴く。やがて仙台へ向かい、九月中旬に入隊して、蝦夷に渡る。明治元年十月二十 |
四日に、七重村の戦いで負傷するが、明治二年四月ごろの編成で、差図役並となり、それ |
以前には、西組二番として、市中取締の任にあったことが記録されている。五月十五日に |
弁天台場で降伏し、弘前の薬王院に収容後に、東京に送られ、旧藩に引き渡されて、明治 |
三年一月に放免。 |
平隊士 |
慶応四年一月十一日、大阪の天満橋に梟首された人物で、長州の名を騙って町家で狼藉を |
働いていたとの風聞が伝わり、身分について、新選組隊士とする記録もある。桜井数馬、 |
あるいは宮川数馬の変名だろうか。 |
平隊士 |
京都壬生村の浪人林五郎左衛門の子として生まれ、永井尚志に仕えていた。山崎烝の弟と |
思われる。新選組入隊の時期、場所ともに不明だが、明治二年四月ごろの編成で、第四分 |
隊に所属し、それ以前にも、市中警護の任にあったことが記録されている。五月十五日に |
弁天台場で降伏し、弘前の薬王院に収容ののち東京に送られ、名古屋藩に引き渡された。 |
三年一月に禁錮が解かれ、五年六月に放免される。 |
平隊士 |
永倉新八が「土方歳三箱館へ脱走のさい募集せし |
同志なり」とする人物だが、これ以外に記録はない。 |
隊士 |
鳥羽伏見の戦いの戦死者を記した「戊辰東軍戦死者霊名録」で隊士とされ、慶応四年一月 |
五日に淀の死亡とあるが、文政十二年生まれの見廻組隊士であることが、判明している。 |
同年付の記録があることから、生存の可能性は高い。 |
平隊士 |
西村兼文の「新撰組始末記」に、慶応元年五月ごろに入隊した元力士とされ、文久三年十 |
一月に、京都の薩摩藩邸で同名の力士が、相撲をとっていたことが確認される。同一人物 |
だった可能性もあるが、入隊時に四股名を捨てたため、隊士としての名前は不明。 |
隊士 |
鳥羽伏見の戦いの戦死者を記した「戊辰東軍戦死者霊名録」で隊士とされ、慶応四年一月 |
五日に淀の死亡とあるが、文化六年生まれの會津藩士で、會津戦争に参戦して負傷し、同 |
年十月三日に六十五歳で、入院中に死亡した事が判明している。 |
隊士 |
清助、情助とも称す。元水戸藩士で、松前の法華寺にある。墓碑には「明治二年己四月二 |
十戊辰之役松前二テ戦死元水戸藩士関清輔」とあり、間宮魁の名簿には松前戦死の新選組 |
隊士と記録される。明治二年の松前戦に新選組は参戦しておらず、隊士とは認めがたい。 |
平隊士 |
上田馬之介、上原馬之介、植原右馬之助とも。遠江浜松の出身で、安政元年に生まれる。 |
慶応三年六月以降に入隊し、両長召抱人となる。翌年一月の鳥羽伏見の戦いを経て、江戸 |
に帰還し、五兵衛新田駐屯から、會津に戦い蝦夷に渡航す。箱館では、土方歳三付属とな |
り、松前もしくは、江差で捕縛されたという。また松前で戦死ともされているが、定かで |
はない。 |
平隊士 |
慶応三年四月十九日に中山忠能邸を訪れた隊士で、中山の日記に「新選組入崎丞、田中一、 |
両人来乞面会由」と記録される。入崎は山崎烝の誤記で変名でないことから、田中も変名 |
ではないと思われるが、該当する隊士はいない。 |
平隊士 |
永倉新八の「同志連名記」に平同士と記載し、新選組慰霊碑にも名前が |
刻まれており、同碑建立の、明治九年までの死亡者ということになる。 |
平隊士 |
永倉新八の「同志連名記」に平同士と記載されるのみで、岡田五郎の誤記と思われる。 |
平隊士 |
間宮魁の名簿には、松前戦死の新選組隊士と記録され、死亡時期は不明だが、新選組に関 |
連があるとすれば、明治元年十一月五日の、松前城攻略戦においてのものと、思われる。 |
回天隊としての出陣であって、新選組隊士とは認めがたい。 |
The music produced byDR(零式)さん