歩兵指図役什長 |
弘化三年、阿波徳島にて生まれる。慶応元年七月までの、京坂における隊士募集に応じて |
入隊し、慶応二年九月の三条制札事件に出動して、千疋の褒賞金を賜った。慶応三年六月 |
の幕臣取立で、平士として見廻組並御雇の格を受け、後に伍長となる。翌年の鳥羽伏見の |
戦いを経て江戸に帰還し、會津では什長を勤め、六月の猪苗代湖南の三代で作成された、 |
名簿でも歩兵指図役什長とあり、八月二十一日の會津母成峠の戦いにおいて、戦死した。 |
行年二十三歳。元治元年十月に江戸で入隊した、木下弥三郎が、上洛後に改名したものと |
考えられる。新選組慰霊碑に名を連ねる。中島登の戦友絵姿にも勇姿が描かれている。 |
隊長附 |
天保十四年、甲州に生まれる。荒井とも。名を波磨男、破魔雄とも称する。慶応三年六月 |
以降に入隊した。局長附人数となる。翌年の鳥羽伏見の戦いを経て、江戸に帰還し、流山 |
より、會津入りした。五月一日の白河口の戦いで負傷したが、六月に猪苗代湖南の三代で |
作成された名簿では、隊長附を勤めている。八月の母成峠の戦いに敗れたのち、山口二郎 |
こと、斎藤一らと會津に残留し、九月に如来堂守備中を襲撃され、戦死した。 |
行年二十六歳。新選組慰霊碑に名を連ねる。中島登の戦友絵姿にも描かれている。 |
平隊士 |
天保九年、大阪で生まれる。湊とも称する。慶応三年江戸五兵衛新田駐屯までに入隊し、 |
四月に近藤勇が投降すると、島田魁らと土方歳三に従って、旧幕軍と宇都宮などを戦う。 |
會津で新選組本隊と合流し、六月に猪苗代湖南の三代で作成された名簿では、籠役を務め |
ている。八月の母成峠の戦いで討死する。新選組慰霊碑には湊一郎の名で連ねている。 |
中島登の戦友絵姿にも勇姿が描かれている。 |
歩兵差図役下役 |
連三郎、伝三郎とも称する。慶応三年六月以降に入隊し、局長附人数となる。翌年の鳥羽 |
伏見の戦いを経て、江戸に帰還し、會津では什長下役となり、六月に猪苗代湖南の三代で |
作成された名簿では、歩兵差図役下役とある。八月二十一日の母成峠の戦いで討死する。 |
新選組慰霊碑に名を連ねている。中島登の戦友絵姿にも勇姿が描かれている。 |
平隊士 |
弘化四年、唐津藩士小久保弥吉の長男として生まれる。小久保姓が正しい。三好胖の従者。 |
三好胖に従って、江戸から會津に入り、九月中旬仙台で新選組に加盟入隊した。蝦夷渡航直 |
後の明治元年十月二十四日、七重村の戦いに参戦。三好胖が討死し、仇を討とうとして銃撃 |
を浴び死亡した。行年二十二歳。遺体は三好とともに七重村の宝琳庵に葬られたが、佐賀県 |
唐津市西寺町の近松寺にも、墓碑が建立されていたという。新選組慰霊碑にも名前を連ねて |
いる。中島登の戦友絵姿にも勇姿が描かれている。 |
番兵取締 |
弘化四年生まれの元唐津藩士で、栗山とも称す。彰義隊の戦いに参戦し、三好胖とともに |
旧幕艦長鯨で平潟に出て、會津入りをする。八月の母成峠の戦いに敗れて、仙台に向かい、 |
九月中旬に新選組に加盟入隊す。蝦夷渡航直後に病気のため、峠下村に療養するが、明治 |
二年一月前後には、番兵取締の任にあったことが記録される。五月十一日の箱館総攻撃で |
弁天台場において討死した。行年二十三歳。新選組慰霊碑に栗山仙之助と刻まれ、箱館市 |
船見町の称名寺に慰霊碑があり、古くは墓碑もあった。中島登の戦友絵姿にも勇姿が描か |
れている。 |
歩兵差図役下役 |
弘化三年、陸奥弘前の出身である。慶応三年六月以降に入隊し、局長附人数となる。翌年 |
一月の鳥羽伏見の戦いを経て、江戸に帰還し、會津では什長下役を務め、六月に猪苗代湖 |
南の三代で作成された名簿では、歩兵差図役下役とある。八月の母成峠の戦いで討死する。 |
新選組慰霊碑に名を連ねている。中島登の戦友絵姿にも勇姿が描かれている。 |
平隊士 |
嘉永五年、安房の出身で永島とも、五良作、五郎助とも称す。慶応三年六月以降に入隊し、 |
両長召抱人となる。翌年の鳥羽伏見の戦いを経て、江戸に帰還し、會津戦争後に蝦夷へ渡 |
航した。明治二年の二股口の戦いに戦功があったとされるが、これに新選組は、出陣して |
おらず、事実とすれば、土方歳三に付属しての参戦と思われる。同年五月十一日の箱館総 |
攻撃で箱館山の防衛戦に討死した。行年十八歳。新選組慰霊碑に名を連ねている。 |
中島登の戦友絵姿にも勇姿が描かれている。 |
伍長、大砲差図役 |
天保四年、美作津山、相模の出身ともいわれる。慶応元年五月、土方歳三の江戸での隊士 |
募集に応じて上洛し、慶応三年六月の幕府取立ての儀では平士として、見廻組御雇の格を |
受け、伍長を務める。翌年の鳥羽伏見の戦いを経て、江戸に帰還し、會津では大砲差図役 |
となる。八月の母成峠の戦いののちに山口二郎らと會津に残留し、九月五日に如来堂守備 |
中を襲撃されて死亡とされるものの脱出して、東京で病死した。 |
中島登の戦友絵姿にも勇姿が描かれている。 |
平隊士 |
弘化二年、京都の出身である。牛五郎とも称す。新選組入隊までの経緯は不明だが、歩兵 |
として入隊し、戦功があって、隊士に取り立てられたという。蝦夷地では、明治二年一月 |
前後には西組一番として、市中取締の任にあったことが記録されており、五月二日の七重 |
浜夜襲で負傷し、五月十一日の箱館総攻撃の際に、弁天台場で討死した。行年二十五歳。 |
新選組慰霊碑に名を連ねている。中島登の戦友絵姿にも勇姿が描かれている。 |
嚮導役 |
天保十一年に生まれる。元幕臣で、十一郎、糟谷伊三郎とも称する。慶応四年三月に結成 |
された回天隊に加わり、江戸を脱し、大鳥圭介の旧幕軍とともに北関東を転戦して、會津 |
に入り、八月の母成峠の戦いに敗走して、蝦夷へ渡航。明治二年一月十五日、青山次郎と |
ともに入隊したものと思われる。嚮導役を勤めたが、箱館総攻撃の五月十一日、寒川警備 |
中に襲撃され、箱館山で討死した。長州兵五名と斬り合いとなって、三名を傷つけたが、 |
ついに額を割られて死亡したと風聞が伝えられる。新選組慰霊碑には、粕屋十一郎として |
名を刻まれている。中島登の戦友絵姿にも勇姿が描かれている。 |
器機方下役 |
天保九年、江戸生まれる。慶応四年三月の五兵衛新田駐屯以降の入隊で、六月に猪苗代湖 |
南の三代で作成された名簿では、器機方下役とある。八月の母成峠の戦いに敗れて、山口 |
二郎らと會津に残留し、九月五日に如来堂守備中を襲撃されて、戦死したとされるが、如来堂 |
を脱した隊士は多く、死亡の確認はされていない。 |
中島登の戦友絵姿にも勇姿が描かれている。 |
平隊士 |
備中出身で、文久三年五月までに入隊し、同月二十五日に壬生浪士組三十四名が、連名で |
幕府に提出した上書に名前を見せ、八月十八日の政変に出動したものと思われる。 |
同年九月二十五日、御倉伊勢武らを永倉新八とともに暗殺を計るが、未然に逃げられた。 |
元治元年の池田屋事変では、土方歳三に属して池田屋屋外の守備につき、褒賞金十五両を |
賜る。同年十二月の編成では、尾関雅次郎とともに旗役として、行軍の先頭を勤めたが、 |
慶応三年六月以前に離隊した。 |
隊長附 |
嘉永二年生まれの丹波篠山の出身である。駿太郎とも称す。慶応三年六月以降に、入隊し、 |
駿太郎とも称す。慶応三年六月以降に、局長附人数となる。翌年一月の鳥羽伏見の戦いを |
経て、江戸に帰還し、五兵衛新田駐屯後に會津入りした。六月に猪苗代湖南の三代で、作 |
成された名簿では、隊長附とある。八月の母成峠の戦いに敗れて、山口二郎らと會津に残 |
留し、如来堂守備中に襲撃されて、戦死とされるが、粂部正親らと脱出して、十月に銚子 |
警備の高崎藩兵に降伏した。中島登の戦友絵姿にも勇姿が描かれている。 |
平隊士 |
天保六年生まれで、武州川越出身である。名を二郎、正忠、忠利とも称す。北辰一刀流を |
使い、同郷の中西登と江戸深川の伊東甲子太郎道場で、師範代を勤めていたが、元治元年 |
十月、近藤勇の江戸での隊士募集に応じて、伊東らとともに上洛し、十二月の編成では、 |
谷三十郎の八番大砲組に所属した。慶応二年六月に柴田彦三郎が脱走すると、松本喜次郎 |
らと出石まで追跡して、屯所に連行し、九月の三条制札事件では、原田左之助の七番組に |
所属して戦い、褒賞金二十両を賜わる。翌年三月に伊東らと、新選組から分離して、御陵 |
衛士となり、十一月の油小路事件では、安部十郎と御蔵ヶ池で狩猟中で難を免れた。事件 |
を知って、阿部とともに京都土佐藩邸に庇護を求めるが謝絶され、東山の戒光寺に潜伏し |
た後、伏見の薩摩藩邸に保護される。十二月十八日には、安部らと近藤の妾宅で、療養中 |
の沖田総司を襲撃するが、すでに伏見奉行所に出立していたため果せず、市内で近藤勇を |
発見すると、伏見の薩摩藩邸にとって返し、富山弥兵衛らと、待ち伏せて銃撃した。 |
翌年一月の鳥羽伏見の戦いでは、御陵衛士の残党と薩摩軍に加わって戦ったと思われるが |
以後の消息は不明である。 |
平隊士 |
文政六年、阿波徳島で生まれる。神陰流剣術、日置流雪管派弓術を使った。元治元年十月、 |
近藤勇の江戸での隊士募集に応じて上洛し、十二月の編成では、原田左之助の小荷駄雑具 |
の組に所属した。勘定方も勤め、慶応元年二月山南敬助の埋葬に際して、山崎烝と三月の |
大谷良助の埋葬に際して、酒井兵庫と頼越人として光縁寺を訪れている。慶応三年六月の |
幕臣取立で、平士として見廻組並御雇の格を受けたが、翌年の鳥羽伏見の戦いを経て江戸 |
に帰還した後に離隊する。明治二年五月に、京都で不審人物として捕縛されたが、以後の |
消息は不明である。 |
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